『ホワイト企業異世界再建計画』〜感情のコストと価値〜
第一章 未払い残業代の清算
意識が泥沼から引き上げられるような感覚と共に、灰野勤(はいの つとむ)は覚醒した。
最初に認識したのは、鼓膜の奥で絶え間なく鳴り響く不快な高周波音――キーン、という耳鳴りだった。それは、徹夜が五日続いた明け方の、あの神経が焼き切れる寸前の警告音に酷似していた。
目を開ける。
そこは、色彩の死んだ世界だった。赤錆色の雲が垂れ込め、二つの月が眼球のように大地を見下ろしている。荒野の砂はアスファルトのように硬く、冷たい。
勤は身体を起こそうとして、激しい嘔吐感に襲われた。
胃の腑がねじ切れ、食道が胃酸で焼け付く感覚。心臓が不規則に早鐘を打ち、肋骨の内側を叩く。
(不整脈……カフェインの過剰摂取か? いや、最後に摂取したのは三日前だ)
冷静に自身の生体異常を分析しようとした瞬間、視界にノイズが走った。
眼球の裏側に、真っ赤な文字が直接焼き付けられる。
『個体名:ハイノ・ツトム……前世労働ランク:SS……』
システム音声などという生易しいものではない。脳の皺に焼きごてを当てられるような情報の奔流。
視界の端がぐにゃりと歪み、荒野の風景に、かつての職場の映像が混線する。明滅する蛍光灯。山積みのダンボール。鳴り止まない電話の幻聴。
「ぐ、ッ……!」
勤は胸ポケットを鷲掴みにした。心臓発作の前兆のような圧迫感。そこに、硬質な異物があった。
震える指で引き抜く。それは一枚の紙片だった。
ただの紙ではない。異常なほどの質量を感じる。まるで鉛の板でも持っているかのように、腕が下に引っ張られる。
『給与明細書』
そう印字された紙面には、天文学的な数字が羅列されていた。
『項目:未払い残業代』『項目:休日出勤手当』『項目:深夜労働割増』――そして、『過労死慰謝料』。
その数字の羅列は、彼が会社に捧げ、ドブに捨て、削り取られた「命の時間」そのものだった。
「……なるほど。これが私の魂の総重量か」
勤は、血の味がする口元を手の甲で拭った。
悲しみはない。あるのは、貸借対照表(バランスシート)の不整合を見つけた時のような、冷ややかな修正衝動だけだ。
『スキル獲得:SSR【システムエラー・リカバリ】。代償として、労働負荷(ペナルティ)を身体に固定します』
視界の文字が弾け、再び激痛が脳を貫く。
だが、勤は倒れない。限界を超えた負荷がかかった瞬間、脳内で快楽物質が分泌される回路が出来上がっているからだ。
彼の瞳が、濁った光を宿す。それは死人の目ではなく、獲物を狙う社畜の目だった。
「タスク確認。……未回収債権の取り立てを行う」
第二章 ブラック・バベルの管理者
荒野を三日歩き続け、勤が辿り着いたのは、天を突く巨大な黒曜石の塔だった。
塔の周囲には、腐臭と絶望が澱んでいる。
無数の人々が、足首に鉄球を繋がれ、巨大な石材を運搬していた。彼らの肌は土気色で、瞳からは光が消え失せている。呼吸をするだけの肉塊。
鞭の音が空気を裂くたび、誰かが悲鳴を上げ、誰かが倒れる。
倒れた者は路傍の石のように蹴り飛ばされ、新たな「補充要員」が投入される。
(リソース管理が破綻している)
勤は、その光景を嫌悪ではなく「非効率」として認識した。
(人員の損耗率が生産性を上回っている。これでは文明が育つ前に、労働力が枯渇する。典型的な自転車操業だ)
「素晴らしいだろう、この光景は」
塔の上空から、朗々とした声が降ってきた。
重力を無視して浮遊するのは、豪奢なローブを纏った男。勤の元上司であり、会社を食い潰して逃亡した元社長、黒木だ。
「黒木社長……」
「君か、灰野。相変わらず貧相な顔だ。だが、見てみろ。この世界には労働基準監督署もなければ、うるさい株主もいない」
黒木は恍惚とした表情で、眼下の地獄絵図を指差した。
「文明とは、いつの時代も屍の上に築かれるものだ! ピラミッドを見ろ、万里の長城を見ろ! 過酷な搾取こそが、未開の地を最短で発展させる唯一のエンジンなのだよ!」
「否認します」
勤の声は、砂嵐の中でも明瞭に響いた。
「貴方のモデルは焼き畑農業に過ぎない。一時的な出力は出せても、土壌――従業員の精神と肉体を焦土に変えれば、長期的な成長曲線は描けません。貴方が潰した前の会社と同じだ」
「口答えをするなッ! ここは私の世界だ、私がルールだ!」
黒木が右手を掲げると、大気が軋んだ。
『超重圧(オーバーワーク)』。
勤の全身に、数トンもの圧力がのしかかる。膝の関節が悲鳴を上げ、全身の血管が破裂寸前まで膨れ上がる。
「ぐ、ぅ……!」
「這いつくばれ! 貴様らは、私の夢のための燃料に過ぎん!」
普通なら圧死する重圧。だが、勤は膝を折らない。
全身の骨がミシミシと音を立てる中、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……毎日……終電まで働いた負荷に比べれば……この程度のプレッシャーなど……!」
「な、なぜ倒れん!?」
「私の【無限残業耐性】を甘く見るな。貴方の理不尽な納期設定の方が、よほど胃に来た」
勤は、鉛のように重い『給与明細』を、懐から引き抜いた。
第三章 敵対的買収(テイクオーバー)
「その紙切れで何をする気だ!」黒木が叫ぶ。
「清算です。貴方が踏み倒した対価、その『質量』を思い知らせてやる」
勤が明細書を掲げると、紙片が爆発的な光を放った。
いや、光ではない。そこから溢れ出したのは、黒い泥のような情報の濁流だった。
それは、勤が、そしてこの塔で酷使される人々が奪われた『時間』の具現化だった。
見逃した子供の成長、行けなかった親の死に目、冷え切った夕食、虚空を見つめた休日の午後。
削り取られた命の破片が、物理的な質量を持って顕現する。
「な、なんだこれは!? 重い、重すぎる!」
黒木の身体に、無数の「未処理書類」のような泥がまとわりつく。
「ぐあああっ! やめろ、私の魔力が、権限が吸われていく!」
「貴方の『急速な発展』論には、維持費(メンテナンスコスト)が計上されていない」
勤は一歩ずつ、重圧を跳ねのけて進む。
視界には無数のエラーログが走っていた。頭痛が割れるように痛む。だが、その痛みこそが彼を突き動かす燃料だ。
「従業員は部品ではない。投資対象だ。貴方はその基本原則を無視し、負債を溜め込みすぎた」
勤の手が、黒木の喉元を掴んだ。
スキル発動【システムエラー・リカバリ】。対象:管理者権限の強制剥奪。
「これは革命ではない。……監査だ」
「やめ、ろぉぉぉぉッ!!」
黒木の絶叫と共に、塔全体が激しく振動した。
黒木から黄金色のオーラが剥がれ落ち、代わりに勤の手の中に吸い込まれていく。
圧倒的な質量の「未払い賃金」という名の負債が、黒木の神としての権能を押し潰したのだ。
光が収束したとき、黒木はただのみすぼらしい中年男として地面に転がっていた。
支配の鎖が砕け散り、静寂が訪れる。
第四章 ホワイト企業への定款変更
塔は『異世界復興公社』の本社ビルへと生まれ変わった。
最上階の執務室。勤は以前と変わらず、山のような書類と格闘していた。だが、その内容は大きく異なっていた。
「し、社長! も、申し訳ありません!」
執務室のドアが乱暴に開かれ、一人の従業員が飛び込んできた。以前は石運びをさせられていた青年だ。彼は顔面蒼白で、過呼吸気味に肩を上下させている。
「どうしました? 北地区の開拓でトラブルでも?」
勤が視線を上げずに問うと、青年は泣き崩れるようにその場に土下座した。
「『有給休暇』の通知が届きました……! 私が、私が無能だからですか!? クビにする前の温情なんですか!? お願いします、働かせてください! 休んだら殺される、捨てられる!」
彼は錯乱していた。黒木の支配下でのトラウマが、骨の髄まで染み付いているのだ。「休むこと=死」という刷り込みが、休暇命令を「死刑宣告」と誤認させている。
勤はペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。
青年の前に歩み寄り、その震える肩に手を置く。
「計算しなさい。君の昨日の石材加工数は100個。だが、三日前は120個だった」
「は、はい……すみません、すみません……!」
「なぜ落ちたと思う? 君のスキルレベルは向上しているはずだ」
勤は淡々と、しかし威圧感を与えない声色で続けた。
「原因は疲労による集中力の低下だ。このまま稼働させれば、来週には生産性が30%低下し、怪我のリスクが80%上昇する。君が怪我をして離脱することは、会社にとって最大の損失(コスト)だ」
青年がおずおずと顔を上げる。
「私が……損失……?」
「違う。君という『資産』を損なうことが、損失だと言っている。君は優秀なハードウェアだ。だからこそ、定期的なメンテナンスが必要だ。休むことはサボりではない。明日、120%の成果を出すための『業務』だと思え」
「業務……としての、休息……」
「そうだ。君が健全でいることが、我が社の利益になる。……これは命令だ。直ちに帰宅し、温かいスープを飲んで八時間以上睡眠をとれ」
青年の目から、大粒の涙が溢れ出した。それは恐怖の涙ではなく、初めて人間として扱われたことへの、魂の解凍による涙だった。
「は、はい……! 承知、いたしました……!」
一礼して去っていく青年の背中を見送り、勤は小さく息を吐いた。
胃の痛みは、いつの間にか消えていた。
最終章 終業のベル
バルコニーに出ると、二つの月の光が穏やかに街を照らしていた。
かつては悲鳴と鞭の音が響いていた広場から、今は肉を焼く匂いと、ささやかな笑い声が風に乗って届く。
街の灯りはまだ疎らだ。だが、その一つ一つに、確かな生活の営みが灯っている。
勤は手すりに寄りかかり、缶コーヒーの代わりに、部下が差し入れてくれた果実水を口に含んだ。
甘酸っぱい味が、疲れた脳に染み渡る。
かつて、彼にとっての夜は恐怖の対象だった。
終電を逃し、誰もいないオフィスでモニターの光だけを頼りに作業を続ける孤独な時間。
だが今は、夜は休息のためにある。
(明日の予定は……黒木の再教育面談か)
元社長の黒木には、トイレ清掃と備品管理の担当を命じている。
『過酷な労働』を信奉していた彼には、一番下の視点から組織を見直してもらう必要がある。彼が更生し、真のリーダーシップを理解すれば、いずれは現場監督くらいにはなれるかもしれない。
人材は使いようだ。誰一人として、無駄なリソースなどない。
ふと、胸の奥が温かくなるのを感じた。
激務の後の達成感とも、給与明細を見た時の安堵感とも違う。
もっと静かで、根源的な充足感。
自分が構築したシステムの中で、人々が笑い、明日への希望を持って眠りにつく。その事実が、何よりの報酬だった。
「……定時か」
どこかの教会が鳴らす鐘の音が響く。
勤は空を見上げた。
視界に走るノイズはない。耳鳴りも消えた。
あるのは、美しい夜空と、明日への活力だけだ。
「よし。帰ろう」
彼は誰に言うでもなく呟き、執務室の明かりを消した。
その足取りは、かつてないほど軽かった。