星屑のレクイエム、虹のカンタータ
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星屑のレクイエム、虹のカンタータ

第一章 色褪せた調律師

俺の工房は、いつも静寂に満ちていた。棚に並ぶガラス瓶の中には、俺がこれまで生み出してきた『感動の結晶』が、まるで埃を被ったビー玉のように鈍い光を放っている。かつて、それらは人の心を震わせるほどの喜びや、胸を締め付ける悲しみに触れるたび、俺の体内から生まれ、ルビーのように赤く、あるいはサファイアのように青く輝き、それぞれが固有の音色を奏でていた。

だが、今は違う。

窓の外に広がる空は、星の数を減らし、薄墨を流したように淀んでいる。それに呼応するように、俺が生成する結晶は、どれも色を失ったただの灰色のかたまりになってしまった。掌に載せても、かつてのような温かみはなく、ひんやりとした石ころのようだ。耳を澄ませても、聞こえるのは、ガラスが軋むような、か細く不快な音だけ。

人々は、感動を忘れた。

街を歩けば、誰もが穏やかで、満ち足りた顔をしている。争いもなく、嘆きもない。だが、心からの笑顔も、涙もない。彼らの感情は、凪いだ水面のように平坦で、どんな石を投げ込んでも、さざ波ひとつ立たないのだ。

俺は、リオ。この世界で最後に残された、結晶を紡ぐ『調律師』。この静かすぎる世界で、失われた音色を探し続けている。

第二章 星屑の記憶

祖父はよく言ったものだ。「空の星はな、誰かが本気で感動した証なんだ。人が心の底から震えた時、その一番大事な記憶が星屑になって空へ昇る。だから、星空が美しいほど、世界は豊かなのさ」

幼い俺は、その言葉を信じていた。ダイヤモンドダストのように輝く天の川を見上げるたび、無数の人々の喜びや驚きが、夜空を渡る風の音に乗って聞こえてくるような気がした。そして、誰かの大きな感動に共鳴するたび、俺の胸からは色鮮やかな結晶が生まれ、祖父はそれを優しく受け止め、「今日の星は、お前のためのものだな」と微笑んだ。

その祖父が遺してくれたのは、この工房と、机の上に置かれた一つの木箱だけ。中には、乳白色の石が入っている。手のひらに収まるほどの大きさの、色を失った『虹の欠片』。かつて、この世界が真の感動で満ちていた頃、空を覆っていたという巨大な虹の一部だと伝えられている。

俺はそっと欠片に触れる。ひんやりとして、滑らかで、何も語らない。だが、祖父は言っていた。世界に再び色が戻る時、この欠片は失われた全ての記憶を呼び覚ます、と。

この澱んだ空の下で、その言葉だけが、俺の唯一の希望だった。

第三章 悲しみの響き

ある雨上がりの午後、俺は市場の裏路地で、小さな背中を見つけた。肩を震わせ、必死に声を殺して泣いている少女だった。足元には、動かなくなった小鳥が横たわっている。

「どうしたんだい?」

声をかけると、少女は潤んだ瞳で俺を見上げた。

「……ポポが、もう、歌ってくれないの」

その瞬間だった。少女の小さな胸から溢れ出す、純粋で、どうしようもない喪失の感情。それは鋭い針のように俺の胸を刺した。だが、痛みと同時に、忘れていた感覚が全身を駆け巡る。

ズキン、と胸の中心が熱を持った。

久しぶりの、結晶が生まれる兆候。

俺は工房に駆け戻ると、震える手で胸を押さえた。やがて、ゆっくりと掌に現れたのは、小さな雫の形をした結晶だった。それは、夜明け前の空の色を映したような、深く、澄んだ青色をしていた。

耳元へ持っていく。

リーン……。

哀しく、しかしどこまでも美しい、鈴のような音色が響いた。

それは、何年も聞いていなかった、『本物の感情』が奏でる音だった。

少女の悲しみ。それが、この色褪せた世界に、最初の色と音を取り戻したのだ。俺は青い結晶を握りしめ、ひとつの確信にたどり着く。感動は、喜びや幸福だけで生まれるものではない。

第四章 不協和音の仮説

俺は工房の奥深く、祖父が遺した古文書の山に埋もれた。少女の悲しみが生んだ青い結晶が、机の隅で静かな光を放っている。あの哀しい音色こそが、この世界の謎を解く鍵に違いなかった。

羊皮紙のページをめくる指が、ある記述の上で止まった。

『大調和時代。賢者たちは、あらゆる争いと苦しみの根源たる負の感情を世界から根絶することを誓った。彼らは星々の力を集め、世界全体を覆う巨大な音叉―――《静寂の揺り籠》を創り出した。それは、人々の心から悲しみ、怒り、苦痛といった〝不協和音〟を濾過し、永遠の平穏をもたらすための、究極の調律であった』

心臓が嫌な音を立てた。賢者たちの試みは、失敗したのではなかった。

成功してしまったのだ。

世界から悲しみが消えた。苦しみが消えた。その結果、人々は感動の裏側にあるものを失った。喪失を知らぬ者に、得る喜びは分からない。闇を知らぬ者に、光の眩しさは届かない。彼らは幸福なのではなく、ただ、何も感じられなくなっただけだ。星々の輝きが失われたのも、感動の源泉そのものが枯渇してしまったからに他ならない。

俺のこの体質は、その《静寂の揺り籠》から零れ落ちた、僅かな感情の澱みを拾い集めていただけだったのだ。そして今、世界は完全に調和し、澱みすら生まれなくなっていた。

第五章 調和という名の牢獄

俺が真実に気づいた、その夜。工房の扉が、軋むような金属音と共に内側へ倒れ込んできた。そこに立っていたのは、人間ではない。滑らかな白銀の装甲に身を包み、顔のない貌でのっぺりとこちらを見つめる、機械仕掛けの守護者だった。

《静寂の揺り籠》が、最後の〝不協和音〟である俺を排除しに来たのだ。

「見つけた。感情の特異点。これより調律を開始する」

無機質な声が響き、守護者の腕が青白い光を放つ。恐怖が全身を縛り付ける。だが、その時、俺の脳裏に浮かんだのは、路地裏で泣いていたあの少女の顔だった。この世界から、あの哀しくも美しい青い結晶の輝きまで奪わせてなるものか。

守りたい。

その強い想いが、恐怖を焼き尽くす。胸の奥が、今までにないほど灼熱を帯びた。守護者が光線を放つのと、俺が掌から深紅の結晶を生み出すのは、ほぼ同時だった。

ゴオッ、と脈打つような音を立てて生まれた結晶は、燃えるような紅。それは恐怖と、それを超える強い意志の色だった。結晶は光線を弾き返し、守護者は大きく後ずさる。

だが、一体、また一体と、新たな守護者が工房へ侵入してくる。俺は悟った。逃げ場はない。そして、この世界を救う方法は、もう一つしかないのだと。

第六章 最後の調律

俺は工房を飛び出した。ポケットの中には、青い雫と深紅の炎、そして色を失った『虹の欠片』。目指すは、街の中心に聳え立つ、古い鐘楼だ。かつて、感動が満ちていた時代に、人々の喜びを祝福する鐘の音が響き渡っていた場所。

守護者たちの追跡を振り切り、螺旋階段を駆け上がる。息が切れ、足がもつれる。だが、止まるわけにはいかない。

窓から見える街は、相変わらず静かだ。人々は窓辺に立ち、何事かとこちらを見ているが、その表情には何の感情も浮かんでいない。彼らは、自分たちが何を失ったのかさえ、気づいていないのだ。

鐘楼の頂上にたどり着く。冷たい夜風が頬を打った。淀んだ星空が、すぐそこにある。

俺は『虹の欠片』を両手で握りしめた。祖父の顔が、声が、脳裏をよぎる。ごめん、じいちゃん。俺は、じいちゃんが望んだような、世界を彩る調律師にはなれなかった。

でも、最後に一度だけ、俺自身の魂で、この世界を調律させてくれ。

不完全で、ちぐはぐで、哀しみに満ちているけれど、それでも心が震えるほど美しい、本当の音楽を。

第七章 虹の生まれる場所

俺は、天に『虹の欠片』を掲げた。そして、自らの身体を解放する。

「聴いてくれ! これが、俺たちの失くした歌だ!」

胸の中心から、光が溢れ出した。まず、少女の涙から生まれた青い雫の結晶が、哀しい鈴の音を奏でながら夜空へ舞う。次に、守護者への恐怖から生まれた深紅の結晶が、力強い鼓動のような響きを伴って続く。

そして―――俺の記憶の全てが、結晶となって溢れ出した。

祖父と笑い合った日の、陽だまりのような黄金色。初めて美しい音楽に触れた時の、畏敬に満ちた紫色。叶わなかった恋の、切ない桜色。怒り、嫉妬、後悔、希望。失われていた感情の全てが、無数の色と音色を伴って、俺の身体からほとばしる。

それは、壮大なシンフォニーだった。

結晶たちは星屑となり、空の星々に次々と火を灯していく。淀んでいた夜空が、みるみるうちにプラネタリウムのような輝きを取り戻していく。俺の身体は、足元から光の粒子となって崩れ始めた。意識が薄れていく中で、俺は見た。

掲げた『虹の欠片』が、七色の光を放っている。その光は天へと伸び、空に巨大な虹の橋を架けた。

虹の光が地上に降り注ぐ。街の人々の瞳に、色が宿っていく。誰かが泣き出し、誰かが笑い、誰かが大切な人の名を叫んで抱きしめ合う。不協和音に満ちた、なんと美しい世界。

俺の身体は完全に消え、空にひときわ強く輝く、新しい星がひとつ生まれた。

地上では、一人の少女が空を見上げていた。あの路地裏で泣いていた少女だ。彼女は、頬を伝う温かい涙を拭うこともせず、その新しい星に、そっと小さな手を振っていた。

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