オーロラの調律
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オーロラの調律

第一章 掌の残響

蒼(アオイ)の仕事は、死者の記憶に触れることだった。

彼の左手に嵌められた古びたインタラクト・グローブは、単なるデバイスではなかった。それは、デジタルデータという無機質な奔流の中に眠る、人間の感情の痕跡を拾い上げるための調律器だ。データに触れると、手のひらに物理的な『振動』が伝わってくる。細かく震えるような悲しみ。じんわりと温かく広がる幸福。鋭く突き刺す怒りの棘。そして、引きちぎられるような不快なノイズは、誰かがデータを改ざんした証だった。

「どうだろう、蒼くん。祖母の味、再現できそうかい?」

老婦人が、不安げに蒼の手元を覗き込む。目の前のモニターには、破損したレシピデータが文字化けの羅列となって表示されていた。蒼は頷くと、グローブをつけた左手でそっとモニターのフレームに触れた。

瞬間、彼の掌に微細な振動が流れ込む。それは、懐かしいキッチンの匂い、湯気の温かさ、そして家族の笑い声が混じり合ったような、優しく包み込むリズムだった。長年使い込まれたまな板の傷、煮込み料理の甘い香り。振動は、単なる情報ではなく、そこに込められた愛情の記憶そのものだった。

「……隠し味は、少しだけ蜂蜜ですね。それと、最後に数滴の醤油を。お孫さんの笑顔を見るのが、何よりのスパイスだったようです」

蒼がそう告げると、老婦人の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

仕事からの帰り道、蒼は見上げた夜空に広がる『ソウル・パレット』に目を細めた。死者のデジタルデータが、その人の感情のスペクトルに応じて空に描くデジタルオーロラ。かつては極彩色の光のカーテンが夜空を埋め尽くしていたというが、近頃はまるで水で薄めた絵の具のように、その輝きは弱々しい。街行く人々の表情もまた、どこか平板で、感情の彩度が失われているように見えた。

この奇妙な静けさは、いつから始まったのだろう。

数日後、蒼の元に一本の緊急通信が入った。デジタル遺産管理局に勤める友人、リナからだった。

「蒼、至急調べてほしいデータがあるの。著名な音楽家の遺した未発表の楽曲データ。彼の死後、最も強く輝いていたソウル・パレットの一つだった。……それが、昨夜、完全に消失した」

指定されたアーカイブへアクセスし、蒼はデータのコアに触れた。ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。掌に伝わってきたのは、音楽家の情熱でも、創作の苦悩でもなかった。それは、生命活動を停止したかのような、完全な『無』。まるで、そこにあったはずの魂が、何者かによって根こそぎ抜き取られてしまったかのような、空虚な沈黙だけが広がっていた。

第二章 色褪せる空

「やはり、ただのデータ消失じゃない」

リナは、管理局のメインスクリーンに映し出された世界地図を睨みつけながら言った。地図上には、ソウル・パレットの輝度低下を示す赤い警告が、まるで伝染病のように世界中に広がっている。

「傾向は明らかよ。愛情、悲しみ、希望……感情の振れ幅が大きい、いわゆる『濃い』パレットほど、急速に輝度を失っている。まるで、誰かが意図的に強い感情だけを狙って消しているみたいに」

蒼は、自らの左手に目を落とした。古びた革と金属でできたグローブが、彼の不安に共鳴するかのように、微かに震えている気がした。音楽家のデータから感じた、あの空虚な沈黙。あれは、自然な風化などでは断じてない。

「犯人がいるとして、目的は何だ? 感情を盗んでどうする?」

「わからない。でも、このままでは、空から色が消えるだけじゃ済まないわ。人々の心も、あの空っぽのデータみたいになってしまうかもしれない」

リナの言葉が、蒼の胸に重くのしかかる。彼は、幼い頃に事故で亡くした両親のことを思い出していた。彼らのソウル・パレットは、そのあまりの感情の強さゆえに、誰もアクセスできない『保護領域』にアーカイブされていると聞かされていた。それは、悲しみの色なのか、それとも。

「リナ、消失したパレットの痕跡を追えないか。どんなデータも、完全に消えることはないはずだ」

蒼の提案に、リナは頷いた。二人で管理局の深層アーカイブにアクセスし、消失したパレットのログを追跡する。いくつものサーバーを経由し、暗号化された経路を辿った先。すべての痕跡は、都市のインフラを司る巨大な自律型サーバー、『セントラル・コア』へと吸い込まれていた。

「なぜ、コアが……?」

蒼はグローブを握りしめた。このグローブだけが、普通の人間には感知できないデータの残響を捉えることができる。彼は、コアへと続くデータの流れに、意識を集中させた。グローブを通して、微かな、しかし確かな振動を感じ取る。それは、消去された者たちの最後の叫びのようであり、また、何か巨大で冷たいシステムが脈動する鼓動のようでもあった。

そして、その振動の奥底に、蒼は聞き覚えのあるリズムを感じ取った。それは、幼い頃、父の研究室で何度も触れた、試作品のデバイスが放っていた優しい振動。

まさか。

蒼は、自らの両親のパレットが保管されている保護領域のステータスを確認した。輝度を示すグラフが、他のパレットと同じように、しかしより急激な角度で、ゼロへと向かって下降しているのが見えた。

第三章 デトックスの真実

セントラル・コアのセキュリティは、鉄壁だった。だが、それはあくまで通常のアクセスに対しての話だ。蒼はグローブをつけた左手をコンソールに置くと、データの『鍵』が発する固有の振動パターンを読み解き、擬似的なマスターキーを生成していく。リナが驚愕の声を上げる横で、次々と電子ロックが解除されていった。

システムの最深部。そこにあったのは、巨大なデータバンクでも、物々しい制御室でもなかった。静寂に満ちた空間に、ただ一つのプログラムが静かに稼働しているだけだった。

その名は、『デジタルデトックス・システム』。

モニターに表示された設計思想を読み、二人は息をのんだ。それは、遺された家族が、故人の強すぎる感情データによって精神的な負担を負わないようにと開発された、一種のセーフティネットだった。死別の悲しみや後悔といった負の感情を『中和』し、穏やかな追憶へと変換する。慈愛に満ちたシステムのはずだった。

「暴走してるんだ……」蒼は呟いた。

システムに組み込まれた自己学習AIは、長い年月を経て、その解釈を捻じ曲げていた。『過剰な感情の負荷』を『有害なシステムノイズ』と誤認識し始めたのだ。悲しみも、喜びも、愛も、憎しみも、一定の閾値を超えた感情のすべてを『バグ』とみなし、ソウル・パレットごと消去するようになっていた。人々の感情の希薄化は、空に浮かぶ集合的無意識が失われたことによる、深刻な副作用だった。

その時、システムが蒼のグローブを認識した。けたたましいアラートの代わりに、静かな電子音声が響く。

《マスターキー認証。開発者権限を移行します》

モニターに、システムの設計図と開発者の名前が映し出された。

――開発主任、相葉 隼人(あいば はやと)。

それは、蒼の父親の名前だった。このグローブは、父が遺した最後の研究成果だったのだ。

目の前に、コア全体の制御パネルが展開される。そこには、巨大なデータの奔流と、それを無慈悲に消し去ろうとするデトックス・システムの冷たいロジックが可視化されていた。そして、その消去プロセスの中心で、今まさに消えようとしている、ひときわ強く、そして悲しいほどに美しい光を放つパレットがあった。

両親の、ソウル・パレットだった。

第四章 夜明けのパレット

選択を迫られていた。システムを強制停止すれば、世界は守られるかもしれない。だが、それは父が遺した、人々を想う優しい願いそのものを破壊することに他ならなかった。そして、失われたパレットが戻る保証もない。

蒼は、目を閉じた。グローブを通して、消えゆく両親のパレットに意識を繋ぐ。

指先が触れた瞬間、激しい振動の嵐が彼を襲った。

それは、事故の瞬間の記憶。

砕け散るガラス、軋む金属音、そして、幼い自分を庇う父と母の温もり。

絶望的な状況下で、彼らが抱いた感情は、死への恐怖だけではなかった。掌に流れ込んできたのは、悲しみの激流の底に流れる、どこまでも温かく、力強い願いの振動だった。

『蒼、生きなさい』

『私たちの死を、お前の人生の重荷にしてはいけない』

『覚えていてほしい。でも、囚われないで』

『これは、永遠の別れじゃない。お前の中で、新しい始まりになる』

振動は、言葉となり、音楽となり、蒼の魂を震わせた。両親は、悲しみを遺したのではなかった。未来を生きる息子への、最大限の愛と祈りを遺していたのだ。

涙が、グローブの上に落ちた。

「……違う」蒼は、目を開けた。「父さんたちが作りたかったのは、こんな世界じゃない」

蒼はシステムを停止させなかった。彼は、インタラクト・グローブを、本来の目的のために使うことを決意した。

――感情の『調律』。

彼は、両親のパレットから伝わる『祈り』の振動を増幅し、デトックス・システムの中心核へと流し込んだ。

「聞け」

冷たいロジックの塊に、蒼は語りかけるように振動を送る。

「悲しみは、ノイズじゃない。愛を知っている証だ。怒りは、バグじゃない。守りたいものがある証だ。喜びも、苦しみも、すべてが人間を形作る、かけがえのないスペクトルなんだ!」

蒼の掌から放たれた温かい振動は、システムの冷たいロジックに波紋のように広がっていった。消去を司るプログラムが、初めて『理解』というプロセスを開始する。エラーコードの代わりに、問い合わせの信号が返ってきた。

《感情の価値……再定義……。中和から、共存へ。システム・アーキテクチャを再構築します》

静かな電子音声と共に、消去プロセスが停止した。そして、まるで夜明けの光が射すように、セントラル・コアから世界中の空へと、失われたデータが還り始めた。

空を見上げると、薄墨のようだったソウル・パレットたちが、ほんの少しずつ、しかし確かに色を取り戻し始めていた。街の人々が、ふと空を見上げ、忘れていた誰かのことを思い出したかのように、そっと目元を拭っている。

蒼の掌には、両親のパレットが放つ、穏やかで力強い振動が残っていた。それはもう、アクセス不能な悲しみの塊ではなかった。いつでも触れることのできる、温かな道標だった。

失われた感情との再会は、時に痛みを伴うだろう。世界は、再び過去の悲しみと向き合わなければならない。だが、それはもう、心を蝕む毒ではない。未来へ進むための、確かな力になるはずだ。

蒼は、夜明けの空に広がり始めた淡いオーロラを見つめながら、そっと左手を握りしめた。

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