空白の歴史を食む者
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空白の歴史を食む者

第一章 琥珀色の追憶

リクが営む店は、街の片隅で忘れられたように佇んでいた。古びた木製の扉を開けると、埃っぽい骨董品の匂いと、丁寧に淹れた珈琲の香ばしいアロマが客を迎える。彼はここで、訪れる者もまばらなカフェを兼ねた骨董品店を一人で切り盛りしていた。

昼下がりの穏やかな光が床に長い影を落とす中、リクは厨房で仕込みの最中だった。ことことと鍋が立てる優しい音。今夜の特別メニューである、古代小麦を使った琥珀色のスープ。彼は味見のために、木製のスプーンで静かにそれをすくい、口へと運んだ。

その瞬間、世界が反転した。

舌に触れた熱い液体は、単なる味覚情報ではなかった。それは、時間と空間を超えた情報の奔流。彼の意識は、遥か昔、太陽が照りつける広大な麦畑へと飛んだ。土の匂い、風が穂を揺らす音、農夫たちの額を流れる汗の塩辛さ。収穫され、石臼で挽かれ、清らかな湧水と混ぜ合わされ、誰かの愛情を込めた手で煮込まれるまでの、気の遠くなるような旅路。小麦という存在が辿ってきた、マクロな歴史のすべてが、一瞬にして彼の五感を焼き尽くす。

「……っ!」

リクはカウンターに手をつき、荒い息を繰り返した。これが彼の生まれ持った呪いであり、能力だった。食べたものの「存在の歴史」を、その根源から追体験してしまう力。使い方を誤れば、情報の洪水に呑まれて精神が崩壊する。彼は長年かけて、意識の表層で情報の流れを受け流す術を身につけていた。

だが、最近は何かがおかしかった。歴史の奔流を遡るたび、決まってある一点で、その流れがぷつりと途絶えるのだ。まるで、巨大な壁に突き当たったかのように。その先は、完全な無。音も、光も、匂いもない、絶対的な「空白」。

カラン、とドアベルが鳴った。思考の淵から引き戻されたリクが顔を上げると、一人の女性が立っていた。歳はリクと同じくらいだろうか。知的な光を宿す瞳で、不安げに店内を見回している。

「あの……ここは、古いエコー・ジェムを扱っていると伺ったのですが」

彼女はエリアと名乗った。歴史学者で、近年世界中で起きている不可解な現象を調査しているという。特定の時代――特に「大繁栄時代」と呼ばれる古代文明に由来するエコー・ジェムが、まるで蒸発するかのように世界から姿を消しているのだ、と。

「心当たりはありませんか? 例えば、かつてこの地にしかいなかった『月光蝶』のジェムや、『太陽の麦』と呼ばれた小麦のジェムとか……」

リクは心臓が冷たくなるのを感じた。太陽の麦。先ほど自分が追体験し、そして「空白」にぶつかった、あの古代小麦のことだ。彼は何も知らないふりを貫き、静かに首を横に振った。この忌まわしい力に、誰をも巻き込みたくはなかった。

第二章 忘却の砂時計

エリアは諦めなかった。それから毎日のように店に顔を出し、リクが淹れる珈琲を静かに飲みながら、自分の調査について語った。彼女の情熱は本物だった。失われゆく歴史を、ただ純粋に憂いていた。

「これは、祖父の形見なんです」

ある日、彼女は小さな包みの中から、奇妙な砂時計を取り出した。磨かれた黒曜石の枠に嵌められたガラスの中には、エコー・ジェムを砕いた微細な粒子が、星屑のようにきらめきながら落ちていく。しかし、その砂時計は奇妙だった。上のガラスには、まだ多くの砂が残っているにもかかわらず、下の受け皿にはほとんど砂が溜まっていない。まるで、落ちた砂が途中で消えてしまうかのように。

そして、砂が消えた上部の空間には、陽炎のような何かが揺らめいていた。目を凝らすと、それは巨大な塔が林立する、見たこともない都市の幻影のようだった。

「祖父はこれを『忘却の砂時計』と呼んでいました。真実を封じるためのものだって……」

エリアがそう言って砂時計をリクに手渡そうとした、その瞬間だった。リクの指先が、ガラスに触れた。

閃光。

悲鳴。

今まで経験したことのない、暴力的で鮮烈な記憶の断片が、彼の脳髄に直接叩きつけられた。空を埋め尽くす巨大な船。天を突く白亜の塔。そして、すべてを焼き尽くす無慈悲な光と、大地を揺るがす絶叫の渦。それは、彼がスープで感じた「空白」の向こう側――抹消されたはずの歴史の、凄まじい断末魔だった。

「う、あ……っ!」

リクはその場に崩れ落ちた。エリアが驚いて駆け寄る。ぜいぜいと肩で息をしながら、リクは震える声でエリアに告げた。自分が今まで隠し続けてきた能力のすべてと、あらゆる歴史の果てに存在する「空白」の壁について。もう、一人で抱え込むには限界だった。

第三章 沈黙の谷の真実

二人は砂時計が示す幻影の都市と、エリアの調査資料を照らし合わせ、一つの場所に辿り着いた。かつて「大繁栄時代」の中心地であったとされ、今では何人も立ち入りを禁じられている「沈黙の谷」。そこが、すべての謎の答えがある場所だと確信していた。

険しい岩山を越え、谷に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。生命の気配がまるでない。鳥の声も、虫の音も聞こえない。世界から色が失われたような、灰色の静寂が二人を包んでいた。谷の奥深く、崩れかけた巨大な建造物の中心に、それはあった。

脈動する巨大なエコー・ジェムの集積体。そして、その前に静かに佇む、光で編まれた人型の存在。

『来たか。世界のバグよ』

声は、リクの頭の中に直接響いた。創造主。あるいは、この世界のシステムを管理する、超越的な存在の残留思念。リクが触れるまでもなく、その存在はすべてを語り始めた。

「大繁栄時代」の文明は、生命エネルギーを無限に汲み上げる技術を開発し、世界の生命周期そのものを破壊する寸前だったこと。その破滅を回避するため、創造主は自らの権能を行使し、原因となった文明とその歴史に連なるすべての存在――特定の動植物、文化、記憶――を、因果の鎖から断ち切って抹消したのだと。

それが「空白の歴史」の正体だった。

『だが、その代償として、世界は多様性という活力を失った。エコー・ジェムの減少は、世界の緩やかな死の兆候だ』

そして、光の人型はリクをまっすぐに見据えた。

『お前の能力は、我が見逃した最後の瑕疵。抹消された歴史の、忌まわしき残滓。世界の安定のため、ここで修正させてもらう』

光が激しく明滅し、圧倒的な圧力がリクとエリアに襲いかかった。これは世界の理そのもの。抗うことなど許されない、絶対的な力だった。

第四章 虹色のエコー

絶望的な力の差を前に、エリアを庇いながら、リクは覚悟を決めた。バグでも、エラーでも構わない。だが、このまま世界が静かに死んでいくのも、エリアが傷つくのも、彼には耐えられなかった。

彼は懐から「忘却の砂時計」を取り出した。そして、迷うことなくガラスを叩き割り、きらめくエコー・ジェムの砂を、すべて口の中に掻き込んだ。

「リク!?」

エリアの悲鳴が遠のく。

彼の意識は、無限の奔流に呑み込まれた。抹消された「大繁栄時代」の一世紀にわたる、すべての歴史。栄光と繁栄、愛と喜び、そして、傲慢さが故に破滅へと至った愚かな「過ち」。そのすべてが、彼の魂を削り、精神を砕きながら、奔流となって駆け巡る。

だが、崩壊の寸前で、彼は見た。過ちの中にさえ、確かに存在した輝きを。未来を想う親の愛を。友と交わしたくだらない誓いを。たとえ間違っていたとしても、それもまた、紛れもない生命の歴史の一部だったのだ。

認める。受け入れる。

過ちも、輝きも、すべて。

リクの体から、眩いばかりの光が溢れ出した。それは、単色ではない。今まで誰も見たことのない、無数の色が混じり合った、複雑で、深く、そして優しい虹色の光だった。光は創造主の思念を浄化し、沈黙の谷を覆い、やがて世界そのものを包み込んでいった。それは、失われた歴史の断片が、新たな可能性の種となって、再び世界に蒔かれる瞬間だった。

どれほどの時間が経っただろう。エリアが意識を取り戻した時、谷には生命の息吹が戻り始めていた。空には鳥が舞い、足元には名も知らぬ草花が芽吹いていた。だが、そこにリクの姿はなかった。

ただ、彼女の掌の中には、小さな結晶が一つ、握られていた。

それは、虹色の光を放つ、見たこともないエコー・ジェムだった。喜びも悲しみも、栄光も過ちも、そのすべてを内包したかのように、複雑で美しい輝きを放っている。

世界は、緩やかな死から救われた。しかし、人々はこれから、リクが取り戻した「過ち」の歴史と向き合い、未来を選び直すという重い宿題を背負うことになった。

エリアは空を見上げた。涙が頬を伝う。それでも彼女は、掌の中にある虹色の輝きを強く握りしめた。彼が遺してくれた、この不完全で、だからこそ愛おしい世界の未来を紡いでいくために。

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