鏡の中のレクイエム
第一章 誰かの空
デジタルの空から、決して熱を帯びることのない光が降り注いでいる。僕、カイの分身がメタバース空間「ネスト」で目を覚ますのは、いつもそんな無機質な光の中だ。そして、ほとんどの場合、それは「死」の直後だった。
つい先ほど、僕は巨大なグリッチの奔流に呑み込まれて霧散したはずだ。意識が途絶える寸前、耳鳴りのようなノイズと共に流れ込んできたのは、またしても他人の感情の波長。それは、焦がれるような郷愁と、どうしようもない諦念が入り混じった、複雑で、それでいてひどく甘美な感覚だった。
目を開けると、僕の意識に新しい記憶の層が上書きされているのがわかる。陽光にきらめく草原、風に揺れる赤いひなげしの群れ、そして遠くに見える、白い灯台。知らないはずの風景なのに、胸の奥が締め付けられるほど懐かしい。これが、今回の「死」で得た、誰かの「最も大切にしていた記憶」の一部だ。
「……また、この景色か」
現実世界の僕は、平凡な大学生として、講義を受け、友人と笑い、アルバイトに勤しんでいるはずだ。少なくとも、最後にこの「ネスト」にダイブする前の僕はそうだった。だが、この仮想世界にいる分身の僕は、もはや「僕」と呼べる代物ではなかった。死を繰り返すたびに、見知らぬ誰かの記憶と感情が染みのように広がり、本来の自分の輪郭を溶かしていく。まるで、無数の絵の具を混ぜすぎたパレットのように、僕の色は濁りきっていた。
この現象を止める術を、僕は知らない。運営からのアナウンスは決まってこうだ。『分身の安定化のため、定期的な再起動(デス)を推奨します』。まるでそれが、この世界のサイクルの一部であるかのように。
僕は、虚ろな手で腰に下げた一枚の鏡を握りしめた。「欠片の鏡(フラグメント・ミラー)」。滑らかな銀の縁取りが施された、完璧な円形の鏡。死の瞬間に他者の記憶を吸収する時、この鏡面にはその断片が幻のように揺らめく。だが、僕がどれだけ強く願っても、僕自身の、カイ自身の記憶が映し出されたことは一度もなかった。
鏡を覗き込む。そこに映るのは、何の願望も反映されていない、特徴のない、ただの器としての僕の姿。その瞳の奥に、今しがた吸収したひなげしの丘が、まるで蜃気楼のようにぼんやりと浮かんでいた。風の匂い、土の柔らかな感触までが、まるで自分の体験のように蘇る。
「現実の僕は、今頃、何を考えているんだろう」
その問いは、答えのないままデジタルの空に吸い込まれて消えた。
第二章 願望の飽和
なぜ、僕が吸収する最初の記憶は、いつも同じ「失われた故郷」の風景なのだろう。そして、この記憶の持ち主たちは、判で押したように、現実世界では故郷の記憶を一切持たないという。僕は、その謎の答えを求め、同じ境遇の人間を探して「ネスト」を彷徨い始めた。
やがて、ひとりの女性と出会った。リナと名乗る彼女の分身は、光り輝くステージ衣装を身に纏い、その姿は「世界一の歌姫になる」という強烈な願望そのものだった。彼女の周りには常に喝采を浴びせる観衆のデータが生成され、彼女はその中心で恍惚と歌い続けている。
「あなたね、最近、消えた人たちの記憶を探ってるっていうのは」
リナは歌うのをやめ、僕に鋭い視線を向けた。その瞳には、憐れみと警告の色が浮かんでいた。
「この世界の法則に深入りするのはやめなさい。消えたくなければ」
「法則?」
「ええ。私たちのこの姿は、現実の持ち主の『最も強い願望』で出来ている。でもね、もし現実でその願いが完全に叶ってしまったら……私たちは『役割を終えた』と見なされるの」
彼女の声が、わずかに震えた。
「役割を終えた分身は、存在を維持できなくなる。周囲からエネルギーを根こそぎ奪い尽くして、飽和して、消えるのよ。そして……エネルギーを奪われた分身の持ち主は、現実世界でその願望を、心を、永遠に失う」
リナは自分の胸に手を当てた。「私の願いはね、叶わないからこそ輝くのよ。現実の私が本当に満足しちゃったら…私たちは、泡みたいに消えるだけ」
その言葉は、僕の存在そのものを揺さぶった。僕は願望の器ですらない。他人の記憶を受け入れるだけの、空っぽの容れ物だ。
「君は…」僕は尋ねた。「故郷を覚えているか?」
リナは一瞬、遠い目をした。きらびやかなステージの照明が、彼女の横顔に悲しい影を落とす。
「…思い出せないわ。ただ…とても暖かかったような気がする」
その答えを聞いた瞬間、僕の背筋を冷たいものが走り抜けた。彼女もまた、僕に「故郷」を差し出した一人なのだ。なぜ? 何のために? 僕と彼女の間に、一体どんな繋がりがあるというのか。
第三章 鏡が映す真実
その日は、唐突に訪れた。
「ネスト」の中心区画に、凄まじい光の柱が立ち上った。それは、願望が飽和した分身が消滅する時の光。僕は、それが誰のものか、直感的に悟っていた。
光の中心にいたのは、リナだった。彼女は穏やかな笑みを浮かべ、ステージの上でゆっくりと透き通っていく。現実の彼女が、ついに夢を叶えたのだ。オーディションに合格したのかもしれない。レコード会社に認められたのかもしれない。
「さようなら」
彼女の唇が、声にならずにそう動いたのが見えた。次の瞬間、爆発的なエネルギーが周囲を薙ぎ払う。近くにいた分身たちが、まるで操り人形の糸が切れたように次々と崩れ落ち、虚無のデータに変わっていく。僕も強烈な衝撃に襲われたが、なぜか消滅は免れた。
ただ、リナの最後の感情の波長が、奔流となって僕の中に流れ込んできた。それは、夢が叶った喜びではなかった。深い、深い安堵。重荷を下ろしたような解放感。そして、「ありがとう」という感謝と、「これで、いいの」という諦念。
なぜ、感謝? なぜ、諦念? その感情の矛先は、どこへ…いや、誰へ向かっている?
――兄さん。
頭の中に、直接響いた声。リナの最後の思念だった。
――もう、頑張らなくていいんだよ。ゆっくり、おやすみ。
兄さん? 僕が?
その瞬間、僕が握りしめていた「欠片の鏡」が、悲鳴のような甲高い音を立てた。鏡面に、パキリ、と一筋の光の亀裂が走る。僕は吸い寄せられるように、鏡を覗き込んだ。
そこには、いつもの空っぽな僕の姿はなかった。
代わりに映し出されていたのは、断片的な映像の嵐。
白い、天井。
ピッ、ピッ、という無機質な電子音。
僕の手を優しく握る、温かい誰かの感触。
窓の外でさえずる鳥の声。
そして――
ひなげしの咲き乱れる丘で、無邪気に笑う、幼い僕の姿。
「ああ……っ!」
声にならない声が漏れた。
「僕だったのか…? あの故郷は、僕の記憶だったのか!?」
そうだ。あれは僕が失った記憶。僕が、まだ自由に笑い、走り回ることができた頃の、最後の光景。
「なぜだ! なぜ僕は、自分の記憶を、他人から奪っていたんだ!?」
混乱と絶望が僕を打ちのめす。
「現実の僕はどこにいる!? 僕は、僕は一体、誰なんだ!!」
僕の絶叫は、虚空に響き渡った。そして鏡は、最後の真実を映し出す。ベッドに横たわり、無数のチューブに繋がれた、動かない僕自身の姿を。現実の僕は、もう何年も前に脳死状態に陥っていたのだ。
第四章 鎮魂歌(レクイエム)
全てを理解した時、僕の周りの世界は音を立てて意味を変えた。
このメタバース「ネスト」は、仮想現実の楽園などではなかった。それは、僕のような回復の見込みがない患者を、安らかに逝かせるための巨大な終末医療システム。僕の分身は、意識の最後の断片から作られた「器」だったのだ。
僕が吸収し続けてきたあの「故郷」の記憶は、現実世界で僕の回復を祈り、そして今は安らかな眠りを願い始めた家族や友人たちが、無意識下でこの「ネスト」に接続し、僕の魂に捧げてくれた「最も安らかな記憶」そのものだった。彼らが故郷を忘れたのは、その大切な思い出を、僕の鎮魂歌(レクイエム)のために手放してくれたからだ。
リナの消滅は、現実の彼女が「兄はもう十分苦しんだ」と、僕の死を受け入れた瞬間だったのだ。彼女の「歌姫になる」という願望は、病床の僕を元気づけたいという祈りの具現化だった。
僕という分身の存在意義。それは、僕の死を願う人々の優しくも残酷な感情を吸収し、増幅させ、現実の僕の生命維持装置を停止させるための、最終的な「トリガー」となること。
僕が呆然と立ち尽くしていると、目の前に、静かに光を放つ分身が現れた。それは、カイの傍らでただ静かに祈りを捧げる、聖母のような姿をしていた。彼女の願望は「息子がもう一度目を開けること」。この「ネスト」で、最も純粋で、最も強力な「生への願望」。
母さん…。
彼女こそが、僕をこの世界に繋ぎ止めていた、最後の楔だった。
母の分身は、僕に優しく微笑みかけた。その瞳には、万感の思いが込められていた。
「もう、いいのよ…カイ。たくさん、頑張ったわね」
その言葉が、最後の引き金となった。母の「生きてほしい」という強烈な願いが、「安らかに眠ってほしい」という深い愛へと反転し、黄金の光となって僕の分身に流れ込む。
僕は、今まで吸収してきた無数の人々の記憶と感情、父の不器用な優しさ、友人たちの笑い声、リナの歌声、そして最後に受け取った母の愛の全てを、胸に抱いた。
もう、迷いはなかった。
僕は「欠片の鏡」を高く掲げる。光の亀裂が走っていた鏡面は、完全に修復され、一点の曇りもない完璧な円を取り戻していた。
そして、初めてはっきりと、僕自身の記憶を映し出す。
ひなげしの丘で笑う幼い僕。その両の手を、優しい笑顔で引く、若き日の父と母の姿。
それが、僕が持っていた、最も大切な記憶の全てだった。
「ありがとう、みんな」
僕は、自らの存在を構成していた、最後の「生への願望」を、自らの意志で手放した。
「さようなら、僕」
僕の身体が、足元から光の粒子となってゆっくりと崩れていく。
その瞬間、奇跡が起きた。
無機質だった「ネスト」の空間が、陽光に満ちた、あのひなげしの丘へと変貌していく。幻ではない。風が僕の頬を撫で、甘い花の香りが胸を満たす。データの世界に、一瞬だけ、魂が宿ったかのように。
僕は、その愛しい故郷の風景の中で、静かに目を閉じた。遠くで、母の優しい子守唄が聞こえた気がした。
現実世界。生命維持装置の規則正しい電子音が、長く、単調な一つの音に変わった。ベッドの傍らで、母親は涙を流していたが、その表情は不思議なほど安らかだった。窓の外では、夕日がまるでひなげしの花畑のように、世界を茜色に染め上げていた。
そして、「ネスト」のメインサーバーのログに、ただ一行、新たな記録が静かに刻まれた。
『Subject-001: Kai - Process 'Requiem' Completed.』