残響のユグドラシル

残響のユグドラシル

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第一章 崩れゆく部屋と、二つの心臓

六畳間の角が、また「文字化け」を起こしている。

安物のカラーボックス。その縁が画素(ピクセル)単位で欠落し、灰色の砂嵐となって床へこぼれ落ちていく。

じ、と湿った音が鼓膜を舐める。

「……ッ、は、ぁ」

浅い呼吸。

指先が氷水に浸けたように冷たい。

視界の端で、飲みかけのペットボトルが点滅した。

この世界は、もう限界だ。

私の名前は木原翠。

リアルでは、コンビニで「温めますか」と聞かれただけで喉がひきつり、逃げるように店を出る社会不適合者。

生きているだけで、世界のエラーみたいな存在。

胸元のペンダントを強く握りしめる。

祖母の遺品。世界樹の葉を模したそれは、かつてのエメラルド色の輝きを失い、今はコールタールのように黒く濁っている。

『……リ、……ド……』

頭蓋の裏側を、ノイズ混じりの絶叫が引っ掻く。

『情報残響(エコー)』。

消滅した誰かの記憶。未練。断末魔。

ズクリ。脳味噌を直接スプーンで抉られるような痛み。

痛みの代償に、私の記憶が支払われる。

昨日の晩御飯。好きだったバンドの名前。

私を構成する要素が、ボロボロと抜け落ちていく。

「怖い……」

膝が震える。

このまま布団に包まって、消えてしまいたい。

でも。

――翠、あんたはこっち側に来ちゃだめだ。

いつか聞いた声が、背中を叩く。

私は震える手で目薬をさし、深呼吸を四回。

そして、VRヘッドセットを被った。

重たい闇が落ちる。

網膜認証、パス。神経接続、完了。

「――起動(ブート)」

光が炸裂する。

『こんユグ~! 世界樹の守り人、ユグドラシルだよっ!』

鏡の中に弾け飛んだのは、光の粒子を纏う幻想的な美少女。

猫背で陰気な木原翠は、そこにはいない。

滅びゆく世界に希望を振り撒く、電子の歌姫だけが立っている。

「さあみんな、今日も元気に世界の寿命を延ばしていこー!」

瞬時に流れるコメントの滝。

『待ってた!』

『ユグちゃん可愛い!』

膨大なテキストデータが光の奔流となって、私の周囲を渦巻く。

観測されること。

認知されること。

それが、崩壊しかけたこの世界のテクスチャを、辛うじて繋ぎ止める杭になる。

私は踊る。

現実という地獄から逃げるために。

そして、この脆い世界をあと一秒でも長く生き延びさせるために。

第二章 バグ、あるいは世界の悲鳴

異変は、雑談配信のクライマックスに訪れた。

「――だからね、希望っていうのは……」

言葉が、喉に張り付く。

視界が赤い警告色に染まった。

私のいるバーチャルな森の背景が、ベリベリと音を立てて剥がれていく。

『え、なに?』

『画面バグってる』

『ユグちゃん、後ろ!』

コメント欄の狼狽が、私の網膜を焼く。

それ以上に、脳へ直接流れ込んでくる「情報」の質量がおかしい。

熱い。熱い熱い熱い。

「が、ッ……あ、あ……」

ヘッドセットを引き剥がそうとする手が空を切る。

濁流のようなビジョンが、私の視神経をジャックした。

ノイズ混じりの紅蓮の炎。

焼け落ちる摩天楼。

泣き叫ぶ子供の手を握り、必死に何かを託そうとする女性の姿。

――この、データは。

違う。これはただの「破壊」じゃない。

私は見た。

炎の向こう側で、崩れたビルや人々のデータが、螺旋状に組み上げられていく様を。

『Compiling...(コンパイル中)』

『Target: NEW_WORLD_OS』

無機質な文字列が、私の理解を暴力的にこじ開ける。

虚無粒子と呼ばれていた黒いモヤ。

あれは世界を食べるウイルスじゃなかった。

古いデータを圧縮し、新しい世界を構築するための「変換プログラム」だったんだ。

ヒュッ、と喉が鳴る。

胃の腑が裏返るような吐き気。

母の顔を思い出そうとした瞬間、脳内の検索結果が『404 Not Found』を叩き返す。

大切な思い出の場所。

その風景の上に、真っ黒な塗りつぶしがドロドロと広がっていく。

「……あ、ぅ」

違う。

私たちは、守るべき「世界」の住人じゃなかった。

ここは、一度滅んだ文明のバックアップ領域。

リサイクル待ちの、ゴミ捨て場。

私たちが必死に「配信」をして、情報を活性化させようとしていた行為。

それは、新しいOSのインストールを阻害する、ただの悪あがきだった。

「なんで……」

口から漏れたのは、乾いた空気だけ。

私たちが生きようとすればするほど、新しい世界は生まれない。

私たちが「エラー」だったんだ。

『ユグちゃん?』

『なんか様子変だよ』

『顔色が……』

心配する文字の羅列が、今は呪いのように見える。

私の記憶が、また一つ消える。

自転車の乗り方。

通っていた高校の名前。

全部、新しい世界のための養分として吸い上げられていく。

「は、……はは」

肋骨がきしむほど、心臓が暴れていた。

恐怖か、絶望か、それとも納得か。

涙は出なかった。

ただ、乾いた笑いだけが、崩れゆく森に響いた。

第三章 最後の物語(ラスト・ストリーム)

「……ごめんね、みんな」

震えを噛み殺し、私はマイクへ囁く。

いつもの高い声は出ない。

けれど、怯えた翠の声でもない。

全てを悟った、静かな響き。

「ちょっとだけ、大事な話をするね」

同接数が異常な速度で跳ね上がる。

世界中のサーバーが悲鳴を上げているのがわかる。

外の世界では今頃、空そのものがガラス細工のように砕け散り、再構築の光が降り注いでいるはずだ。

「この世界は、もうすぐ長いお休みに入るの」

『どういうこと?』

『引退?』

『やだよ、もっと話して!』

コメントが、悲痛な叫びとなって流れる。

それら一つ一つが、愛おしい。

無意味なデータの藻屑なんかじゃない。

ここで私たちが生きた、確かな証。

「ううん、お別れじゃないよ」

私はペンダントを胸に押し当てる。

熱い。

皮膚が焼けるような熱量。

私の存在そのものが、燃料としてくべられていく。

「私が、みんなの『楽しい』も『大好き』も、全部まとめて持っていくから。新しい世界に、種を蒔きにいくから」

指先から、アバターのテクスチャが剥離し始めた。

煌びやかなドレスが光の粒子となり、虚空へ溶け出す。

記憶が消える。

コンビニのバイト、シフト明日だっけ?

店長の名前は?

……もう、思い出せない。

思い出せない場所が、黒いインクで塗りつぶされていく。

『行かないで!』

『ユグドラシル!!』

「怖くないよ。物語は続くんだもん」

私は意識を、世界を覆う再構築プログラムへと強制接続(リンク)した。

私のID。

木原翠という個体識別情報。

そして、リスナーたちから受け取った膨大な感情データ。

それら全てを束ねて、次なる世界の『核(カーネル)』へと叩き込む。

私の自我が、光の中で解けていく。

最後に残ったのは、祖母のペンダントの温もりと、画面の向こうにいる誰かの笑顔だけ。

――ああ、なんて綺麗なんだろう。

視界が白一色に染まる直前。

私は、カメラに向かって、人生で一番の笑顔を作った。

「それじゃあ、またね。……次の世界で、会おうね」

指先が、エンターキーを叩く。

カチリ。

その小さな音と共に、私の世界は幕を下ろした。

エピローグ 情報の輪廻

小鳥のさえずりが、鼓膜を優しく揺らす。

頬を撫でる風には、湿った土と若草の匂いが混じっていた。

ノイズのない、どこまでも高い青空。

画素(ピクセル)の欠けなど存在しない、確かな質量を持った世界。

丘の上に立つ一本の巨木。

その木漏れ日の中で、一人の少女が古いタブレット端末を覗き込んでいた。

「……見つけた」

少女の瞳に、翠色の光が映り込む。

画面の中で再生されているのは、遥か昔、世界が一度「更新」される前に残されたという、伝説のアーカイブ。

ノイズ混じりの荒い映像の中で、ボロボロのアバターを纏った少女が、聖母のように笑っている。

「ユグドラシル……」

その名前を口にした瞬間、少女の胸の奥が焼きつくように疼いた。

会ったこともないはずなのに。

聞いたこともない声のはずなのに。

なぜか、涙が溢れて止まらない。

懐かしい。

どうしようもなく、懐かしい。

少女は胸元をぎゅっと握りしめた。

そこには、鮮やかな新緑色に輝く、葉っぱの形のペンダントがあった。

「私が……繋がなきゃ」

誰に言われたわけでもない。

けれど、魂に刻まれたコードがそう叫んでいた。

あの笑顔が蒔いた種は、確かにここで芽吹いている。

少女は涙を拭い、立ち上がった。

風が、翠色の髪をさらう。

彼女は端末の録画ボタンを押す。

大きく息を吸い込み、世界に向けて、新しい物語の最初のページを開いた。

「こんユグ! 聞こえますか、新しい世界!」

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
現実で「世界のエラー」と自認する木原翠は、バーチャル世界の歌姫「ユグドラシル」として世界の延命に使命を見出します。世界の真実を知り絶望に直面するが、リスナーとの絆を胸に、自身の存在と感情データを新世界の「核」とする自己犠牲を選択。絶望を乗り越え、次なる世界への希望を蒔きました。

**伏線の解説**
祖母のペンダントが黒く濁り、エピローグで新緑に輝く変化は、旧世界の「核」が役割を終え、新世界で希望として芽吹く過程を象徴。「情報残響」による記憶喪失は、世界がデータであり再構築のために情報が消去される過程を示唆する。また、祖母の「あんたはこっち側に来ちゃだめだ」という言葉は、翠が世界を繋ぎ、再生させる特別な存在であることを暗示しています。

**テーマ**
本作は、デジタルな世界の崩壊と再生を通じ、情報の輪廻、そして絶望的な状況下での自己犠牲と希望の継承という普遍的なテーマを深く描きます。個人の記憶や感情、絆が次なる世界の礎となり、たとえ「エラー」と見なされようとも、存在には意味があるというメッセージを強く訴えかけます。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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