灰色の石と最後の色彩
第一章 虚無を喰らう男
カイの世界は、いつからか色を失っていた。街を濡らす雨の匂いも、焼きたてのパンが立てる芳香も、彼の心を通り過ぎるだけで、何一つ留まることはない。彼の内側には、静かで広大な虚無が横たわっているだけだった。
カイには、他者の「幸福」を肩代わりする能力があった。彼がその手に触れ、意識を集中させると、相手の中から幸福と呼ばれる感情の源泉が、ごっそりと抜き取られる。代償として、カイ自身の寿命が蝋燭のように溶けていく。幸福を失った者は、一切の苦しみや悲しみから解放されるが、同時に喜びという名の光をも失い、感情の凪いだ湖面のような平穏な日々を送ることになる。
皮肉なことに、カイは肩代わりした幸福を、その持ち主の記憶と共に鮮烈に追体験できた。初めて恋人と手をつないだ日のときめき、我が子が生まれた瞬間の涙、長年の努力が実を結んだ歓喜。それらは一瞬、カイの心を満たすが、波が引くように虚無へと還っていく。他人の幸福を味わうほどに、自らの人生がいかに空虚であるかを思い知らされるのだ。
彼のアパートの一室には、窓辺に置かれたベッドで眠る女性がいた。リナ。カイがこの世界で唯一愛した、そしてその幸福を奪ってしまったと信じている人物だ。
「リナ…」
カイは彼女の細い手を取る。もう何年も、リナは人形のように無表情で、ほとんど動くこともない。だが、カイが触れると、ぴくりと指先が微かに震える。カイにとって、それは自らの罪を突きつけられる瞬間だった。自分が彼女から鮮やかな感情の世界を奪い去った証なのだと、そう信じて疑わなかった。
彼の唯一の喜びは、こうしてリナの穏やかな寝顔を見ることだけだった。苦しみから解放されたその顔に、せめてもの救いを見出そうとしていた。
カイのポケットの中には、いつも一つ、灰色の小石が入っていた。リナが感情を失ったあの日、彼女の足元に転がっていた石だ。かつては川辺で拾った時の、濡れて輝く青緑色をしていたはずなのに、今では完全に色を失い、死んだように冷たい。カイは時折、その石を握りしめた。石の冷たさが、彼の空っぽの心によく馴染んだ。
「どうすれば、君に本当の幸福を返せるんだろうな…」
問いかけに、答えはない。窓の外では、また灰色の雨が降り始めていた。部屋の隅に置かれた小さな風鈴が、風もないのに、ちりん、と一度だけ寂しげに鳴った。
第二章 失われた願いの影
カイは時折、街に出て、その能力を使った。絶望の淵にいる者たちを探して。それは贖罪のようでもあり、自傷行為のようでもあった。
「もう描けない…。私の才能は枯れてしまった…」
路地裏でキャンバスを前にうずくまる老画家。カイは彼の肩にそっと手を置いた。老画家の人生を賭けた情熱、かつての名声、そして今は創作の苦しみだけが彼を苛んでいた。カイが幸福を肩代わりすると、老画家の顔から苦悶の表情が消え、虚ろだが穏やかな瞳で空を見上げた。
「…嵐が、去ったようだ」
老画家は呟き、震える手で筆を置いた。カイの心には、一枚の絵が完成した瞬間の、天を衝くほどの達成感が流れ込んできたが、すぐに虚無に溶けて消えた。
この世界では、死者の魂は「最も強く願ったこと」の姿で現世に留まると言われている。その願いを成就させるか、あるいは諦めることで、魂は完全に消滅する。成就した魂は来世でより大きな幸福を得ると信じられ、人々は子供の頃から「立派な願い」を持つよう教え込まれた。富や名声、他者への貢献。だが、それが本当にその人の魂の望みとは限らない。
カイは、リナの「本当の願い」が何だったのかを知りたかった。もし彼女がこのまま死んでしまったら、彼女の魂はどんな姿で現れるのだろう。感情を失う前の彼女は、何を最も強く願っていたのだろうか。カイは、自分がそれを奪ってしまったのかもしれないという恐怖に苛まれていた。
ある日、カイはリナが倒れる前に書き留めていた日記を見つけた。ページをめくる指が震える。そこには、他愛のない日々の出来事が、瑞々しい筆跡で綴られていた。
『カイと散歩に行った。川辺の石が綺麗だった』
『最近、時々、世界が少しだけ遠くに感じる。音が、色が、薄い膜を隔てているみたいだ』
その一文に、カイの心臓が凍りついた。これは、自分が能力に目覚めるよりも前の日付だ。リナは、カイが幸福を奪うずっと前から、何かを失い始めていたのではないか。
日記の最後のページには、こう書かれていた。
『もし私が私のままでいられなくなっても、カイ、あなたのそばにいたい。ただ、それだけが私の願い』
カイは日記を閉じた。リナの本当の願いは、富でも名声でもなかった。ただ、自分のそばにいること。そのささやかな願いさえも、自分は奪い去ってしまったのだろうか。
ポケットの小石を握りしめる。その時、ほんの一瞬、石の表面に虹色の光が走ったような気がした。カイはそれを疲労による幻覚だと打ち消し、再びリナの眠る部屋へと足を向けた。
第三章 色彩の記憶
その夜、嵐が来た。激しい風雨が窓を叩き、リナの容態が急変した。浅く速い呼吸、苦痛に歪む顔。カイは医者を呼んだが、首を横に振られるだけだった。
「もう、手の施しようが…」
医者が去り、部屋には二人だけが残された。リナの苦しそうな呼吸が、カイの心をナイフのように抉る。
「俺のせいだ…俺が君から幸福を奪ったから!こんなに苦しませて…!」
カイは絶叫した。後悔と絶望が、彼の虚無の器から溢れ出す。
「返してくれ…!俺の命なんてどうでもいい!リナに、リナの笑顔を返してくれッ!」
彼はリナの冷たくなった手に、自分の両手を重ねた。残された寿命の全てを、この一瞬に注ぎ込む。リナから全ての苦しみを取り除くために。
その瞬間だった。
ポケットの中で灼熱を帯びた小石が、爆発的な光を放った。世界が白く染まり、カイの意識は激しい奔流に飲み込まれていく。
気づけば、彼は知らない場所に立っていた。病院の一室。幼いリナがベッドに横たわり、医師が深刻な顔で彼女の両親に告げていた。
「…残念ながら、この病が進行すれば、強い感情を感じることはできなくなるでしょう。喜びも、悲しみも、徐々に…」
場面が変わる。公園のベンチで、一人ぼんやりと空を見つめるリナ。彼女の世界から、少しずつ色彩が失われていくのがカイには分かった。友達の輪に入れない。笑い声が遠くに聞こえる。
そして、幼いカイが彼女の前に現れた。「どうしたの?」と声をかける。リナは感情の乏しい瞳で彼を見つめ返すが、その心の内側で、か細い声が響いた。『あたたかい…』。
カイの隣にいる時だけ、リナは心の平穏を感じていた。カイが能力に目覚め、無意識に彼女の「幸福」を肩代わりしたあの日。リナは幸福を感じる能力を失ったのではない。カイが、病による耐え難い「苦痛」と、感情を失っていく「恐怖」の全てを肩代わりし、彼女に安らぎを与えたのだ。
リナの日記の最後の言葉が、脳裏に響く。『あなたのそばにいたい』。
光の奔流から現実へと引き戻されたカイは、目の前のリナを見た。彼女は苦しんでいなかった。その瞳は穏やかにカイを見つめている。何年も見ていなかった、確かな意志の色が、その瞳の奥に宿っていた。
「…リナ」
涙が、とめどなく溢れた。
「俺は…奪っていたんじゃなかったのか…?君の苦しみを…俺が…?」
リナの唇が、僅かに動いた。声にはならなかったが、カイにははっきりと聞こえた。
『ありがとう、カイ』
自分の能力は、呪いではなかった。他者の幸福を奪うものではなかった。残された僅かな幸福を守り、苦しみから解放するための、祈りのような力だったのだ。
第四章 幸福の残滓
リナは、カイの腕の中で、穏やかに息を引き取った。
その亡骸が淡い光を放ち始め、やがて無数の光の粒子となって立ち昇っていく。それは、彼女の魂だった。光の粒子は、一つの大きな光景をカイの目の前に映し出した。
それは、カイが肩代わりした「リナの幸福の記憶」の全てだった。
カイが傍らで本を読んでくれた夜の安らぎ。カイが握ってくれた手の温もり。カイが自分のために苦しみ、傷つき、それでも献身的に愛してくれた日々の全て。リナは幸福を「感じる」ことはできなくても、カイが与えてくれた穏やかな時間の中で、確かに「満たされて」いたのだ。
その記憶の光が、カイの空っぽだった心に流れ込んでくる。それは、リナからの最後の贈り物。無言の感謝と、深く、揺るぎない愛情だった。
カイは、生まれて初めて、本当の「幸福」を自覚した。
虚無は消え去り、胸を満たすのは、熱いほどの至上の喜び。自分の人生は、無意味ではなかった。この命は、愛する一人の女性のために、確かに存在したのだ。
「ああ…、そうか。これが…」
カイの身体もまた、足元から光の粒子となって崩れていく。彼の寿命は、尽きようとしていた。
「これが、俺の願いだったんだ…」
リナの魂は、「カイへの感謝」という温かな光の形をとっていた。そして、カイの魂は、「リナの幸福」という優しい光の形をとり、彼女の光に寄り添うように溶け合っていく。二つの魂は、一つの輝きとなり、静かに天へと昇り、消えていった。
夜が明け、朝日が部屋に差し込む。
ベッドの傍らの床に、一つの小石が落ちていた。
それはもう、色を失った灰色ではなかった。リナがカイと初めて出会った川辺で見た、朝露に濡れて輝く、生命力に満ちた青緑色をしていた。
小石は、夜明けの光を浴びて、静かに、そして永遠に輝き続けていた。