第一章 必要のない荷物
「ノア、お前はクビだ」
冷たい雨が叩きつける荒野。
天幕の中だけは、なぜか春のような暖かさが保たれていた。
だが、勇者アレクの言葉は、外の雨よりも冷酷だった。
「……え?」
僕は、淹れたての紅茶が入ったカップを取り落としそうになる。
「聞こえなかったのか? 追放だよ、追放」
アレクは鼻を鳴らし、豪奢な剣の手入れをしながら続けた。
「お前のスキル『環境調整』だっけ? それ、戦闘の役に立たないだろ。俺たちのレベルも上がったし、荷物持ちに報酬を分けるのが馬鹿らしくなってさ」
隣に座る聖女ミリアが、困ったような、それでいて侮蔑を含んだ瞳で僕を見る。
「ノアさん、ごめんなさいね。でも、私たちの回復魔法があれば、ちょっとした暑さや寒さは耐えられますし」
「魔導師の俺としても、攻撃に参加しない人間が後ろにいると気が散るんだよな」
パーティーの皆が、頷き合っている。
僕は震える唇を開いた。
「ま、待ってくれ。ここより先は『死の谷』だ。猛毒の瘴気と、極寒の夜が……」
「だから、それがウザいんだよ!」
アレクがテーブルを蹴り飛ばした。
ガシャン、と音を立てて食器が散乱する。
「お前のその、いちいちビクビクして『空気を読む』態度が気に入らねぇんだ! 瘴気? 寒さ? 俺たちは勇者パーティーだぞ? そんなもの気合でどうにでもなる!」
気合、じゃない。
僕が24時間、寝ずに結界の空気を調整していたからだ。
気圧を操作して雨雲を逸らし、酸素濃度を最適化し、毒素を濾過していたからだ。
でも、彼らにはそれが「当たり前の快適さ」としてしか認識されていなかった。
「……わかったよ」
僕は立ち上がった。
これ以上言っても無駄だ。
「装備は置いていけよ。それはパーティーの資産だ」
着の身着のまま。
文字通り、僕は荒野へ放り出された。
天幕の結界から出た瞬間、鉛のような暴風雨が僕を襲う。
(寒い……痛い……!)
背後で、天幕の入り口が閉ざされる。
中からは、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
僕は泥濘(ぬかるみ)に膝をつき、呼吸を整える。
「……『環境調整』、最大展開」
フウッ、と。
僕の周囲半径5メートルだけ、風が止み、雨が弾かれ、温度が23度に固定された。
無風の空間で、僕は一人、拳を握りしめた。
もう、誰かの顔色を伺って空気を読むのはやめよう。
これからは、僕自身が吸いたい空気を作るんだ。
僕は振り返らず、『死の谷』のさらに奥、誰もが生きて帰れないとされる『竜の顎(あぎと)』へ向かって歩き出した。
第二章 灼熱の地獄、あるいは天国
『竜の顎』は、活火山地帯の最深部にあった。
本来なら、気温は50度を超え、硫黄ガスが肺を焼く地獄だ。
だが今の僕にとっては、ただの散歩道だった。
「湿度が高いな……除湿」
「硫黄臭い……消臭、ラベンダーの香りを追加」
「酸素濃度、少し高めに設定して疲労回復」
僕が歩く場所だけが、高原の避暑地のような清涼な空気に包まれる。
マグマが流れる川のほとり。
平らな岩を見つけ、僕は腰を下ろした。
「ここなら、誰も来ない。静かだ」
アイテムボックス代わりのリュック(これは私物だ)から、干し肉と水を取り出す。
『環境調整』で水を瞬時に沸騰させ、極上の紅茶を淹れる。
マグマの赤い輝きを眺めながらのティータイム。
意外と悪くない。
ズズズズズ……ッ!
突如、マグマの川が割れた。
現れたのは、全身が紅蓮の鱗に覆われた、巨大な竜。
伝説の『煉獄龍』だ。
「グルルル……人間ヨ。為何(ナニユエ)、焼ケ死ナヌ?」
竜の言葉が、直接脳に響く。
その吐息だけで岩が溶けていく。
僕は恐怖で体が強張ったが、逃げる場所なんてない。
「……えっと、空気を、調整しているので」
「クウキ? 我ノ熱気ハ、鉄ヲモ蒸発サセルゾ」
竜が巨大な顔を近づけてきた。
鼻先が、僕の『快適空間』に入り込む。
その瞬間。
竜の瞳が、驚愕に見開かれた。
「!!??」
「……涼シイ!?」
竜はブルブルと巨体を震わせた。
「ナンダ、コノ心地良イ風ハ! ベタつカズ、熱カズ、サレド寒過ギズ……!!」
「あ、あの、気に入っていただけましたか?」
「気ニ入ル所デハナイ! 我ハ千年間、自分ノ熱サニ苦シんデキタ! 眠ル時モ背中ガ熱イ! 飯ヲ食ウ時モ熱イ! 万年サウナ状態ダッタンダゾ!」
竜の体から光が溢れ、次の瞬間、そこには深紅のドレスを纏った美女が立っていた。
頭に二本の角が生えている。
彼女は僕の両手をガシッと掴んだ。
「人間! イヤ、主(ヌシ)ヨ! ココニ住メ! 我ノ巣ヲ、全テこの『エアー』ニスルノダ!」
「ええ……?」
「報酬ハ弾ム! 金貨デモ、レア素材デモ、我ノ鱗デモ好キナダケ持ッテイケ!」
こうして。
追放された当日に、僕はS級ダンジョンの主(オーナー)と契約を結ぶことになった。
やることはシンプル。
この灼熱地獄を、『世界一快適なリゾート』に作り変えることだ。
第三章 英雄たちの窒息
一方、その頃。
勇者アレクたちは、『死の谷』の入り口で立ち往生していた。
「おい、なんだこれ! 息が……!」
アレクが喉をかきむしる。
一歩足を踏み入れるだけで、肺が焼けるような痛みに襲われていた。
「瘴気よ! 浄化魔法が追いつかない……!」
聖女ミリアが杖を掲げるが、紫色の霧は一向に晴れない。
むしろ、防具の隙間から入り込み、肌をただれさせていく。
「あ、暑い……鎧が焼ける……!」
戦士が悲鳴を上げて鎧を脱ぎ捨てる。
昨日までは、こんなことはなかった。
どんな過酷な場所でも、まるで自室にいるかのように快適だったのだ。
「まさか……ノアか?」
魔導師が、青ざめた顔で呟いた。
「あいつの『環境調整』が、これを防いでいたのか……?」
「ふざけるな!」
アレクは叫んだ。
「たかが空気だぞ!? あんな陰気な奴がいなくなっただけで、俺たちが進めなくなるわけがない!」
だが、事実は無慈悲だ。
彼らはまだ、ダンジョンの入り口にも立てていない。
ただの『環境』という壁に阻まれて。
「くそっ、一旦撤退だ! 街へ戻って対策を練る!」
ボロボロになりながら、勇者パーティーは逃げ帰った。
だが、彼らは知らなかった。
本当の地獄は、ここからだということを。
彼らが拠点にしていた街でも、宿屋でも、なぜか彼らの周りだけ「空気が澱む」ようになり始めていた。
ノアが無意識に行っていた、日々の微細な調整。
カビの胞子の除去、湿度の管理、悪臭の分解。
それらが失われた今、彼らの生活は急速に不快なものへと堕ちていく。
第四章 楽園の噂
それから一ヶ月。
冒険者たちの間で、奇妙な噂が流れていた。
『最果ての火山地帯に、天国があるらしい』
本来ならS級冒険者でも即死する灼熱の地獄。
そこに、氷のように冷えたエールと、最高の温泉、そして何より「世界で一番美味い空気」が吸える宿があるという。
「いらっしゃいませ」
僕は、溶岩石で作られたカウンターで客を迎えた。
「うおおお! なんだここ! 外はマグマなのに、中は冷房が効いてるみたいだ!」
「この露天風呂、最高だ……。景色は地獄、湯加減は極楽……」
訪れたS級冒険者たちが、骨抜きになってソファに沈んでいく。
ホール係をしているのは、人化した煉獄龍のヴェルミリアだ。
彼女が運ぶ料理は、火加減が完璧(ドラゴンの炎だから)で、絶品だった。
「ノア、また予約が入ったゾ。今度ハ王都ノ貴族ダト」
「わかった。VIPルームの酸素濃度を少し上げて、リラックス効果を高めておこう」
僕の『環境調整』は、レベルアップしていた。
ただ快適にするだけじゃない。
気圧操作によるマッサージ効果、高濃度酸素による疲労回復、特定の香気成分による精神安定。
ここは、過酷な戦いに疲れた冒険者たちが最後に辿り着く、究極の癒やしスポットになっていた。
カラン、とドアベルが鳴る。
「ようこそ、リゾート『ドラゴンズ・ブレス』へ……」
笑顔で顔を上げた僕は、固まった。
そこに立っていたのは、全身包帯だらけで、薄汚れた装備を纏った4人組。
勇者アレクたちだった。
第五章 空気の重さ
「ノ……ア……?」
アレクの声は、枯れていた。
かつての威光は見る影もない。
肌は荒れ、目の下には深いクマがあり、髪は脂ぎっている。
「どうしてここに?」
僕が尋ねると、アレクはその場に土下座した。
「頼む!! 戻ってきてくれ!!」
店内の客たちが、ざわめく。
「お前がいなくなってから、何もかも上手くいかないんだ! 飯は不味い、夜は眠れない、ダンジョンに入れば息ができない!」
「ミリアも……ほら、肌がこんなにボロボロになって……。ノアさんの『潤い調整』がないと、私、もうお嫁に行けない!」
聖女が泣き叫ぶ。
勝手すぎる。
僕はため息をついた。
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますので」
事務的な口調で告げる。
「い、いやだ! 金なら払う! 勇者の特権で、お前をS級待遇で……」
「断る」
僕の言葉に、店内の空気が一瞬で重くなる。
比喩ではない。
局所的に気圧を上げたのだ。
「ぐ、あ……ッ!?」
アレクたちが床にへばりつく。
見えない巨人に踏みつけられたように、指一本動かせない。
「僕は今、この店のオーナーでね。君たちのパーティーに戻るメリットが一つもないんだ」
ヴェルミリアが、僕の隣に立った。
その瞳が、爬虫類のように細まり、殺気を放つ。
「我ガ主ニ無礼ヲ働クナラ、灰ニスルゾ? 下等生物ドモ」
S級モンスター、煉獄龍の威圧。
アレクたちは恐怖で失禁しそうになっていた。
「か、帰ります……許して……」
「お帰りはこちらです」
僕が指を鳴らすと、入り口のドアが開く。
そこから吹き込むのは、本来の火山の熱風。
「ひぃぃぃ!!」
彼らは転がるようにして逃げていった。
二度と、僕の前に現れることはないだろう。
「ふん、雑魚ガ。空気ヲ汚シおッテ」
ヴェルミリアが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「まあまあ。換気するから」
僕は微笑んで、店内の空気を一新した。
爽やかな風が吹き抜け、冒険者たちが再びグラスを掲げる。
「さあ、仕事に戻ろうか」
勇者パーティーという重荷を降ろした僕は、今、誰よりも自由に呼吸をしていた。
(了)