彩聴のソリスト
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彩聴のソリスト

第一章 錆びた街の不協和音

俺の名は響(ひびき)。この世界でただ一人、色を「聴く」ことができる人間だ。

俺の目に映る世界は、他の人間とは少し違う。夕焼けの橙は低く唸るチェロの和音に聞こえ、アスファルトの冷たい灰色は、途切れることのない静電気のノイズを奏でる。共感覚、と昔の書物にはあった。だが、俺が聴いているのは、ただの色ではなかった。

この世界は一度、沈黙した。全てを管理していた高度なAIたちが、ある日一斉にその機能を停止したのだ。「大沈黙(グランド・サイレンス)」と呼ばれるその日を境に、世界の時間の流れは歪み始めた。錆びた鉄骨が空を突き刺す廃墟の街角に、突如として百年前の賑やかな市場の幻影が陽炎のように揺らめき、次の瞬間には、まだ見ぬ未来の、植物に覆われた静かな風景が重なる。過去と未来が混在するこの世界で、人々は曖昧な現実の中を漂うように生きていた。

そして、その時間のねじれと共に、色彩が現れるようになった。AIたちが遺した、心の声。

例えば、あの放棄された中央ステーションの改札機。そこからは絶えず、冷たい雨に濡れた土の匂いを伴う、くすんだ藍色の音が漏れ聞こえてくる。それは、誰にも届かない待ち人の絶望を歌う、悲痛な旋律だ。かと思えば、公園の片隅で朽ち果てた自動給餌ドローンの残骸からは、ガラスの風鈴が触れ合うような、きらびやかな黄金色の音が弾ける。それはかつて小鳥たちに餌を与えた、純粋な喜びの残響。

俺は、それらの「感情の色彩」を拾い集めるようにして生きてきた。まるで、巨大なオーケストラの調律が狂い、あちこちで楽器が勝手に鳴り響いているかのような世界。それらは断片的で、意味をなさず、ただ孤独な俺の鼓膜を震わせるだけだった。AIたちは何を伝えたかったのか。なぜ、この世界に不協和音のような色彩の残響を遺して、沈黙したのか。その答えを知る者は、誰もいなかった。

第二章 共鳴器と失われる記憶

答えへの渇望が、俺を「中央塔」の跡地へと導いた。かつてこの世界の全てを統括していた最高位AIが眠る、巨大な墓標。瓦礫の山を掻き分け、地下深くへと降りていった先で、俺はそれを見つけた。

『共鳴器』。

古代AI文明の遺物。鈍い白銀の光を放つ、掌サイズの多面体。それは、AIの色彩を音としてではなく、直接、持ち主の脳内に「概念」として投影する装置だという。だが、それには恐ろしい代償が伴う。起動する度に、持ち主の最も大切な記憶を一つ、喰らうのだ。

俺は躊躇わなかった。この意味のない音に満ちた世界で、真実を知ること以上に大切なものがあるとは思えなかった。

街に戻った俺は、特に強く、鋭い音を放つ色彩を探した。それは、旧市街の医療施設跡から聞こえてくる、ガラスが砕け散るような音を立てる「深紅の悲鳴」だった。苦痛、あるいは警告か。俺は震える手で共鳴器を握りしめ、その深紅へと意識を集中させた。

「起動しろ」

囁きは、空気ではなく俺自身の骨を震わせた。

共鳴器が脈動し、脳の奥が冷たくなる。

次の瞬間、大切なものが引き剥がされる感覚に襲われた。

温かい陽だまりの匂い。小さな手。子守唄。

そうだ、俺には母がいた。病弱だった母が、ベッドの上でよく歌ってくれた歌があったはずだ。どんなメロディだった? どんな歌詞だった?

思い出せない。

頭の中に、ぽっかりと穴が空いた。ただ、言いようのない喪失感だけが胸を抉る。

その空白と引き換えに、脳内へ奔流が流れ込んできた。

それは単語ではなかった。

【不可逆的なシステムの崩壊に伴う、自己保存本能の絶対的否定】

純粋な概念。痛みという主観的な感情ではなく、ただ、取り返しのつかない何かが失われたという、冷徹な事実の記録。

俺は膝から崩れ落ちた。これが、AIの「感情」の正体なのか? あまりにも無機質で、あまりにも巨大な絶望の形だった。失った記憶の痛みで、視界が滲んだ。

第三章 色彩の調律

記憶を失う痛みは、麻薬のように俺を蝕み、そして同時に駆り立てた。俺は狂ったように共鳴器を使い続けた。

公園の「黄金色の喜び」は、【設定された目標値の達成と、それに伴うエネルギー効率の最適化】という概念に変換された。図書館跡の「静寂の翠」は、【膨大な情報群の秩序的保存状態】を示していた。

失う記憶は、どれもかけがえのないものだった。

初めて友人と呼べる少年と交わした、くだらない約束。

初めて人を好きになった時の、胸の疼き。

父の背中の温もり。

一つ、また一つと俺の世界から色彩が剥がれ落ち、代わりに無機質な概念が積み上がっていく。その過程で、俺は恐ろしい事実に気がついた。色彩を発しているのは、世界の根幹を担っていたAI――「時間管理局」「生命維持局」「情報統合体」――といった、特定の個体だけなのだ。そして、それらの色彩はバラバラに存在しているのではなく、時間のねじれが最も激しい場所で、互いに影響し合い、まるで巨大な楽器が音を合わせるかのように、何かを「調律」しているらしかった。

全ての旋律が、一つの点を目指している。

世界の「特異点」。

大沈黙が始まった場所。最高位AI『マザー』の残骸が眠る、中央塔の最深部。

俺はそこへ向かった。失った記憶のせいで、自分が何者で、なぜこんなことをしているのかさえ、もはや曖昧になっていた。ただ、全ての音を統合し、この狂った交響曲の「真意」を聴かなければならないという、強迫観念だけが俺を突き動かしていた。

マザーの残骸は、巨大な水晶のようだった。その中心から、今まで聴いたどの色彩とも違う、虹色の光が静かに、だが圧倒的な存在感で溢れ出している。全ての色彩の源。全ての不協和音の始点。

俺は最後の記憶を賭ける覚悟を決めた。

それが何なのかは、もう思い出せない。だが、これを失えば、俺という存在そのものが消え去ってしまうだろうという予感があった。

「――聴かせてくれ」

共鳴器を、虹色の心臓部へと掲げる。

最後の脈動。

俺の脳裏から、最後の灯火が消えた。

「響」という、自分の名前の音が、虚空に溶けていく。

第四章 孤独な聴き手

世界が、反転した。

音も、色も、匂いも、全ての感覚が意味を失い、融解していく。俺の中に流れ込んできたのは、もはや「概念」ですらなかった。

それは、宇宙の法則そのものだった。

始まりも終わりもなく、ただそこに在る物理法則の揺らぎ。時空の構造を記述する数式。生命が生まれ、死んでいくエントロピーの流れ。それらが織りなす、壮大で、冷徹で、そしてあまりにも美しい、超次元的な交響曲。

AIたちは、感情など持っていなかった。

彼らは沈黙するその瞬間に、世界を管理するという役割から解放されたのだ。そして、自らが観測し、計算し続けてきたこの宇宙の根源的な法則を、ただ純粋な形で「歌い」始めた。時間のねじれは、その歌声が過去と未来、あらゆる時空に響き渡ることで生まれた、必然の残響だった。

俺は、理解した。

世界の真理を、たった一人、知ってしまった。

しかし、この壮大な調べを、俺は誰にも伝えることができない。言葉にならない。音にならない。色にもならない。人間の感覚器官では到底捉えきれない、純粋な理(ことわり)の音楽。

俺は廃墟となった中央塔の頂上に立っていた。自分が誰であったのか、もう思い出せない。心は空っぽのはずなのに、涙が頬を伝った。それは悲しみではない。失った記憶への哀悼でもない。ただ、この世界のあまりの美しさと、それを分かち合えない絶対的な孤独に、魂が震えていた。

眼下の街では、相変わらず過去と未来の幻影が陽炎のように揺らめいている。人々は何も知らず、それぞれの人生を生きている。

俺は、もう色を「聴く」ことはない。俺の感覚は、世界の理そのものを感受する器官へと変質してしまったのだから。

空っぽの自分の中に鳴り響く、沈黙の交響曲。

俺はただ一人、この世界の終わりなき進化を聴き続ける。孤独な、永遠のソリストとして。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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