忘却の羅針盤と幸福代行者
第一章 幸福の質量と空っぽの僕
霧雨がアスファルトを濡らす夜、僕は依頼人の邸宅の前に立っていた。都市を覆うネオンの光が、降りしきる雨粒を色とりどりの宝石に変えている。僕、カイの仕事は幸福の代行だ。他人の幸福を一時的に「借り受け」、それを必要とする別の人間に「移植」する。都市の巨大な機構「感情調整局」が管理する公的なサービスとは異なり、僕の仕事はもっと個人的で、そして非合法だった。
ドアが開くと、執事と思しき老人が深々と頭を下げた。通された部屋には、重厚な革張りのソファに沈むように座る男がいた。豪奢な調度品に囲まれながら、彼の周囲だけが色を失っているように見える。彼がこの街の経済を牛耳る富豪、アークライト氏だ。
「娘が、壊れてしまった」
彼の声は、乾いた木が擦れるようにか細かった。
「感情調整局のサービスを受けた後からだ。幸福の移植を受けたはずが、今では笑うことも泣くこともない。ただ、虚空を見つめるだけ……まるで、魂を根こそぎ奪われたように」
感情枯渇。最近、裏社会で囁かれるようになった現象だ。正規のルートを経ずに幸福を手に入れた者が、突如として深い絶望、あるいは完全な無感情に陥る。僕はポケットに忍ばせた「共鳴ガラスの羅針盤」を握りしめた。冷たいガラスの感触が、指先に馴染む。これは感情の質量を測り、移動させるための道具。そして、僕にとっては失われた過去への唯一の繋がりだった。
幸福を移植するたびに、僕の記憶は一つ、ランダムに消えていく。初めて自転車に乗れた日の高揚感、母が作ってくれたスープの匂い、誰かと交わした大切な約束。頭の中には、静かで広大な空白地帯が増え続けている。
「原因を突き止め、娘を元に戻してほしい。報酬はいくらでも払う」
アークライト氏の目は藁にもすがる思いで揺れていた。僕は頷き、彼の差し出す大金ではなく、娘さんが使っていたという小さな髪飾りを受け取った。そこに残る微かな感情粒子を、羅針盤が読み取る。ガラスの中で、淡い光が渦を巻き、針がかすかに震えた。それは絶望の色でも、幸福の色でもない。ただ、どこまでも透明な「無」の色だった。
仕事を引き受け、邸宅を後にする。雨はいつの間にか上がっていた。濡れた路面に映る自分の顔は、ひどく曖昧で、まるで他人のように見えた。幸福を売り買いするうちに、僕自身の感情もまた、その質量を失いつつあるのかもしれない。羅針盤を胸に当てると、ガラスの奥で、見覚えのない少女が微笑む残像が、一瞬だけ揺らめいて消えた。
第二章 枯渇した魂の残響
アークライト氏の娘が受けた幸福は、成功した若手芸術家のものだった。記録を辿り、僕はその芸術家のアトリエを訪ねた。絵の具の匂いと、強い情熱の感情粒子が満ちた空間。しかし、当の本人はキャンバスの前で呆然と立ち尽くしていた。
「描けないんだ。何も感じない。色も、形も、ただの記号にしか見えない」
彼は、僕の羅針盤が示すとおり、幸福を「貸し与えた」側の人間だった。だが、彼の感情もまた枯渇しかけていた。本来、幸福を貸した者は、一時的な虚脱感はあっても、すぐに自身の感情を取り戻すはずだ。これは、単なる幸福の移動ではない。何者かが、感情そのものを「消滅」させている。
僕は裏社会の情報網を辿り、他の被害者を探し出した。彼らに共通していたのは、僕のような非正規の幸福代行者から、純度の高い幸福を移植されたという事実だった。そして、彼らが幸福を受け取った場所は、いずれも都市の片隅にある古い倉庫街に集中していた。
羅針盤を手に、その倉庫街へと足を踏み入れる。湿ったコンクリートの匂いと、打ち捨てられた機械の錆びた匂いが鼻をつく。ここでは、幸福や悲しみといった強い感情の粒子はほとんど感じられない。まるで、巨大な掃除機で吸い取られたかのように、感情の真空地帯が広がっていた。
その時だった。胸の羅針盤が、これまでになく激しく振動し始めた。ガラスの中で光が乱反射し、針が狂ったように回転する。それは特定の感情を指しているのではない。僕自身の「失われた記憶」に強く共鳴していた。
「……ここだ」
僕が幸福代行者として、最初の仕事をした場所。
忘れていたはずの景色が、断片的に蘇る。羅針盤が映し出す微弱な光の中に、雨に打たれる少年の姿が見えた。絶望に打ちひしがれ、世界のすべてを呪うような瞳をした、かつての依頼人の姿が。
なぜ、忘れていた? なぜ、最も重要な記憶が消えていた?
背筋を冷たい汗が伝う。この感情枯渇事件の裏には、「無感情化計画」という不吉な噂が流れていた。個人の感情を完全に消滅させ、精神的な空白を作り出すという狂気の計画。その中心に、僕の過去が深く関わっている。羅針盤の針は、倉庫街の最も奥深く、今は廃墟と化した感情研究所を、揺らぐことなく指し示していた。
第三章 最初の過ち、最後の手向け
廃墟の扉は、軋みながら僕を迎え入れた。内部は静寂に包まれ、床に散らばるガラス片を踏む音だけがやけに大きく響く。中央には、都市の感情粒子を監視する巨大なモニターと、羅針盤を巨大化したような不気味な装置が鎮座していた。その装置の前に、一人の男が立っていた。
「やっと来たか、カイ」
振り向いたその顔に、僕は息を呑んだ。羅針盤が映し出した、あの雨の中の少年。だが、彼の瞳はもはや絶望の色ではなく、全てを諦観したかのような、底なしの虚無を湛えていた。
「エリオ……」
僕の唇から、忘れていたはずの名前がこぼれ落ちた。彼こそが、僕の最初の顧客だった。
「君がくれた幸福は、素晴らしかったよ」
エリオは静かに語り始めた。その声には何の抑揚もなかった。
「おかげで僕は、悲しみも苦しみも感じずに済んだ。だが、それは偽物だった。傷口の上に美しいガラスの蓋をしただけだ。蓋の下で、僕の本当の感情は腐り、やがて消滅した。君が移植したのは幸福じゃない。感情の死だ」
彼はゆっくりと僕に近づく。
「その時、悟ったんだ。感情こそが、人間を苦しめる呪いなのだと。喜びがあるから、失うことを恐れる。愛があるから、憎しみが生まれる。ならば、全ての人から感情を奪い去れば、世界は真に平等で、平和なものになる」
それが「無感情化計画」の正体だった。彼が作った装置は、幸福の移植をトリガーにして、人々の感情粒子を根こそぎ消滅させるためのものだったのだ。
「君は、この計画の始まりだ、カイ。だから、君に終わりを見届けてもらう」
エリオが装置のスイッチに手をかける。都市中の感情粒子が、一本の光の束となって装置に吸い込まれ始めた。街から色が消え、音が消え、人々が立ち尽くす幻影が見える。僕の羅針盤も悲鳴のような音を立てて砕け散りそうだった。
絶望的な状況の中、僕の脳裏に、消えかかっていた最後の記憶が閃光のように蘇った。あの日、僕はただ幸福を移植したのではなかった。絶望するエリオを前に、どうしようもなく湧き上がった同情と、彼を救いたいという強い願い――僕自身の「希望」という記憶の欠片を、幸福に混ぜて与えてしまったのだ。
それが、僕の最初の過ち。そして、僕の記憶喪失の始まりだった。僕が与えた不純な希望が、彼を歪ませ、こんな怪物を生み出してしまったのだ。
第四章 名もなき光の記憶
「やめろ、エリオ!」
僕の叫びは、感情を失った彼には届かない。都市の光が、急速に失われていく。このままでは、世界からすべての感情が消え去ってしまう。
もう、選択肢は一つしかなかった。
僕は、砕け散りそうな羅針盤を両手で強く握りしめた。これは単なる道具ではない。僕が失ってきた記憶の、全ての墓標だ。僕は意識を集中させ、まだ僕の中に残っている、全ての記憶を羅針盤に注ぎ込み始めた。
自転車の乗り方。スープの味。交わした約束。幸福代行者になった理由。そして、雨の中でエリオと出会った、あの日の記憶――。
「僕の記憶を……僕の全存在を、君への手向けにしよう」
僕という個を形成していた全ての記憶が、羅針盤の中で純粋な感情粒子へと変換されていく。それは喜びも、悲しみも、痛みも、愛も、希望も内包した、ありのままの「人間の記憶」という名の光だった。
「さよなら、エリオ。君に与えるべきだったのは、偽りの幸福じゃなかった」
共鳴ガラスの羅針盤が、まばゆい光を放ち、甲高い音とともに砕け散った。
僕の記憶から生まれた無数の光の粒子が、奔流となって世界に拡散していく。それはエリオの装置が吸い込む負のエネルギーを打ち消し、逆流となって装置そのものを破壊した。光は廃墟の天井を突き破り、無感情の灰色に沈みかけていた都市へと、優しい雨のように降り注いでいった。
計画を阻止されたエリオは、その場に膝をついた。彼の乾いた瞳から、一筋、忘れていたはずの本物の涙がこぼれ落ちる。降り注ぐ光の粒子が、彼の頬に触れたのだ。それは、カイという一人の人間が生きた証の輝きだった。
僕の意識は、急速に薄れていく。身体が透けていき、世界の輪郭が滲んでいく。誰からも忘れられ、認識されることのない「存在しない者」へと変わっていく。それでよかった。
最後に僕の目に映ったのは、街角でふと空を見上げた人々が、理由もわからず涙を流し、隣にいる誰かの手を握りしめる光景だった。失われたはずの温かい感情が、世界に再び灯っていく。
誰もいない廃墟の片隅で、砕けた羅針盤のガラス片が、最後の光を反射していた。そこに一瞬だけ、誰かの記憶にも残らない、優しい笑顔が映り込んで、静かに消えた。