社畜の流儀、魔界を征く
第一章 残業代は「世界の命運」にて
午前三時、東京、港区。
株式会社アンダープレッシャーの開発フロアは、死体安置所のように静まり返っていた。聞こえるのはサーバーの空冷ファンの唸りと、時折響く、乾いた咳払いだけだ。
佐々木啓太の眼球は、砂を詰め込まれたように強張り、瞬きのたびに鈍い痛みを訴えていた。積み上がったエナジードリンクの空き缶が、蛍光灯の光を浴びて墓標のように鈍く光る。
「……ここ、血栓だな」
啓太は呟き、充血した目でディスプレイを睨みつけた。
画面上の複雑怪奇な業務フロー。その一点、承認プロセスが六重に絡まり合った箇所が、彼の網膜にはドス黒く脈打つ「腫瘍」として焼き付いていた。
『業務フロー透視眼(フローサイト)』。
過労による脳のバグか、あるいは進化か。組織の非効率が、腐臭を放つ視覚情報として知覚できてしまうのだ。その悪臭に吐き気を催しながら、啓太が削除キーに指をかけた、その時だった。
床のコンクリートが、コールタールのように融解した。
足を取られる感覚。啓太の身体は、椅子ごと重力に裏切られ、粘つく闇へと引きずり込まれた。喉元までせり上がった悲鳴は、鼻をつく硫黄と鉄錆の臭気にかき消された。
「――ほう、これが『しゃちく』か。随分と貧相な餌だ」
鼓膜を直接殴りつけるような重低音。
啓太が顔を上げると、そこは石造りの巨大な処刑場だった。揺らめく松明の炎が、玉座に座る巨影を照らし出す。ねじれた山羊の角、黒曜石のような肌、そして何より、啓太を見下ろす瞳には、捕食者特有の冷酷な光が宿っていた。
魔王だ。
周囲には、槍を構えた豚面の兵士や、宙に浮く一つ目の怪物が、唾液を垂らして啓太を取り囲んでいる。
「ひっ……」
死の恐怖が背筋を駆け上がる。だが、それ以上に啓太の『目』を釘付けにしたのは、魔王の身体から立ち昇るオーラだった。
(……なんだ、この色は)
魔王の肩口から、ドブ川のような汚泥がとめどなく溢れ出している。それは、決算期に過労死した経理部長の背中と全く同じ、組織全体を蝕む「停滞」と「疲弊」の色だった。
「人間よ。貴様を召喚したのは他でもない」
魔王が指を鳴らすと、分厚い羊皮紙の束が啓太の顔面に叩きつけられた。バサリ、と重い音を立てて広がる。
「我が軍は瀕死だ。人間界を滅ぼす前に、組織が自壊しかけておる。貴様の持つ『効率』という毒で、この腐りきった軍を荒療治せよ」
啓太は震える手で羊皮紙を拾った。
『魔界行動規範・絶対服従之書』。
一ページ目。『叫べ、さすれば道は開かれん』。
二ページ目。『上司への報告は、生贄の内臓を捧げてから行うこと』。
三ページ目。『会議は三日三晩、踊り狂うべし』。
啓太の呼吸が止まった。
恐怖ではない。激しい目眩だ。
非効率。無駄。根性論。このマニュアルの向こう側に、何千、何万という魔物たちが無意味なタスクで摩耗し、死んでいく「動脈硬化」が見えた。
「どうした。あまりの邪悪さに声も出まい」
側近らしき骸骨の魔法使いが、嘲笑うように杖を鳴らす。
瞬間、啓太の中で何かが切れた。
死の恐怖よりも、目の前にある「不完全な仕事」への生理的嫌悪が勝ったのだ。彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、乾いた唇を開いた。
「……邪悪? いいえ」
啓太はマニュアルを床に叩きつけた。
「これはただの『無能』です。こんなゴミで運用されている組織なら、滅びて当然だ」
広間が凍りついた。魔王の瞳がスッと細まり、殺気が物理的な重圧となって啓太の肩にのしかかる。
「……今、なんと申した?」
第二章 硝煙とロジック
「貴様を生かしておく理由はない。今すぐこの場でミンチにしてやる!」
改革初日。啓太の前に立ちはだかったのは、身の丈三メートルはあるオーク族の将軍、ガドルだった。
彼は錆びついた巨大な戦斧を振り上げ、鼻息荒く啓太を睨み下ろしている。
「伝統ある『鬨(とき)の声』を廃止だと? 戦場において、三時間の雄叫びこそが我らの魂だろうが!」
周囲のゴブリンたちも、不満げに武器を打ち鳴らしている。
啓太は眉一つ動かさず、胸ポケットからストップウォッチを取り出した。
「ガドル将軍。あなたがその斧を振り上げ、口上を述べ、振り下ろすまでに四十二秒かかりました」
「あ? それがどうした!」
「人間の弓兵なら、その間に五本の矢をあなたの眉間に突き刺せます。死にたいのですか?」
啓太は冷徹に言い放ち、ホワイトボード代わりの岩壁にチョークで線を引いた。
「あなたたちの目的は『恐怖を与えること』か、それとも『大声で叫んで満足して死ぬこと』か。どちらです」
「ぐ、ぬ……」
「前者なら、私の指示に従いなさい。雄叫びは禁止。代わりに『無音接近』と『シフト制波状攻撃』を採用します」
ガドルは唸り声を上げ、戦斧を地面に叩きつけたが、それ以上は何も言えなかった。啓太の背後に控える魔王の威光ではなく、啓太自身の放つ、得体の知れない「確信」に気圧されたのだ。
戦場は、異様な光景に包まれた。
かつては雄叫びと共に無秩序に突撃し、次々と討ち取られていたゴブリンたちが、誰一人として声を発していない。
彼らは啓太の作成したタイムテーブルに従い、完全に同期して動いていた。
A班が砦の東壁に火を放つ。守備兵が慌てて移動した瞬間、B班が無防備になった西門を無音で突破する。C班は略奪を行わず、補給路を断つことだけに専念する。
そこにあるのは「戦闘」ではない。「作業」だった。
砦の守備隊長は、恐怖に顔を歪ませた。
「な、なんだこいつらは……! 怒りも、憎しみもない……ただ淡々と、我々を処理していく……!」
感情の読めない暴力ほど、恐ろしいものはない。砦はわずか二時間で陥落した。
「……おい、なんだこれは」
帰還したガドル将軍が、自分の手を見つめて震えている。
彼の身体を覆っていた淀んだオーラが消え、代わりに鋭利な刃物のような、青白い光が満ちていた。
「いつもなら戦後は泥のように疲れる。だが今は……頭が冴え渡り、指先まで力がみなぎっている」
ガドルは舌なめずりをした。
「美味い……。人間の恐怖とは違う、もっと冷たくて、痺れるような味がする」
「『達成感』という栄養素です」
啓太は、ボロボロのマニュアルに赤ペンで修正を入れながら、顔も上げずに答えた。
「無駄な疲労(ストレス)という不純物を取り除き、最短経路で成果(ゴール)に到達した時、脳内で精製される極上の麻薬ですよ」
魔物たちは互いに顔を見合わせた。彼らの瞳から、かつての濁った「怠惰」が消え、飢えた獣のような、仕事中毒(ワーカホリック)の輝きが宿り始めていた。
第三章 毒と薬のパラドックス
魔王城、最上階。
玉座の間は、以前のような陰鬱な空気ではなく、張り詰めた弦のような緊張感に満ちていた。
魔王は玉座に深く沈み込み、自身の腕を爪が食い込むほど強く掴んでいる。その腕からは、パチパチと音を立てて黒い火花が散っていた。
「……人間よ。貴様が与えた餌は、劇薬だ」
魔王の声は、苦痛と快楽の狭間で震えていた。
「余の身体の中を、焼きごてで撫で回されているようだ。効率化された軍が持ち帰るエネルギーは、純度が高すぎる。かつての我らが食らっていた『腐った恐怖』とは訳が違う」
啓太は手元のタブレット端末(魔導具を改造したものだ)から目を離し、魔王を見据えた。
「副作用ですね。長年の放漫経営で、あなた方の魂は『非効率』に依存していた。急激な業務改善による好転反応です」
「貴様……これを予期していたな?」
魔王が立ち上がる。その巨体が放つプレッシャーで、床の石畳に亀裂が走った。
「この『達成感』という名の毒は、我らを焼く。だが……」
魔王は啓太の目前まで歩み寄り、その巨大な手で啓太の頭を鷲掴みにした。ミシミシと頭蓋骨が軋む。殺される――そう直感する場面だが、啓太の心拍数は変わらなかった。
魔王の瞳孔が開いているのを見たからだ。
「もう、以前の泥水のような恐怖では満たされぬ。もっとだ。もっと純度の高い成果を、余に寄越せ」
魔王の吐息は熱く、甘い腐臭ではなく、ドライアイスのような冷気を含んでいた。
啓太は、魔王の手首にある血管が、青白く脈打つのを『目』で追った。そこにあるのは、タスクを消化した瞬間に脳髄を走る、あの痺れるような快感への渇望だ。
こいつらはもう、引き返せない。
「……ええ、ご用意しましょう。次は人間界の国家予算を、経済的に破綻させるプランがあります」
啓太は歪んだ笑みを浮かべた。
自分もまた、この異常な状況を楽しんでいることに気づいていた。
社畜時代、誰にも理解されなかった「完璧なフロー」への執着。それがここでは、種族の命運を左右する「神の啓示」として崇められる。
啓太の脳内でもまた、ドーパミンという名の麻薬が蛇口全開で溢れ出していた。
「ただし、条件があります。次の作戦には、私の裁量権を倍にしてください」
「……強欲なことだ。よかろう、全て貴様に委ねる」
魔王は愉悦に顔を歪ませ、啓太を放した。
第四章 社畜、新たな地平へ
半年後。
新宿、歌舞伎町。
雑踏の騒音とネオンの明滅が、啓太の感覚を久々に刺激していた。
「……戻ってきた、のか」
啓太は自分の手を見た。スーツはボロボロで、肌は病的なまでに白く、爪は少し尖っている気がする。
魔王軍の改革は完了した。
啓太が構築した『持続可能な恐怖供給システム(SDGs)』により、魔族は人間を殺さず、適度なストレスと危機感を与えることで、安定的にエネルギーを搾取する存在へとシフトした。
「貴様の役目は終わった。これ以上ここにいれば、貴様は人ではなくなる」
そう言って魔王は、啓太をゲートへと押し出したのだ。
ふと、通りの向こうで工事中のビルが目に入った。
「安全第一」の看板の下、作業員たちが驚異的なスピードで鉄骨を組み上げている。
深夜の突貫工事のはずだが、彼らの動きには迷いがない。阿吽の呼吸で資材をパスし、寸分の狂いもなく溶接していく。その姿は、まるで精密機械のようだった。
違和感を覚え、啓太は無意識に『透視眼』を発動させた。
瞬間、世界が反転する。
作業員のヘルメットの下。そこにあったのは、人間ではない顔。
額に一本の角が生えた鬼や、腕が四本ある土蜘蛛たちが、作業服を着込んで働いていたのだ。
「……は?」
現場監督らしき男が、通りすがりの人間に向かって深々と頭を下げている。
「ご迷惑をおかけしております! 夜間工事にご協力感謝します!」
その丁寧すぎる物腰に、通行人は恐縮して会釈を返した。
その瞬間、通行人から立ち昇ったほのかな「感謝」と「安堵」の光を、現場監督の鬼が鼻から深く吸い込むのが見えた。
恍惚とした表情。
鬼の背中の『淀み』が消え、力がみなぎっていく。
「あいつら……」
啓太は呆然と立ち尽くした。
恐怖よりも、感謝の方がエネルギー効率が良いことに気づいてしまったのか。
それも、啓太が叩き込んだPDCAサイクルと、徹底的な顧客満足(CS)精神を応用して。
人間社会のインフラを整備し、対価として「やりがい」を摂取する。
魔界の侵略は、形を変えて既に始まっていたのだ。
ブブブブブ……。
ポケットの中で、半年間沈黙していた社用携帯が震えた。
ディスプレイに表示された文字を見て、啓太の口元が自然と吊り上がる。
『クライアントM(魔王)』。
通話ボタンを押すと、懐かしい重低音が鼓膜を震わせた。
『よう、佐々木。元気か? 人間界(そっち)の新規事業が軌道に乗ってな。だが、労基署とかいう組織がうるさくてかなわん』
魔王の声は、以前よりも若々しく、精気に満ちていた。
『至急、コンプライアンス対応のマニュアルを作ってくれ。報酬は……そうだな、弊社株(ストックオプション)でどうだ?』
啓太は天を仰いだ。
東京の空は狭く、濁った灰色だ。だが今の彼には、その向こうに広がる、無限の「改善余地」が見えていた。
「……いいでしょう。まずは就業規則と、直近の36協定届を送ってください」
啓太はネクタイを締め直し、雑踏の中へと歩き出した。
人間界のブラック企業と、ホワイト化した魔界企業。二つの世界を股にかけ、システムを最適化する。
それが、社畜を超えた「何か」になった、彼の生きる流儀だった。