共感の残響
第一章 色のない死
俺、蒼(ソウ)の眼には、世界が常に二重写しに見えている。
一つは、誰もが目にする現実の風景。もう一つは、その現実の上に降り注ぐ無数の光の粒子――人々が送り合う「いいね」の輝きだ。この世界では、「いいね」は単なる評価ではない。それは寿命そのもの。巨大公共プラットフォーム「ライフログ」に記録された人生のあらゆる瞬間に送られる「いいね」が、我々の心臓を動かす燃料となる。
俺の能力は、その光が消える瞬間を捉えることにある。「共感性残像視」。それは、「いいね」が寿命としての役目を終え、消滅する瞬間にだけ、送り手が抱いていた微細な感情の残像を視覚化する呪いのような祝福。喜びは金色の細波のように、悲しみは青い雫となって宙に滲む。だが、この能力を行使するたび、俺自身の指先から確かな体温が、命そのものがわずかに削り取られていく冷たい感覚があった。
その日も、俺は雑踏の中で消えゆく光の残像を眺めていた。カフェの窓際で笑う恋人たちに送られた、淡いピンク色の幸福感。公園で転んだ子供を励ます母親からの、温かい橙色の慈しみ。ありふれた日常に咲いては消える、小さな感情の花々。それが俺の世界の全てだった。
突如、世界から音が消えた。
街中のホログラム広告が明滅し、人々のライフログ端末が一斉に暗転する。空を彩っていた無数の「いいね」の光が、まるで呼吸を止めたかのように動きを止めた。そして、次の瞬間。世界の頂点から、途方もない数の光が、一斉に、音もなく消滅したのだ。
それは、ライフログ評議会議長、アレクシス・ノアのものだった。「不老」の称号を持つ、世界で最も愛された男。彼のライフログに蓄積された「いいね」は、天文学的な数字に達していたはずだ。
俺は反射的に眼を凝らした。これほどの「いいね」が消滅する瞬間の残像は、一体どんな凄まじい光景だろうか。期待と恐怖がない交ぜになり、心臓が跳ねる。
だが、俺の眼に映ったのは、完全な「無」だった。
色がない。形がない。何の感情の痕跡もない。まるで、そこに最初から何も存在しなかったかのように、ただ空虚な空白が広がっているだけ。能力の代償である体の冷えさえ感じなかった。前代未聞の事態に、俺は立ち尽くすしかなかった。やがて、復旧した公共スピーカーが、彼の死を告げる冷たい合成音声を街に響かせた。一瞬で老化し、塵のように崩れ落ちた、と。
システムのバグか、それとも未知の法則か。議長の死は、この「いいね」が支配する世界に、静かで巨大な亀裂を入れた。
第二章 沈黙の連鎖
アレクシスの死は、世界を根底から揺るがした。
彼の死を皮切りに、ライフログ全体で「いいね」の異常減少が始まったのだ。まるで伝染病のように、人々の寿命が理由もなく削られていく。「昨日まであったはずの『いいね』がごっそり消えている!」「私の寿命が半分になった!」悲鳴が至る所であがり、社会は急速に恐慌へと突き進んでいった。これまで絶対的な指標であった「いいね」への信仰が、音を立てて崩れ始めていた。
俺は、あの「無」の残像が頭から離れなかった。感情なき消滅。それは、この世界の法則を根本から覆す、ありえない現象だった。
「議長の死の謎を解かなければ、この世界は終わる」
衝動に突き動かされ、俺は独自に調査を始めた。残された手がかりは、俺のこの眼だけだ。
古い情報を漁るうち、俺は一つの言葉にたどり着いた。「無音の映写機(サイレント・プロジェクター)」。それは、ライフログが制定される以前、システムの初期開発者が個人の「内なる感動」――つまり、他人からの評価を介さない純粋な感情――を記録するために試作した幻のデバイスだという。結局、他者評価を基本とするライフログの理念とは相容れないとして、闇に葬られた代物だった。
噂を頼りに、俺は裏社会の情報屋と接触し、なけなしの寿命(いいね)を支払ってそれを手に入れた。古びた真鍮製の小さな箱。手のひらに収まるほどのそれは、ひんやりとした金属の感触で、まるで長い眠りについていたかのような静けさを湛えていた。説明書によれば、この映写機は「共感性残像視」で捉えた感情の残像にレンズを向けることで、そのエネルギーを微細な光の粒子として物質化し、空中に投影できるという。
俺は、それを手に議長が暮らしていた評議会のタワーへと向かった。厳重な警備を潜り抜け、彼の私室に忍び込む。もし、あの部屋に彼の感情の痕跡がわずかでも残っているのなら、この映写機が何かを捉えるはずだ。
ガラスとスチールで構成された、完璧に整頓された部屋。そこはまるでモデルルームのように無機質で、生活の匂いが一切しなかった。俺は映写機を構え、部屋の隅々までレンズを向けた。
だが、映写機は沈黙したままだった。何の光も、何の粒子も生まれない。まるで、この部屋の主が、一度も人間らしい感情を抱いたことがない、とでも言うように。
第三章 無音の映写機
絶望が胸をよぎる。やはり、議長は感情を失っていたのか。
諦めかけたその時、俺の指先が壁の一点に不自然な継ぎ目があるのを感じ取った。隠し扉だ。力を込めて押すと、壁の一部が静かにスライドし、その奥に小さなアトリエのような空間が現れた。
そこは、彼の完璧な私室とはまるで別世界だった。使い古されたイーゼル。床に散らばる画材の匂い。そして、壁にかけられた一枚のキャンバス。
描かれていたのは、子供が描いたような、一枚の落書きだった。
歪んだ線で描かれた、巨大な太陽。クレヨンで無心に塗りつぶされたそれは、お世辞にも上手いとは言えない。ライフログに投稿すれば、一つも「いいね」がつかないかもしれない、そんな稚拙な絵。
だが、その絵には、不思議な生命力が宿っていた。評価を求めない、ただ描きたいから描いたという純粋な衝動が、そこから溢れ出しているように感じられた。
俺は吸い寄せられるように、その絵に「無音の映写機」を向けた。
瞬間、映写機のレンズが微かに震え、柔らかな光を放ち始めた。それは、今まで俺が見てきたどんな感情の残像とも違っていた。攻撃的な赤でも、悲しみに沈む青でもない。ただひたすらに温かく、穏やかな、純白の光。
光は無数の粒子となってアトリエの空間に舞い上がった。まるで、雪解けの陽光を浴びて輝く、春の日の埃のように。ゆっくりと漂うその一粒に、俺はそっと指を伸ばした。
触れた瞬間、心に直接、音が響いた。
それは音楽ではなかった。言葉でもなかった。ただ、深く、静かな「安堵」の音色。長い旅を終えた旅人が、ようやく故郷に帰り着いた時のような、全ての重荷を下ろした魂の吐息。
これだ。
これが、議長アレクシス・ノアが最後に感じた感情。誰からの「いいね」でもない、彼自身の内側から湧き上がった、たった一つの真実。
第四章 共感の残響
俺は全てを理解した。
議長アレクシスは、「不老」の称号を得る代償として、自身の「共感性」――感情そのものをライフログのシステムに明け渡していたのだ。彼は、人々が最も「いいね」を送りたくなるような、完璧で、公平で、しかし感情のない「器」を演じ続けてきた。
だが、死の直前、彼はこのアトリエで、誰にも見せることのなかった自身の落書きと対面した。その瞬間、彼の内に眠っていた、システムに明け渡したはずの純粋な「喜び」と「安堵」が、ほんの一瞬だけ蘇ったのだ。
システムは、その「個」の感情の発生を、契約違反と見なした。器としての役割の終わりを告げ、彼から全ての「いいね」――彼の寿命を奪い去った。
彼の死は、システムのバグなどではなかった。それは、彼自身が仕組んだ、この世界を「いいね」の呪縛から解放するための、最後のプログラムだったのだ。自らの死をもって、システムの絶対性を破壊し、人々に真の共感とは何かを問いかける。壮大で、あまりにも孤独な計画。
俺があの時見た「無」の残像は、感情がなかったからではない。システムを介さない、あまりに純粋で個人的な感情だったために、ライフログの規格では測定できず、俺の能力でも捉えきれなかったのだ。
俺はアトリエを出て、窓の外を見下ろした。世界はまだ混乱の中にある。しかし、以前とは何かが違っていた。ライフログの数字に一喜一憂する人々は減り、代わりに、互いの顔を見つめ、直接言葉を交わす姿が少しずつ増えていた。消えゆく寿命の恐怖の中で、人々は他者からの評価ではない、もっと根源的な繋がりを求め始めていた。
ポスト・ライフログ時代の夜明け。
俺は、もう「共感性残像視」を使うことはないだろう。寿命を削ってまで見るべきものは、消えゆく「いいね」の残像ではない。目の前にいる人間の、不器用で、不完全で、それでも確かな温もりを持つ感情そのものだ。
議長の落書きに宿っていた「安堵」の音色が、まだ胸の奥で静かに響いている。それは、世界を解放した男が最後に遺した、優しく、そして切ないレクイエムだった。
空にはもう、人工的な「いいね」の光はない。ただ、太古の昔から変わらない、静かな星々が瞬いているだけだった。