第一章 硝子の棺に咲く花
その惑星の空は、凍りついたアメジストのような紫色をしていた。
呼吸をするたび、循環システムが微かな唸りを上げる。
ヘルメットのガラス越しに見えるのは、見渡す限りの結晶大地。
「美しいでしょう、ヴァンス大佐」
私は手元のタブレット端末を操作しながら、通信機に向かって囁いた。
「この星は歌っているの。地質活動の振動じゃない。もっと有機的な、飢餓の歌よ」
「博士、ポエムは報告書に書くな」
ノイズ混じりの低い声が返ってくる。
大佐の苛立ちは、この極寒の惑星において唯一の熱源かもしれない。
「外気温マイナス百二十度。大気の九割が二酸化硫黄。ここで育つ植物などない。あんたの『苔』以外はな」
私は足元の地面に視線を落とした。
鋭利な刃物のような水晶の亀裂。
その隙間に、私が設計した遺伝子改変地衣類『テラ・ブリガー』が、蛍光グリーンの脈動を繰り返しながらへばりついている。
それは単なる植物ではない。
岩盤のケイ素を分解し、酸素と熱を生成する生きた工場だ。
「順調よ。予想以上の適応速度だわ」
「ならいい。居住ドームの建設予定地まであと二キロだ。サンプルを回収したら戻れ」
通信が切れる。
私は小さくため息をつき、目の前の『テラ・ブリガー』に触れようとグローブを伸ばした。
その瞬間。
私の脳内に、強烈な不協和音が響いた。
キィィィィィン。
「ッ……!」
聴覚ではない。
私の共感覚が捉えた、生態系の悲鳴だ。
いや、違う。
これは悲鳴ではない。
歓喜だ。
苔の先端が、まるで意思を持っているかのように蠢き、私のグローブの指先へと伸びてくる。
硝子質の葉脈が、人工繊維の織り目を愛でるように撫でた。
「いい子ね……もっと、欲しいの?」
私は戦慄した。
恐怖ではない。
背筋がゾクゾクするような、倒錯的な感動に。
この惑星(クリサリス)は、ただの荒野ではない。
眠っていたのだ。
そして今、私たちが持ち込んだ「有機物」という極上の餌の匂いを嗅ぎつけ、目を覚まそうとしている。
「星宮博士! こっちを見てください!」
助手のライナスの声が通信機に飛び込んできた。
彼は数十メートル先、巨大な水晶柱の陰にしゃがみ込んでいる。
「どうしたの?」
「異常です。計器の数値が……ありえない」
私は重たい宇宙服を引きずり、彼の元へ向かった。
ライナスが指さす先。
透明度の高い水晶の中に、何かが封じ込められている。
それは、一輪の花のように見えた。
だが、花弁は肉のような質感で、中心部には人間の目玉のような器官が、ぎょろりとこちらを覗いている。
「原住生物……? 事前調査では生命反応ゼロだったはずだ」
ライナスの声が震えている。
「違うわ、ライナス」
私はその「目」と視線を合わせ、恍惚とした笑みを浮かべた。
「これは、鏡よ」
「え?」
「私たちが蒔いた種が、この星の記憶(アーカイブ)と交配したの。見て、この美しい融合を」
水晶の中の「目」が、瞬きをした。
次の瞬間、ピキリ、と水晶に亀裂が入る。
「博士、離れて!」
「静かに。驚かせてはいけないわ」
私は一歩近づく。
亀裂から漏れ出したのは、芳醇な花の香りではない。
鉄錆と、腐った果実を煮詰めたような、濃厚な死の匂いだった。
だが私には、それが産声(うぶごえ)のように感じられた。
ここから始まるのだ。
人類のためのテラフォーミング(惑星地球化)?
傲慢な勘違いだ。
私たちは、この星を人が住める場所にするために来たのではない。
この星の、肥料になるために来たのだから。
第二章 飽和する緑、侵食する赤
ベースキャンプに戻ってから三日。
『変化』は劇的かつ静謐に進行していた。
居住区画のエアロック内。
除染シャワーを浴びながら、私は自分の腕を鏡に映していた。
「……綺麗」
前腕部の皮膚の下に、うっすらとエメラルドグリーンの血管が浮き出ている。
痛みはない。
むしろ、血管の中を流れる血液が、微弱な電流となって脳を刺激し、常に穏やかな陶酔感を与えてくれていた。
「星宮博士、緊急会議です」
インターホンが鳴る。
私は袖をまくり、白衣を羽織ると、表情を引き締めて部屋を出た。
会議室の空気は最悪だった。
円卓を囲むクルーたちの顔色は一様に悪い。
いや、比喩ではなく、物理的に顔色が悪いのだ。
ある者は土気色に、ある者は病的な紅潮を浮かべている。
「現状を報告する」
ヴァンス大佐が重々しく口を開いた。
彼の手元には、ちぎれた配線ケーブルが置かれている。
「昨夜、動力炉の冷却パイプが破損した。原因はこれだ」
大佐がケーブルを持ち上げる。
その断面からは、銅線ではなく、太い植物の蔦(つた)が垂れ下がっていた。
「植物が、金属を食っている?」
機関士が悲鳴のような声を上げる。
「有機金属置換です」
私は冷静に告げた。
「この星の生態系は、ケイ素と炭素のハイブリッドです。金属を取り込み、自身の骨格として利用する。非常に効率的な進化ですね」
「感心している場合か!」
大佐が机を叩く。
「ドームの外壁にも浸食が始まっている。このままでは気密が保てない。除草剤も、火炎放射も効果が薄い。博士、お前の作った『テラ・ブリガー』が元凶なんだろう! 制御コードはどうなっている!」
「制御? 無理ですよ」
私は肩をすくめた。
「彼らはもう、私の手を離れました。現地のOS……つまり、惑星の意識とリンクして、最適化(アップデート)を終えたんです」
「何を言って……」
その時。
ガタンッ!!
激しい振動がベースキャンプを揺らした。
照明が明滅し、非常用のアラームが鳴り響く。
『警告。居住区画C、隔壁破損。バイオハザード検知』
無機質なアナウンスに重なるように、廊下から絶叫が聞こえた。
「いやだ! なんだこれ、離せ、離せぇぇぇ!」
私たちは廊下へ飛び出した。
そこには、悪夢のような光景が広がっていた。
助手のライナスだ。
彼が、壁に埋まっていた。
いや、壁から生えてきた無数の透明な触手が、彼を包み込み、融合しようとしているのだ。
「ライナス!」
大佐がブラスターを抜く。
「撃たないで!」
私は大佐の腕を掴んだ。
「よく見て。彼は苦しんでいない」
確かにライナスは叫んでいたが、その表情は恐怖から、徐々に虚ろな恍惚へと変化していた。
彼の口から、あの水晶の中で見たような、肉厚の花弁が溢れ出している。
「あ……が……きれい……だ……」
ライナスの体が、メリメリと音を立てて結晶化していく。
皮膚が硬質なガラス質に変わり、その内側で、極彩色の光が脈動を始めた。
「なんという……」
クルーたちが後ずさる。
私はライナスに歩み寄った。
彼の変化は、死ではない。
より高次な存在への「昇華」だ。
私の耳には、ライナスの身体が奏でるシンフォニーが聞こえていた。
以前のような不協和音ではない。
完璧に調律された、天上の音楽。
「理解したでしょう、大佐」
私は振り返り、震える男たちに微笑みかけた。
「テラフォーミングは成功したの。ただし、人間が住むためじゃない。人間を『部品』として取り込むことで、この星は完成するのよ」
「貴様……最初からこれを知っていたのか!」
大佐が私に銃口を向ける。
しかし、遅かった。
私の背後の床材を突き破り、巨大な蔦が鎌首をもたげていた。
第三章 楽園の庭師
銃声が響く。
だが、放たれたエネルギー弾は、私の目の前で霧散した。
空気中に充満した胞子が、エネルギーを吸収し、即座に光合成(エネルギー変換)を行ったのだ。
空中で弾ける光の粒子。
それはまるで、祝砲のようだった。
「馬鹿な……」
大佐が呆然と立ち尽くす。
「無駄よ。この空間の支配権は、もう私にある」
私は両手を広げた。
指揮者がタクトを振るように。
ズズズズズ……。
ベースキャンプの床、壁、天井。
あらゆる隙間から、水晶の蔦と肉の葉が溢れ出す。
「総員退避! シャトルへ急げ!」
大佐の怒号と共に、生き残ったクルーたちが駆け出す。
しかし、出口であるエアロックは、すでに分厚いエメラルドの結晶によって封鎖されていた。
「出られない……!」
「ここが開花の中心地(グラウンド・ゼロ)だもの」
私はライナスの成れの果て――美しく結晶化した彫像のような彼――に背を預け、逃げ惑う人々を見つめた。
「聞いて。星が歌っている」
私の脳内に響く音楽は、最高潮に達しようとしていた。
何億年もの間、飢え、渇き、孤独に耐えてきたこの星の魂。
それが今、豊かな有機物と、複雑な人間の精神構造を取り込み、爆発的な進化を遂げようとしている。
クルーの一人が、足元から伸びた蔦に捕まる。
「うわあぁぁぁ!」
悲鳴は一瞬で途絶えた。
蔦の棘が皮膚を突き破ると同時に、強力な神経麻痺毒と、幻覚剤に似た多幸感をもたらす酵素が注入されるからだ。
彼は白目を剥き、よだれを垂らしながら、だらりと力を抜いた。
その体はすぐさま繭のように包まれ、新たな苗床となっていく。
「狂ってる……お前は人間じゃない、悪魔だ」
大佐が膝をつく。
彼自身もすでに、左半身が結晶化し始めていた。
「悪魔? いいえ、私は庭師よ」
私は大佐の前にしゃがみ込んだ。
「地球を見てごらんなさい。人間という害虫に食い荒らされ、死にかけている。
でも、このクリサリスはどう?
ここでは、全ての命が一つに統合され、無駄なく循環する。
争いも、飢餓も、孤独もない。
個という檻を捨てて、全体という永遠の一部になるの」
「それが……お前の望みか……」
「ええ。私はずっと、この音を探していた」
私の視界が、緑色に明滅し始める。
私自身の体も、限界が近づいているのだ。
皮膚が硬化し、指先が枝へと変わっていく感覚。
それは痛みではなく、痒みにも似た、むず痒い歓びだった。
「大佐、あなたも優れた素材よ。強い意志、統率力……それがこの星の免疫系(ディフェンス・システム)として機能するわ」
大佐は何かを言いかけたが、その口は急速に伸びてきた苔によって塞がれた。
彼の瞳から光が消え、代わりに結晶の輝きが宿る。
静寂が訪れた。
いや、物理的な音は消えたが、意識の海は大合唱に包まれていた。
私は立ち上がろうとしたが、足はすでに床と一体化していた。
ドレスの裾のように広がった根が、深部にある動力炉へと達し、そのエネルギーを吸い上げているのが分かる。
(ああ、繋がった……)
意識が拡張する。
ベースキャンプの監視カメラの映像、温度センサーの数値、空気中の成分分析。
すべてが私の感覚器官となった。
さらにその外側。
地平線の彼方まで広がる水晶の森。
地下深くを流れるマグマの鼓動。
大気圏外に浮かぶ母船の信号さえも。
「私が……星になる」
私は、この星の脳(コア)となったのだ。
視界の隅で、通信コンソールが点滅している。
地球からの定期連絡だ。
『こちら地球統合政府。クリサリス基地、応答せよ。テラフォーミングの進捗状況を報告されたし』
私は思考だけでコンソールに接続した。
声帯はもうない。
だが、データとしてメッセージを送ることはできる。
私は、全宇宙へ向けて、招待状を綴った。
『テラフォーミング完了。環境は極めて良好。楽園はここにあり』
『至急、移民船団の派遣を要請する。人類の新たな故郷が、あなた方を待っている』
送信キーを押す。
ふふ、と脳内で笑い声が響いた。
もっと、もっと肥料が必要だ。
この美しい庭を、銀河の果てまで広げるために。
私はゆっくりと瞼を閉じた。
まぶたの裏に焼き付くのは、やがて降り注ぐであろう、数多の星々(ヒト)の輝き。
それは、どんな宝石よりも美しく、食欲をそそる光景だった。
(ようこそ、私の胃袋へ)
永遠の静寂の中、硝子の庭で、私は満ち足りた眠りについた。