エンジェル・プロトコル:断罪された悪役令嬢と信用の数式
第一章 崩落するシャンデリアの下で
王都の夜会は、腐った香水の匂いがする。それは花々の甘さではなく、貴族たちが身にまとう「信用スコア」への渇望と、転落への恐怖が発酵したような、鼻をつく金属的な刺激臭だ。
シャンデリアの光が乱反射する大広間で、私は一人、壁の花として立ち尽くしていた。
ウェイターが銀の盆に載せたシャンパンを配り歩いているが、私の前だけは巧みに避けて通る。彼の網膜に映るARグラスが、私を『接客推奨値:Fマイナス』と判定し、視界からノイズとして処理しているからだ。
「あら、見て。あそこにいらっしゃるのは……」
「シッ、目を合わせちゃいけないわ。感染する」
扇子で口元を隠した令嬢たちが、汚物を見る目でこちらを一瞥し、ドレスの裾を引きずるようにして距離を取る。
私はセレスティナ・アークライト。かつて王国の財政を支えた名門の元令嬢であり、今は実家の没落と共に全てを失った「悪役令嬢」だ。
ドレスのポケットの中で、真鍮の冷たい塊を握りしめる。
『アークライト式サイファー・カリキュレーター』。
骨董品店に並べば誰もが見向きもしない、歯車仕掛けの計算尺。だが、私の指先がスライドバーを弾き、ダイヤルを回すたび、内部の真空管が微かに唸り、緑色の燐光がチリチリと明滅する。
(……ボラティリティが増大している。この会場の空気が、臨界点に近い)
私の視界には、煌びやかな宝石ではなく、彼らの頭上に浮かぶ不可視のパラメータが見えていた。誰が誰に負債を抱え、誰がどの派閥に空売りを仕掛けているか。その膨大な因果の糸が、今夜、一本の線で切れようとしている。
「セレスティナ!」
粘りつくような怒声と共に、ワイングラスを持った男が私の前に立ちはだかった。新興貿易商のバロンだ。脂ぎった額には脂汗が浮かび、瞳孔が開いている。
「貴様のデマのせいで、我が社の信用格付け(レーティング)は暴落だ! 『南方航路は閉ざされる』だと? ふざけるな、私の船は順風満帆だ!」
彼の怒鳴り声に合わせ、周囲の視線が突き刺さる。
私は計算機のダイヤルを親指で弾いた。カチリ、と重い音が掌に響く。
「デマではありません」私は淡々と告げる。「南方諸島の気候データと現地通貨の流通速度(ベロシティ)の乖離が、政変の発生確率九九%を示唆していました。私はただ、損切り(ロスカット)を勧めただけです」
「黙れ! このあばずれが!」
バロンが激昂し、私に向けてワイングラスを振り上げようとした、その瞬間だった。
パリン、という硬質な音が響く。
彼の手からグラスが滑り落ち、床で砕け散ったのだ。彼自身の意志ではない。彼の手首に装着されたスマートカフスが、突然の機能停止を起こし、握力補助を切断したのだ。
「あ……?」
バロンが呆然と自分の手を見る。
同時に、会場内の巨大スクリーンが明滅し、赤い警告灯と共に速報テロップが流れた。
『南方諸島にてクーデター勃発。主要港湾、無期限凍結』
会場の空気が凍りつく。バロンの顔色が蝋のように白く染まった。
だが、本当の恐怖はそこからだった。
「が、あ……っ、あがッ!?」
バロンが喉を掻きむしり、白目を剥いて倒れ込む。
ビチビチ、と肉が焼けるような音がした。
彼の首筋から顔面にかけて、赤黒い幾何学模様のアザが浮き上がる。皮膚の下を走る毛細血管が電子回路のように発光し、肉を焦がしながら侵食していく。
「きゃああああ!」
「下がれ! 『デジタル呪詛』だ! 契約不履行の反動が来ている!」
周囲の貴族たちが悲鳴を上げ、ドレスが汚れるのも構わずに後ずさる。
これが、この世界の理。
ブロックチェーン上の『スマートコントラクト(契約)』は絶対だ。バロンはきっと、裏で信用取引の契約を破り、詐欺的なレバレッジを掛けていたのだろう。担保割れを起こした瞬間、プロトコルは彼の社会的生命だけでなく、生体認証とリンクした神経系そのものに罰を与える。
バロンは痙攣し、口から泡を吹きながら、見えない鎖に締め上げられるように悶え苦しんでいる。焦げ臭い肉の匂いが、腐った香水の香りと混じり合い、吐き気を催す悪臭となって充満する。
「……計算通りね。因果の清算は、いつも高くつくわ」
私は冷ややかに見下ろし、計算機のスライドバーを戻した。
周囲の軽蔑の視線が、恐怖の色へと変わっていくのがわかる。彼らにとって私は、人の不幸を予言し、破滅を呼ぶ魔女に見えるだろう。
私が先週、バロンの会社の積み荷保険をこっそりと買い増し、彼の船員たちの家族が路頭に迷わないよう手配したことなど、誰も知らない。
「相変わらず、趣味の悪い余興だな」
人垣が割れ、拍手の音が近づいてくる。
現れたのは、第二王子とその取り巻きたちだった。彼の胸元には、最高ランクの信用スコアを示すプラチナのバッジが輝いている。
「アークライトの娘よ。父が国を傾けたように、お前もまた、不安を煽って市場を混乱させるか」
「事実を直視できないことを、混乱とは呼びません、殿下」
私はカーテシーもせず、計算機の真鍮の感触を確かめる。
アークライト家の没落。父の死。巨額の使途不明金。
すべては、父が国家ぐるみの「不正なアルゴリズム」に気づいてしまったからだ。
「口の減らない女だ。お前の言う『ゴーストコイン』など、どこの台帳(レジャー)にも存在しない。妄想も大概にせよ」
「存在しない通貨が、なぜ父の口座記録を食い荒らしたのです? あれはバグではない。意図的なバックドアです」
「黙れ」
王子の目が冷たく細められた。
「これ以上、神聖な『中央信用機構』を愚弄すれば、その薄汚い計算機ごと廃棄処分にするぞ」
私は唇を噛んだ。
言葉は届かない。彼らは、与えられたスコアの奴隷だ。システムそのものを疑う知性など、とうの昔に去勢されている。
背を向ける。これ以上、ここにいる意味はない。
ドレスの裾を翻し、私は夜会を後にする。
背後でバロンのうめき声が途絶え、医療ドローンが淡々と遺体を回収する音が聞こえた。
誰も彼を悼まない。スコアがゼロになった人間は、もはや人間として認識されないからだ。
こんな世界は、間違っている。
私は夜風に当たりながら、計算機を強く握りしめた。
真鍮が熱を帯び、私の脈動に合わせて微かに振動している。
――始めましょう。本当の舞踏会を。
第二章 亡霊のアルゴリズム
屋敷の地下、かつてワインセラーだった場所は、今や熱と騒音の支配する聖域と化していた。
無数のサーバーラックが唸りを上げ、冷却ファンの重低音が腹の底に響く。壁一面のモニターには、緑と赤の数値の滝が奔流となって流れ落ち、薄暗い部屋をサイケデリックに照らしている。
私はドレスを脱ぎ捨て、オイルの染みた作業用ローブを羽織る。
中央のコンソールデスクに、愛用の『サイファー・カリキュレーター』を乱暴に置いた。真鍮の端子を引き出し、メインフレームのポートに物理接続する。
ガチャン、ジジジ……。
アナログな歯車が噛み合う物理音と、電子的な接続音が交錯する。
瞬間、世界中のトランザクション・データが私の脳幹に直接流れ込んでくる。
「くっ……!」
視界がホワイトノイズに覆われる。
頭蓋骨の内側を、焼きごてで撫でられるような激痛。
この計算機は、私の神経系とダイレクトにリンクし、膨大な市場データを「感覚」として処理する。株価の暴落は落下感として、インフレの熱は皮膚を焼く熱波として。
「検索対象、『ファントム・スキャム』。深層マイニング開始」
父を殺した幽霊通貨の正体。三年間、追い続けてきた影。
通常のデジタル捜査では足がつかない。奴らはブロックチェーンの承認履歴そのものを改竄し、存在を消しているからだ。
だが、物理的な計算機(アナログ)は誤魔化せない。
電子データが嘘をついても、その処理に要したサーバーの消費電力、排熱、そして微細な時間のズレ(レイテンシ)は、必ず物理現象として残る。
私はスライドバーを操作し、計算尺の目盛りを合わせる。
指先が熱い。真鍮が発熱し、指の皮を焦がす匂いが立ち上る。
痛みを無視して、ダイヤルを回す。
『座標特定。王都地下、第三データセンター』
『署名照合……不可。しかし、パターンは一致』
モニター上のノイズの中に、ぼんやりと紋章が浮かび上がる。
それは、この国の経済を牛耳る『中央信用管理局』。そして、その管理者権限を持つ、ヴァイン公爵家の家紋。
「やっぱり、あなただったのね……」
ヴァイン公爵。信用経済システムの守護者を自称し、父を糾弾した張本人。
彼が裏で、認可外の『ゴーストコイン』を発行し、市場の流動性を吸い上げていたのだ。表では厳格なルールを強き、裏では自分だけがルールを無視して富を独占する。
父はそれに気づき、消された。
その時、計算機が異常な振動を始めた。
歯車が悲鳴を上げ、針がレッドゾーンを振り切る。
『警告。敵対的アルゴリズムによる逆探知。ファイアウォール、第一層突破』
「見つかった!?」
早すぎる。私の侵入を待ち構えていたかのような反応速度。
モニターが赤く染まり、無数のポップアップウィンドウが警告を発する。
敵のコードは、まるで軍隊のアリのように整然としていて、かつ凶暴だ。私の防御プログラムを食い破り、中枢へと侵攻してくる。
「ガッ……あぁッ!」
鼻から温かいものが滴り落ちた。鼻血だ。
脳への負荷が限界を超えようとしている。視界の端が歪み、現実の風景とデジタルの光景が混ざり合う。
敵の意図が、情報の奔流となって流れ込んでくる。
これは単なる迎撃ではない。
奴らは、仕上げにかかっている。
『プロジェクト・リセット。実行まで残り四八時間』
ヴァイン公爵の計画。
それは、『ゴーストコイン』を使って既存の信用データベースを完全に破壊(クラッシュ)させること。
全ての国民の資産をゼロにし、パニックに陥ったところで、彼だけが管理できる新通貨を「救済」として配布する。
それは経済のリセットではない。全人類を、彼の台帳(データベース)に登録された家畜へと変える、魂の植民地化だ。
「ふざけるな……そんなこと、させるもんですか!」
私は震える手で、計算機の緊急遮断レバーを引いた。
バチン! という火花と共に接続が切れ、私は椅子から転げ落ちた。
荒い息を吐きながら、床を這う。
四八時間。それが、この世界の余命。
父が遺したデータと、私の計算機だけが、対抗手段だ。
「……勝算は、〇・〇〇二%」
私は血の混じった唾を吐き捨てた。
低すぎる。だが、ゼロではない。
私の計算機は、最悪の未来を予測する。それは裏を返せば、その最悪を回避する「針の穴のような一点」が見えているということ。
私は再びデスクにしがみついた。
敵のシステムは「中央集権」だ。トップダウンで全てを制御しようとする。
ならば、対抗策はその逆。
誰も管理せず、誰も支配しない。個々の「善意」と「約束」だけを鎖のように繋ぎ合わせる、完全自律分散型のプロトコル。
「書き換えてやるわ。この腐った数式を」
真鍮の計算機が、再び私の指先で熱を帯びる。
油と血と鉄の匂いが充満する地下室で、私は世界を救うためのコードを紡ぎ始めた。
第三章 信用の崩壊と再生
四八時間後。王城の大広間は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
シャンデリアは明滅し、貴族たちが手にした端末は、一様に不吉なエラー音を吐き出し続けている。
「な、なぜだ! 私の資産が……消えている!?」
「信用スコア測定不能(エラー)だと? おい、誰か説明しろ!」
「店が決済を受け付けない! 水も買えんぞ!」
ヴァイン公爵の『ゴーストコイン』が起動したのだ。
王国のメインサーバーが食い荒らされ、すべての台帳データが暗号化された檻の中に閉じ込められた。
昨日まで彼らが誇っていた地位も名誉も、ただの電子ゴミへと変わった。
壇上に、ヴァイン公爵が姿を現す。
その表情には、すべてを掌握した者特有の、陶酔した笑みが張り付いている。
「静粛に! 諸君、嘆くことはない!」
公爵の声が、スピーカーを通して会場を圧する。
「旧来のシステムは老朽化し、自壊したのだ。だが案ずるな。私が新たな秩序を用意した。この『ソブリン・トークン』こそが、これからの唯一の価値だ。私の管理下に入り、忠誠を誓う者だけに、資産の回復を約束しよう」
それは救済ではない。服従の契約だ。
だが、資産を失い、恐怖に駆られた貴族たちは、蜘蛛の糸にすがるように公爵へと手を伸ばそうとする。
「その契約に、署名してはなりません」
重い扉が軋み、開かれた。
静まり返る会場に、私の足音が響く。
ドレスではない。煤と油で汚れた作業着姿。髪は乱れ、目の下には隈が刻まれている。
手には、赤熱して煙を上げる『サイファー・カリキュレーター』。
「アークライトの……落ちこぼれか!」公爵が嘲る。「何をしに来た。ここはお前のような薄汚れたネズミが来る場所ではない」
「いいえ、こここそが決済の場(クリアリング・ハウス)です」
私はよろめきながらも、公爵の前に進み出た。
「あなたの『ゴーストコイン』のアルゴリズムには、致命的な欠陥があります。それは、あなたが『人間は管理されなければ不正を働く』という前提で設計したことだ」
「それが真理だからだ! 見ろ、この混乱を! 統制なき自由など、カオスを生むだけだ!」
「いいえ。カオスを生んでいるのは、あなたの一極集中した欲望です」
私は計算機を掲げた。
「私は、あなたが隠蔽した『裏帳簿』のハッシュ値を全て解析しました。ブロックチェーンは嘘をつかない。あなたが三年前、父を陥れるために発行した偽造トランザクション、そして今、この国の資産をロックした秘密鍵。すべてここにあります」
公爵の顔色がさっと変わる。
「馬鹿な……あのアナログな玩具で、私の量子暗号を解いただと?」
「ええ。デジタルの壁は抜けなくても、物理的な『熱量』の痕跡は消せませんから」
私は計算機の最後のスイッチを押し込んだ。
バシュッ! と蒸気が噴き出し、計算機が激しく発光する。
同時に、会場の巨大スクリーンがジャックされた。
そこに映し出されたのは、公爵の不正の証拠――ではない。
それは、市井の人々の姿だった。
王都の下町。パン屋の店先。
通貨が紙切れとなり、混乱するはずの場所で、人々はスマートフォンをかざし合い、穏やかにパンを受け取っている。
端末の画面には、通貨の記号ではなく、小さな「羽」のアイコンが輝いていた。
「な、なんだこれは……?」公爵が狼狽する。
「『エンジェル・プロトコル』」私は告げた。「私がばら撒いた、新しい信用システムです」
そこには中央管理者がいない。私の支配も、公爵の支配も受けない。
AさんがBさんにパンを渡したという「事実」と「感謝」が、改竄不能なブロックとして記録され、それがそのまま次の取引の信用となる。
「金」という媒体を介さず、「行為」そのものを価値として流通させるP2Pネットワーク。
「システムは、世界を変えません。システムを使う『人々』が変えるのです」
スクリーンの中で、パン屋の主人が笑っている。
『金なんぞ今は紙切れだが、このプロトコルの記録なら信じられる。こいつは昨日、困ってる婆さんを助けたっていうログが残ってるからな』
既存の経済が崩壊した極限状態で、人々が選んだのは、公爵の脅しではなく、目の前の隣人への信頼だった。
「馬鹿な……性善説だと? そんな綺麗事で経済が回るものか! 人間は裏切る! 奪い合う!」
「ええ、人間は愚かです。私も、あなたも」
私は公爵を真っ直ぐに見据えた。
「だからこそ、私の計算機は『最悪の未来』を計算し続けました。人間が起こしうるあらゆる裏切り、あらゆる悪意、一億通り以上の『詐欺のパターン』をシミュレーションし、その全てを論理的に封じ込める数式を組み込みました」
性悪説から導き出された、性善説のシステム。
悪意が入り込む余地のないほど強固に組み上げられた、善意の連鎖。
「チェックメイトです、公爵。あなたの『ゴーストコイン』は、もはや誰も承認しません」
会場の貴族たちが、呆然と自分の端末を見る。
そこには、公爵のトークンではなく、『エンジェル・プロトコル』の招待状が届いていた。彼らは顔を見合わせ、そして一人、また一人と、その新しい契約を受け入れていく。
「やめろ……やめろぉぉぉ!」
公爵が絶叫し、メインサーバーにしがみつく。
だが、遅い。彼が独占していた富は、プロトコルによって自動的に分散され、不当に搾取されていた人々のもとへと還流していく。
公爵の端末が、ブブブ、と不快な音を立ててショートした。
彼の信用スコアが、ゼロどころか、測定不能の領域へと墜ちていく音だった。
私は膝をついた。
サイファー・カリキュレーターから煙が上がっている。長年の相棒は、その役目を終え、静かに動きを止めた。
「……疲れたわね」
私は、壊れた計算機を愛おしく撫でた。
エピローグ 名もなき開拓者として
数ヶ月後。
王都は、かつてない活気に包まれていた。
重苦しい「信用スコア」の相互監視社会は崩壊し、街には色とりどりの屋台が並ぶ。人々は端末を片手に、笑顔で言葉を交わし、価値を交換している。
そこには、見えない鎖も、肌を焼く呪詛もない。
私は、下町の小さなオープンカフェの隅に座り、湯気の立つコーヒーを啜っていた。
着ているのは簡素なリネンシャツ。もう、誰も私を「アークライト家の令嬢」とは呼ばない。
公爵家は解体され、私はすべての特権を失った。
だが、今の私は、かつてよりもずっと「裕福」だ。
「セレスティナお姉ちゃん!」
近所の少年が駆け寄ってきて、私のテーブルに花を一輪置いた。
「これ、あげる! 昨日、算数を教えてくれたお礼!」
私の手元の古い端末が、ピロン、と小さく鳴る。
『価値交換承認:野の花一輪 ⇔ 教育的貢献』
ブロックチェーンに、温かなログが刻まれる。これが、今の私の財産だ。
懐から、動かなくなった真鍮の計算尺を取り出す。
もう、こいつが緑色の光を放つことはない。未来の破滅を予言することも、誰かの没落を計算することもない。
役目を終えた金属の塊は、ただ静かに、陽の光を反射している。
「……確率は、計算不能。だからこそ、愛おしい」
私は微笑んで、計算尺をポケットにしまった。
かつて私は、数字の中にしか居場所がなかった孤独な悪役令嬢だった。
けれど今、世界そのものが、私が愛した数式のように美しく、公正で、つながり合っている。
「さて、行かなくちゃ」
私はコーヒー代として、カフェの主人に「昨日の皿洗いのログ」を送信し、席を立った。
空は高く、どこまでも澄み渡っている。
私は雑踏の中へと歩き出した。
新たな時代の、名もなき一人の開拓者として。