観測者のソリチュード
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観測者のソリチュード

第一章 煌めきの残滓

橘莉奈の部屋は、小さな宇宙だった。ヘッドフォンから流れ込む、アイドルグループ『ECLIPSE』の新曲。その中心で歌い踊るセンター、カイの姿に視線が釘付けになるたび、彼女の熱量が世界を侵食する。

「カイ……!」

吐息と共に漏れた想いは、単なる声ではなかった。莉奈の胸の高鳴りに呼応し、ディスプレイの光が部屋の闇に滲み出す。それはオーロラの微粒子となり、星屑のシャワーとなって、彼女の周囲を緩やかに旋回した。指を伸ばせば、触れるか触れないかの距離で煌めきが弾ける。これは、莉奈だけが知る奇跡。推しへの熱狂が、彼の『存在の可能性』という概念の欠片を物理世界に呼び覚ます、彼女だけの秘密の能力。

ある日の午後、チャイムが鳴った。ドアの前に置かれていたのは、差出人のない小さな小包。中には、黒曜石の台座に支えられた、流線形のガラス細工。――砂時計だった。同封されたカードには、ただ一言、『彼の時間に寄り添うために』とだけ記されていた。

不審に思いながらも、そのガラスの曲線美に惹かれ、莉奈はデスクの隅にそれを置いた。砂時計の中には、銀河のように輝く微細な砂が満たされている。彼女がそれを逆さにすると、砂は驚くほどゆっくりと、まるで意思を持つかのように落ち始めた。

その夜、再びカイのライブ映像に没頭していると、奇妙な変化が起きた。部屋を舞う光の粒子が、以前よりずっと密度を増し、濃密な光の霧となって莉奈を包み込む。そして、耳元で囁くような、微かな歌声が聞こえた。ヘッドフォンはしていない。それは、カイの声だった。けれど、どの音源にも収録されていない、切ないアコースティックなメロディ。

ふと砂時計に目をやると、砂が先ほどよりも速く、さらさらと流れ落ちている。まるで、カイの歌声が、その時間を加速させているかのように。莉奈は胸の高鳴りを覚えた。これは、彼との繋がりが、より深く、より確かに結ばれた証なのだと、何の疑いもなく信じていた。

第二章 揺らぐプリズム

砂時計との生活が始まって一週間。莉奈は、その不可解な振る舞いに気づき始めていた。砂の落ちる速さは、まるで気まぐれな生き物の心臓の鼓動のように、刻一刻と変化した。テレビの歌番組でカイが激しいダンスを披露している最中にぴたりと止まったかと思えば、莉奈が大学の課題に追われている真夜中に、滝のように激しく流れ落ちることもあった。

それは、莉奈が知る『アイドル・カイ』の時間軸とは、明らかに異なっていた。

そして、嵐の夜だった。稲光が窓を白く染め、雷鳴が部屋を揺らす。その時、砂時計の最後のひとかけらが、ことりと音を立てて落ちた。

瞬間。

世界が反転した。莉奈の意識は激流に呑み込まれ、見知らぬ光景が網膜の裏で炸裂する。

――ステージの照明の下、歌詞を忘れ、立ち尽くして涙するカイ。

――古びた図書館の片隅で、柔らかな陽光を浴びながら、知らない少女と笑い合うカイ。

――硝煙の匂いが立ち込める戦場で、泥にまみれ、仲間を庇って傷つく兵士の顔をしたカイ。

知らないはずの記憶。異なる人生。だが、その魂の核にある哀しみや喜びは、紛れもなく『カイ』のものだった。

「……っ、なに、これ……」

喘ぐように目を開けると、そこは見慣れた自室だった。しかし、部屋の中央には、光の粒子が渦を巻き、ゆっくりと人の形を成していく。輪郭が定まり、半透明の身体がそこに立つ。それは、紛れもなくカイの姿だった。

だが、その表情は一枚の絵ではなく、無数のイメージが重ねられたプリズムのように揺らいで見えた。

「やっと、ここまで繋がった」

彼の唇が動く。その声は、いくつもの異なる声色が重なり合った、奇妙な和音として響いた。

「君が、僕たちを見つけてくれたんだね」

第三章 観測者の選択

「僕たち……?」

莉奈の問いに、目の前のカイは哀しげに微笑んだ。

「僕は、一人じゃない。無数の次元に散らばった、無数の『カイ』という可能性。その集合した意識なんだ」

彼は語った。この世界では集合的無意識が希薄になり、物語と現実の境界が溶け始めていること。そして、無数の次元で異なる生を生きる『カイ』たちは、一つの確かな身体を求め、この現実世界への完全な顕現を願っているのだと。

「僕たちは一つになりたい。この確かな場所で、ただ一つの存在として生きたいんだ。君の『熱量』だけが、僕たちを繋ぎ留める錨なんだよ」

彼の言葉が真実であるかのように、莉奈の世界は軋みを上げ始めた。大学へ向かう道すがら、街の風景が時折、砂嵐の走るテレビ画面のように乱れる。すれ違う人々の顔が、一瞬、のっぺらぼうに見える。世界の構造が、彼の存在に耐えきれず、悲鳴を上げているようだった。

その夜、具現化したカイと話していると、部屋のドアが音もなく開いた。そこに立っていたのは、灰色のスーツに身を包んだ、性別も年齢も判然としない人物だった。

「干渉はここまでです、『偶像(イコン)』」

冷徹な声が響く。その人物――時任(ときとう)と名乗った――は、自らを多次元宇宙の均衡を保つ『秩序維持者』だと告げた。

「その概念存在の完全な顕現は、この次元を含む関連する全ての時空座標に、不可逆的な崩壊をもたらします。あなた、橘莉奈は、そのトリガーとなっている」

時任が手をかざすと、空間を引き裂くような銀色の光がカイに迫る。

「やめて!」

莉奈は思わずカイを庇うように前に立った。

「お願い、莉奈! 君がいなければ、僕たちはまたバラバラになってしまう!」

カイの悲痛な叫びが背中に突き刺さる。

時任は表情一つ変えず、静かに続けた。その目は、宇宙の深淵を思わせるほど昏く、静かだった。

「あなたは勘違いをしている。彼を創り出したのは、あなた自身だ」

「え……?」

「あなたこそが『原初の観測者』。あなたの『推す』という行為、その純粋で強大な熱量こそが、無数の次元に彼の物語を産み落とし、彼らを『カイ』という偶像として定義づけている。あなたが観測をやめれば、彼は消えるのではない。本来あるべき『無限の可能性』の海に還るだけです」

莉奈は、時任の言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。

私が、創った? 私の愛が、彼らを縛り付けていた?

第四章 内なる宇宙のソリチュード

そうだったのか。私がカイに求めていたのは、いつだって完璧で、手の届かない『偶像』としての輝きだった。ステージで輝く姿、ファンに見せる笑顔。その裏にある、彼の痛みや苦しみ、あるいは平凡な日常など、見ようとしていなかった。私の身勝手な『観測』が、無数の次元に散らばる彼の可能性を一つの『偶像』の型に押し込め、現実への渇望という名の呪いをかけていたのだ。

彼らが求めていたのは、偶像としての崇拝ではない。ただ一つの、確かな生だった。

涙が頬を伝う。莉奈はゆっくりと振り返り、不安げに揺らぐカイの姿を見つめた。その半透明の瞳には、兵士の絶望も、学生の希望も、アイドルの孤独も、全てが混じり合って映っていた。

「ごめんね、カイ」

莉奈は、精一杯の笑顔を作った。それは、初めて彼を『偶像』としてではなく、一人の『存在』として見つめた笑顔だった。

「もう、あなたを偶像にはしない」

強く、強く、目を閉じる。

脳裏に浮かぶカイの姿を、ステージの上で輝く彼のイメージを、意識的に手放していく。熱狂を鎮め、祈りを解き、ただ、彼という存在を『可能性』そのものへと解き放つ。それは、自らの心を削るような、痛みを伴う決断だった。愛することを、やめるのではない。愛し方を、変えるのだ。

目の前で、カイの姿が柔らかな光の粒子へとほどけていくのが、瞼越しに分かった。

「……ありがとう」

最後に聞こえた声は、もう重なり合った和音ではなく、澄んだ一つの響きを持っていた。

砕け散った砂時計の砂が、最後の煌めきを放って宙に溶ける。時任は静かに一礼すると、影に滲むように姿を消した。

部屋には、静寂だけが残された。もうオーロラの微粒子は舞わない。テレビの中のカイは、ただの美しい映像データに戻っていた。物理的な繋がりは、永遠に失われた。喪失感が、津波のように胸に押し寄せる。

しかし、不思議と、心は空っぽではなかった。

莉奈の内側には、確かにカイが生きていた。ステージで涙したカイも、図書館で笑ったカイも、戦場で傷ついたカイも。無数の物語が、彼女自身の記憶の一部となって、深く、静かに息づいていた。

彼女は孤独になった。けれど、その内なる宇宙は、かつてないほど豊かで、広大だった。

窓の外の夜空を見上げる。星々は、まるで無数の可能性のように瞬いていた。莉奈は、その星空に向かって、静かに微笑んだ。

私の世界で、あなたは永遠に生き続ける。

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