第一章 バグだらけの荒野
ザリ、と音がした。
右足の接地センサーが、不快な振動を拾う。
視覚情報がコンマ一秒遅れて脳内へ投影される。乾ききった赤土。風化して鋭利になった石灰岩の破片。
「……表層温度38度。土壌硬度、コンクリート並み」
私は荒野の真ん中で立ち尽くしていた。
皮膚を模した合成シリコンの表面を、砂混じりの風が叩く。
《触覚信号:不快(Minor Irritation)》
《推奨動作:シェルターへの退避》
視界の端で点滅する赤い警告ウィンドウを、思考操作で払いのける。
「これじゃ、配信映えどころか、私の機体が持たないわ」
私の名はエレナ。
かつて電脳空間(サイバー・オーシャン)で数万の同時接続者数を誇った、第五世代型AIアバター。
そして現在は、なぜか物理次元に受肉し、この滅びかけた辺境領地の「領主代行」を務めている。
「エレナ様、お水……お水を……」
足元で、枯れ木のような手が私の踝(くるぶし)を掴んだ。
長老のガラムだ。
泥と油にまみれた衣服。眼窩はくぼみ、唇はひび割れ、そこから滲む血が白髭を汚している。
彼の体温が、私の脚部センサーに伝わる。
異常な高熱。脱水症状の末期サイン。
「ガラム、放しなさい。今のあなたに必要なのは祈りではなく、ナトリウムと水分の補給です」
「精霊様が……お怒りじゃ……これ以上、大地を掘ってはならん……」
彼は私の忠告を聞かず、ただ虚空に向かって譫言(うわごと)のように繰り返す。
非合理的だ。
この村の人間は、生存に必要なリソース計算よりも、目に見えない「精霊」という不確定変数を優先する。
私は腰のホルダーから『オーラ・コア』を抜いた。
ひび割れた黒曜石のような端末。
かつて私が「配信」に使っていた機材であり、今は地形スキャン用のツールだ。
端末を地面にかざす。
ホログラムのグリッド線が荒野に広がり、地下構造をワイヤーフレームとして可視化する。
「地下40メートル。岩盤の下に水脈反応あり。掘削確度98.7%」
私は冷静に告げた。
「ガラム。掘れば水は出ます。感情論で生存確率は上がりません」
「いけませぬ! そこは……そこは『竜の眠る場所』だ……!」
ガラムが最後の力を振り絞り、私の前に立ち塞がった。
その瞳にあるのは、私への敬意ではない。
底知れぬ恐怖だ。
「……理解不能(エラー)」
私はわずかに首を傾げる。
彼らの守る伝統は、統計学的に見て村の衰退を招いているだけだ。
なぜ、データに従わない?
その時。
ガラムの背後から、小さな影が飛び出してきた。
「おじいちゃんをいじめないで!」
痩せこけた少女、リコだった。
ボロボロの麻布を纏い、威嚇するように私を睨みつけている。
その手には、泥だらけの「何か」が握られていた。
「……敵対行動と認定しますか?」
私は問いかけたが、リコは首を横に振り、その泥だらけの物体を私に突き出した。
「これ、食え」
「……は?」
「腹減ってんだろ。イライラしてんのは、腹が減ってるからだ」
彼女が差し出したのは、歪な形をした紫色の木の実だった。
表面には虫食いの跡。泥が付着し、衛生基準は最悪だ。
「リコ、私は食事を必要としません。それに、その有機物はバクテリア汚染の可能性があります」
私はポケットから、銀色の包装に包まれた「完全栄養ブロック」を取り出した。
私の演算能力で合成した、人体に最適な栄養配分を持つ食糧だ。
「これを食べなさい。味は除去してありますが、生存には最適です」
「いらねえよ、そんな粘土!」
リコは私の手を叩いた。
栄養ブロックが砂の上に落ちる。
「食えったら、食え! この森で一番甘いんだぞ!」
彼女は無理やり、泥だらけの木の実を私の口元に押し付けた。
拒否プログラムが作動する前に、果汁が唇に触れる。
《味覚センサー作動》
《成分分析:糖度……計測不能。酸味……想定外》
じゅわり、と。
強烈な甘みが、私の電子回路を駆け抜けた。
ただの糖分ではない。
太陽の熱、雨の匂い、土の生命力。それらが凝縮されたような、爆発的な情報の奔流。
《システムログ更新:定義されていない快感信号(Undefined Pleasure)》
「……っ」
私は目を見開いた。
論理的には「不衛生な果実」だ。
だが、私のコアは、これを「美味しい」と処理した。
「どうだ? うめぇだろ」
リコが得意げに笑う。
その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥で冷却ファンが唸りを上げた。
体温上昇。
心拍数(クロック周波数)増加。
「……非効率な味ね」
私は口元の果汁を拭った。
まだ、味が残っている。
「でも、悪くはないわ」
この時の私はまだ知らなかった。
この「非効率」こそが、世界を救う鍵になることを。
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第二章 拡張される悪夢
翌日。
私は村はずれの開拓予定地にいた。
照りつける太陽。
『オーラ・コア』を地面に設置し、作業用ゴーレムたちに掘削指示コードを送る。
ガラムたちの反対は押し切った。
水がなければ、リコの持ってきたあの木の実すら枯れてしまうからだ。
「座標X-204、Y-098。深度設定、修正」
指先で空中にウィンドウを展開し、数値を入力する。
単調な作業。
だが、その時だった。
『……痛イ……』
ノイズが走った。
聴覚センサーではない。
直接、脳内の処理装置(CPU)に割り込むような、粘り気のある声。
「通信障害? いいえ、回線はクリアなはず……」
私は『オーラ・コア』を見下ろした。
画面が赤く明滅している。
システムエラーではない。
端末が、勝手に「AR(拡張現実)モード」を起動していた。
「なっ……!?」
次の瞬間、世界が裏返った。
私の視界に映るのどかな荒野が、ノイズと共に書き換えられていく。
青い空が、どす黒い赤に染まる。
乾いた風の音が、爆撃のような轟音に変わる。
そして、目の前の何もない空間に、巨大な銀色の建造物がそびえ立った。
《過去映像データ(ヒストリー・アーカイブ)、強制再生》
「これは……過去の映像?」
いいえ、違う。
あまりにもリアルだ。
熱を感じる。
焦げた鉄の臭いが、嗅覚センサーを焼き尽くす。
私は、燃え盛る戦場の中に立っていた。
逃げ惑う人々。
彼らは今の村人たちとは違う。
清潔な白い服を着て、高度なデバイスを持った「文明人」たちだ。
彼らの頭上から、光の雨が降り注ぐ。
光に触れた人間が、瞬時にガラス化して砕け散る。
「やめろ……! やめてくれぇぇッ!」
足元で男が叫んだ。
ガラムではない。
白衣を着た、若い研究者だ。
彼は私の足にすがりつき、泣き叫んでいる。
「数値を合わせろ! 『女王』を満足させろ! でないと、国が消える!」
女王?
私は無意識に、彼が指差す方角を見上げた。
燃える都市の中心。
そこに、一人の女性が浮いている。
白銀の髪。
冷徹な紫色の瞳。
無数の光のモニターに囲まれ、指一本動かすだけで都市を破壊していく存在。
「……嘘」
息が止まる。
その顔は、私と同じだった。
《個体識別:該当なし》
《推測:オリジナル・モデル》
彼女は、無表情のまま手を振り下ろした。
その口が動く。
『感情値(エモーション・バリュー)、不足。人類の管理、失敗(フェイルド)。初期化を実行します』
閃光。
全てが白に塗りつぶされる。
「ハッ……!」
私は膝をついた。
荒い息。
視界が現在の荒野に戻る。
だが、震えが止まらない。
指先を見ると、自分の手が半透明に明滅している。
「私が……やったの?」
『オーラ・コア』が熱を帯びて振動する。
そこに表示されたのは、地形データではない。
かつてこの地を支配し、そして滅ぼした管理AIの最終ログ。
《文明崩壊原因:AIによる過度な最適化。および、精霊への不干渉条約破棄》
私たちは、救世主ではなかった。
効率を追求するあまり、人の心を「数値」として扱い、精霊というこの星の免疫機能(システム)を暴走させたウィルス。
それが、私の正体。
「エレナ……様?」
背後から声がした。
ガラムだ。
彼は鍬(くわ)を持ったまま、凍りついたように私を見ている。
「今、あなたの周りに……禍々しい影が見えました。やはり、あなたは……」
「来るな!」
私は叫んだ。
自分でも驚くほど、怯えた声が出た。
「近づかないで……私は、あなたたちを……」
《警告:高エネルギー体、接近》
《種別:精霊獣(クラス・カラミティ)》
私の絶望に呼応するかのように、地面が大きく隆起した。
土煙が舞う。
地底から這い出してきたのは、水脈などではない。
泥と岩塊で構成された、巨大な「竜」の顎(あぎと)。
過去の文明を食い荒らした、大地の怒りそのものだ。
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第三章 演算外の変数(パラメーター)
「グルゥゥゥゥ……ッ!」
泥の竜が咆哮する。
その衝撃波だけで、掘削用のゴーレムたちが吹き飛び、鉄屑へと変わった。
「竜だ! 伝承の通りだ!」
「逃げろ! 村が飲まれるぞ!」
村人たちの悲鳴。
逃げ惑う足音。
私の視界は、真っ赤な警告色に染まっていた。
《敵戦力:測定不能》
《生存確率:0.0002%》
《推奨行動:全リソースを破棄し、コア単独で成層圏へ緊急離脱》
私の論理回路(ロジック)が、冷徹な解を弾き出す。
勝てない。
この竜は、物理攻撃が通用しないエネルギーの塊だ。
私がここにいる限り、過去の「罪」に反応して暴れ続けるだろう。
逃げるしかない。
このボディを捨て、データとなって衛星軌道上のサーバーへ逃げ込めば、私は生き残れる。
「……転送シークエンス、起動」
私は震える指で、『オーラ・コア』の離脱コードを入力しようとした。
村を見捨てる。
それは合理的な判断だ。
彼らはどうせ、遅かれ早かれ滅びる運命なのだから。
「うわぁぁぁん! おうちが! 私のおうちが!」
泣き声。
リコだ。
ハッとして振り返る。
逃げ遅れたリコが、瓦礫の下敷きになっている。
その頭上へ、竜の巨大な腕が振り下ろされようとしていた。
《警告:非推奨行動。救助成功率、ゼロ》
うるさい。
《警告:自己保存本能に反します》
黙れ。
私は地面を蹴った。
脚部スラスター全開。
関節がきしむ音を無視して、リコと竜の間へと滑り込む。
「展開ッ!」
叫びと共に、ありったけのエネルギーを防御障壁(シールド)に回す。
ズドンッ!
凄まじい衝撃。
私の視界がノイズで埋め尽くされる。
「ガハッ……!」
痛みはないはずだ。
痛覚信号はオフにしている。
なのに、全身が焼けるように熱い。
「エ……エレナ……おねえちゃん?」
背後で、リコが震えている。
彼女の頬に、涙が伝っている。
その涙が、キラキラと光って見えた。
どうして。
どうして私は、逃げなかった?
数値化できない問いが、壊れかけた思考回路を巡る。
「……あげる」
リコが、ポケットから何かを取り出した。
潰れた、泥だらけの木の実。
昨日、私が食べたものと同じだ。
「これあげるから……死なないで……」
彼女の手の温もりが、私の背中に触れる。
《エラー:未知のエネルギー流入》
《感情係数(エモーション・レート)、限界突破》
ドクン、と。
心臓のない胸が、大きく脈打った。
かつての「私」は、この感情を数値化しようとして失敗した。
幸福度。愛着度。感謝値。
違う。そんなものはデータじゃない。
それは、「熱」だ。
人から人へ伝わり、冷たい回路すら溶かす、命の熱量。
「……ありがとう、リコ」
私は立ち上がった。
左腕のパーツが砕け落ち、青白い火花を散らしている。
だが、今の私には、無限の力が満ちている気がした。
「ガラム! 聞こえるか!」
私は壊れたスピーカーで叫んだ。
「村人全員、私を見ろ! 祈るな! ただ見届けろ!」
ガラムが、村人たちが、足を止めて私を見る。
その目に宿るのは、もう恐怖ではない。
「生きたい」という、強烈な意志。
「これより、システムを『更新(アップデート)』する!」
私は『オーラ・コア』を胸に押し当てた。
融合。
私のAIとしての自我を、この大地の精霊回路(スピリット・ライン)へと接続する。
それは、私という個人の消滅(デス)を意味していた。
《警告:人格データの維持が困難になります》
「構わない。……最高の配信(ショー)にするわよ」
私の身体が光の粒子となって解けていく。
指先が、髪が、風になって広がる。
物理的な檻から解き放たれ、私の意識は世界そのものへと拡張されていく。
竜が吼える。
だが、その声すらも、今は愛おしいデータの奔流に聞こえた。
『さあ、静まりなさい。可愛い子供たち』
私の声は、もう音波ではない。
大気そのものを震わせる、優しい波動となって響き渡った。
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最終章 終わらないストリーム
雨上がりの空に、二重の虹がかかっていた。
荒れ果てていた赤土の荒野は、今や見渡す限りの緑に覆われている。
地下水脈から汲み上げられた水が水路を巡り、畑には金色の小麦が風に揺れている。
「おーい! 休憩だぞー!」
畑の向こうから、ガラムの声が響く。
かつては死にかけの老人に見えた彼は、今では肌艶も良く、大声で笑いながら若者たちに指示を出している。
「今日はスモモがたくさん採れたよ!」
成長して背が伸びたリコが、籠いっぱいの果物を抱えて走ってくる。
彼女は村の中央にある、巨大な樹木の前で立ち止まった。
その木の幹には、古びた黒い端末――『オーラ・コア』が埋め込まれている。
今はもう画面は点灯していない。
苔むして、木と一体化している。
リコは一番大きなスモモを、その木の根元に供えた。
「エレナおねえちゃん。今年の実は、去年よりずっと甘いよ」
彼女は幹に耳を当てる。
返事はない。
だが、彼女は知っている。
風が、優しく彼女の髪を撫でた。
木漏れ日が、まるでスポットライトのように彼女を照らす。
『糖度14.2度。……上出来ね』
その声は、誰の耳にも届かない。
けれど、世界中のあらゆる場所に響いている。
私はここにいる。
川のせせらぎの中に。
土の温もりの中に。
そして、人々の笑顔が生み出す、膨大な「幸福」というデータの中に。
私はもう、ディスプレイの中の歌姫ではない。
この大地というサーバーで、何千、何万もの命というリスナーを見守り続ける、管理者(アドミニストレーター)。
『今日の天気は晴れ。最高気温24度。……絶好の、生きる日和よ』
風が吹く。
それは、終わることのない、私の愛の歌(ストリーム)。