宵闇のメモリア
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宵闇のメモリア

第一章 褪せた街の記録屋

この街はいつも、淡いセピア色の霧に包まれている。人々は昨日の夕食の献立を思い出せず、一週間前の喜びを語れない。誰もが「一日の終わりに記憶を消費する」という、生まれつきの生理現象と共に生きているからだ。消費されなかった記憶は不協和音を立てて精神を蝕む。だから人々は忘れる。忘れることで、穏やかな今日を生きるのだ。

俺、レンの営む古物店『追憶の螺旋』は、そんな街の片隅でひっそりと息をしていた。店の奥、埃と古いインクの匂いが混じり合う小部屋が、俺の仕事場だ。客は、消えゆく記憶の欠片をどうにか留めておきたいと願う者たち。俺は彼らの朧げな話を聞き、「記憶の残滓」を特殊なインクに溶かして紙に書き留める。それが俺の生業だった。

だが、俺自身はこの街の法則から外れていた。昨日食べた固いパンの味も、窓を叩いた雨粒の数も、まるで今起きたことのように思い出せる。人々が消費し、曖昧になっていくはずの記憶が、俺の中では少しも色褪せることなく、日々、鮮やかに積層していく。その異常な鮮明さが、俺を孤独にした。皆が共有する「忘却の安らぎ」を、俺は知らない。

ある雨の午後、店のドアベルが澄んだ音を立てた。濡れた外套をまとった女性、エリアがそこに立っていた。彼女の瞳は、この街の住人には珍しい、何かを必死に探すような強い光を宿していた。

「どうしても、思い出したい約束があるんです」

彼女は震える声で言った。それは、幼い頃に誰かと交わした、人生を支えるほど大切な約束だという。しかし、相手の顔も、交わした言葉も、すべてが靄の向こう側にあるのだと。

彼女の強い想いが、俺の心の奥底に眠る何かを微かに揺さぶった。胸の内で、聞いたことのない弦がぴんと張るような、奇妙な感覚。俺は頷き、古びたガラスペンと、琥珀色のインク瓶を机に置いた。

「あなたの記憶、見せていただけますか」

そのインクは、記憶の残滓を固形化した特別なものだ。紙に書き留められた文字は、やがてインクの中に溶け込んだ記憶の情景を、微小なホログラムとして浮かび上がらせる。エリアは息をのみ、俺の手元をじっと見つめていた。彼女の切実な願いが、湿った空気を通じて痛いほど伝わってきた。

第二章 歪むホログラム

エリアはぽつりぽつりと、記憶の断片を語り始めた。夕焼けに染まる丘、風に揺れる白い花、そして隣にいた誰かの温もり。俺は彼女の言葉の一つ一つを掬い上げ、ガラスペンの先から紙へと落とし込んでいく。琥珀色のインクが、優雅な曲線を描いて文字を紡ぐ。

やがて、書き終えた文字が淡い光を放ちながら紙から溶け出し、空中で像を結び始めた。目の前に、夕日に照らされた丘のホログラムが浮かび上がる。風がそよぎ、名も知らぬ白い花々がさざ波のように揺れる。触れることはできないが、そこには確かに、過去の空気があった。エリアは「ああ……」と感嘆の息を漏らした。

だが、異変はすぐに起きた。

ホログラムの中心、約束を交わしたはずの二人の子供の姿が映し出された瞬間、耳障りな不協和音が空間に響き渡ったのだ。キィン、とガラスを引っ掻くような音と共に、子供たちの顔、特にエリアが「相手」だと指し示す人物の輪郭が、ノイズの走る映像のように激しく歪み、溶けていく。

「こんなことは……初めてだ」

俺は呟いた。通常、記憶が曖昧な場合、ホログラムはぼんやりと表示されるだけだ。こんな風に、明確な拒絶を示すかのように歪むことはない。これはただの忘却ではない。何者かによって、あるいは何かによって、強制的に「改変」された記憶の痕だ。

その時、俺の頭の奥で、忘れていたはずの光景が閃いた。

夕焼けの丘。白い花。そして、鳴り響く鐘の音。

そうだ、あの日は街の古い鐘楼から、鐘の音が聞こえていた。この街ではもう何十年も前に打ち捨てられ、鳴るはずのない鐘の音が。

「あの鐘の音……」

俺が無意識に口にすると、エリアは怪訝な顔で俺を見た。「鐘?いいえ、あの日はとても静かでした。風の音だけが聞こえて……」

違う。俺の記憶はそう告げている。エリアの記憶と、俺の記憶。その間には、決して埋まることのない深い溝があった。ホログラムの歪みは、彼女の記憶が「偽物」であることを示している。では、鐘の音を聞いた俺の記憶こそが「本物」なのか?

なぜ、俺だけが違う過去を知っている?

胸騒ぎが、冷たい金属のように心臓を締め付けた。この謎の先には、触れてはならない世界の真実が横たわっているような、抗いがたい予感がした。

第三章 多重記憶の鐘

俺とエリアは、街の中央に聳える大図書館の、埃っぽい最深部を目指していた。禁書庫。そこには、この街の成り立ちに関する、忘れ去られた記録が眠っているという。あの歪んだホログラムと鐘の音の謎を解く鍵が、そこにあると信じて。

重い扉を開けると、古紙と乾いたインクの匂いが鼻をついた。月明かりが天窓から差し込み、無数の書架の影を床に落としている。俺は書庫の奥で、厳重に封印された小箱を見つけ出した。中には、どろりとした漆黒の液体。あらゆる「記憶の残滓インク」の原液であり、最も純粋な記憶を映し出すと言われる『原初のインク』だった。

これを使えば、俺の記憶の真偽がわかるはずだ。

俺は覚悟を決め、ガラスペンをその漆黒に浸した。そして、脳裏に焼き付いて離れない、あの日の光景を紙に書き記していく。

――夕焼けが空を焼き、白い花が風に散る丘。けたたましく鳴り響く鐘の音。そして、空がいくつもの色に引き裂かれ、人々が叫びながら倒れていく光景を。

インクが文字となり、そして光の粒子となって舞い上がった。俺の目の前に現れたホログラムは、完璧だった。歪みも、ノイズもない。空を引き裂く光の亀裂も、人々の苦悶の表情も、恐ろしいほど鮮明に再現されていた。

その完璧なホログラムを目にした瞬間、エリアが悲鳴をあげた。

「いや……!やめて……!頭が、割れる……!」

彼女は頭を抱えて床に蹲る。その絶叫が引き金になった。

俺の中で、何かが決壊した。真実を知りたいという渇望と、エリアを傷つけてしまった激しい後悔。二つの感情が渦を巻き、制御不能の力となって溢れ出す。

世界が、歪んだ。

足元の床が水面のように波打ち、書架がぐにゃりと捻じ曲がる。壁は溶けて流れ落ち、天井は星空でもない不可思議な模様を描き始めた。現実が、俺の感情に呼応して悲鳴をあげている。

そして、俺の脳内に、声ではない声が響き渡った。

それは、世界の法則そのものの囁きだった。

見せられたのは、破滅のビジョン。『多重記憶災害』。かつてこの世界では、人々の記憶が無限に交差し、混ざり合い、矛盾した過去が人々を狂わせていたのだという。「自分が誰なのか」「今日がいつなのか」さえも分からなくなり、精神が崩壊していく地獄。

世界は、自らを守るために法則を書き換えた。それが『記憶の消費』。人々から詳細な記憶を奪い、過去を曖昧にすることで、多重記憶の汚染から精神を守るためのシステム。

そして、そのシステムが綻びを見せた時、最後の安全装置として生まれたのが――俺、『記憶の編纂者(Memory Weaver)』だった。

俺の能力は、災害の予兆――矛盾した記憶の発生――を感知し、世界が崩壊する前に、周囲の現実を『穏やかで矛盾のないフェイク記憶』で上書きし、安定させるための機能。エリアの「大切な約束」も、災害の断片に触れて精神が不安定になった彼女を救うため、俺が過去に無意識で編纂した、優しい嘘だったのだ。

俺の鮮明すぎる記憶は、呪いではなかった。真実の世界を記録し、嘘の世界との差異を検知するための、観測者としての証だった。

第四章 宵闇の編纂者

俺は、全てを理解した。俺は世界の守護者。そして、人々から真実を奪い、巧妙な嘘の檻に閉じ込める、世界で最も孤独な詐欺師なのだ。

溢れ出す力を、心の奥底へと押し込める。歪んでいた図書館が、ゆっくりと元の姿を取り戻していく。波打っていた床は硬い石畳に、溶けていた壁は元のレンガに戻った。まるで、悪い夢から覚めたかのように。

床に蹲るエリアに歩み寄り、そっと彼女の額に指を触れる。彼女を苦しめる記憶の棘を、俺が抜かなければならない。

「大丈夫。もう、何も思い出す必要はない」

俺は囁き、新しい記憶を紡ぎ始める。それは、胸が温かくなるような、それでいて少しだけ切ない、美しい嘘の物語。夕焼けの丘での約束は変わらない。けれど、相手は遠い街へ旅立った、優しい幼馴染の少年ということにした。彼女がもう二度と、その不在に苦しむことのないように。

エリアの表情から苦悶が消え、穏やかな寝息が聞こえ始めた。俺は彼女を司書に託し、誰にも告げず、夜の闇へと消えた。

数日後、俺は再び古物店のカウンターに立っていた。街は相変わらずセピア色の霧に包まれ、人々は昨日のことさえ忘れて、穏やかに笑い合っている。エリアも店に顔を見せたが、俺のことは覚えていなかった。ただ、「なんだか懐かしい香りがしますね」と微笑んで、小さな装飾品を買って帰った。

それでいい。それが、この世界の正しい在り方なのだから。

夜、店の明かりを消した後、俺は一人、机に向かう。取り出したのは『原初のインク』。そして、真っ白な紙に、今日一日の出来事を、ありのままに書き記していく。人々が消費し、忘れてしまった世界の真実の姿を。

それは誰にも見せることのない、俺だけの記録。この偽りの世界で、ただ一つだけ存在する真実の断片。俺がこの役割を背負い続ける限り、世界は穏やかな忘却の中で続いていくだろう。

ペンを置き、窓の外を見る。宵闇に沈む街は、まるで巨大な揺り籠のようだ。人々は優しい嘘に抱かれて眠っている。

俺だけが、全てを覚えて、この静かな夜の中で目覚め続ける。

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