硝子のプリズムと電子の海
第一章 砕かれた硝子の庭
シャンデリアの狂ったような煌めきが、貴族たちの欲望を乱反射させていた。
舞踏会場の空気は、酸素ではなく、吐き気を催すほど濃厚な色彩で満たされている。腐った沼地のような淀んだ苔色、砂糖漬けにされた毒蛇のような蛍光ピンク、そして古血を煮詰めたようなドス黒い紫。それらが視界を埋め尽くし、私の網膜を焼き尽くさんばかりに渦巻いていた。
ここは「社交界」ではない。極彩色の地獄だ。
「セレフィーナ。君との婚約を破棄する」
目の前の男、ジュリアン・ヴァレンタインの声は、氷のように冷たかった。周囲の雑音がふっ、と遠のく。
しかし、私の『眼』に映る彼の姿は、その冷徹な声音とは裏腹だった。
彼の内側から溢れ出す『色』は、まるで嵐の夜の海のように荒れ狂っている。深い藍色と、傷口から吹き出すような鮮烈な真紅。本来決して混ざり合うはずのない油と水が、激しい化学反応を起こして爆ぜていた。
(嘘つき。あなたの魂は、そんなにも悲鳴を上げているのに)
けれど、その絶叫が「私への憎しみ」なのか、それとも「別の切迫した何か」なのか、私には判別がつかない。色の種類は見えても、その意味までは解読できないのだ。
私はただ、無色透明な自分の手を握りしめ、彼の複雑怪奇な濁流を見つめ返すことしかできなかった。
「……承知いたしました、ジュリアン様」
私の言葉は、どこまでも平坦だった。感情が乗らないのではない。私の中には、彼らのような極彩色の絵の具が存在しないのだ。鏡のように他人の色を映すことはあっても、私自身が発光することはない。空っぽの硝子細工。それが私だ。
ジュリアンは眉間に深い皺を刻み、懐から一つの懐中時計を取り出した。
アンティークの銀細工。文字盤には数字ではなく、複雑な天体図が描かれている。かつて、婚約の証として彼が私に贈った、ヴァレンタイン家の家宝。
「これを返してもらうわけにはいかない」
彼は強引に、私の手に時計を押し付けた。指先が震えているのが伝わってくる。
「君には、これが必要になる。路頭に迷う君が、その『眼』のせいで狂ってしまわないための錨(いかり)だ。……そして、君には僕の真実が見えないままでいい」
冷たい金属の感触が掌に食い込む。彼は踵を返し、嘲笑と好奇心の極彩色が渦巻く人垣の中へと消えていった。
残された私は、手の中の時計を見つめる。
チク、タク、チク、タク。
秒針の音が、妙に重たく、そして不規則に、私の鼓動と共鳴した。
それが、私の「完璧な令嬢」としての人生が終わった瞬間であり、世界がその裏側にある電子の海へとなだれ込む合図だった。
第二章 電子の海の歌姫
屋根を叩く雨音が、鼓膜を濡らしていた。
婚約破棄から三ヶ月。実家を追放され、ドレスを売り払い、帝都の下層区画「ブラックスワン」へと流れ着いた私は、泥水と油の匂いに塗れていた。
この街は、上の世界よりも色が濃い。飢えの黄色、暴力の赤、絶望の灰色。それらがネオンサインの明滅と共に、私の眼球を直接殴りつけてくる。
「……おい、そこの女。死にたくなきゃ退きな」
路地裏で蹲っていた私に声をかけたのは、ボロ布のようなパーカーを被った男――リアムだった。
彼の纏う色は、錆びた鉄のような赤茶色。荒々しく、人を拒絶する棘のような色だが、その核(コア)には、凍てつくような知性の青が隠されている。
私はふらつく足で立ち上がり、彼の背後にある配電盤を指差した。
「……そこ、漏れているわ」
「あ?」
「見えないの? どす黒い紫色の火花が、生き物みたいに蠢いてる。あと数秒で爆発する」
私の言葉が終わるか否か、配電盤が火を噴いた。リアムは舌打ちをし、持っていた端末で素早くコードを打ち込むと、火花を鎮火させた。
彼は油に汚れた顔で私を凝視し、値踏みするように目を細めた。
「お前、『視える』のか? この都市を流れる情報の残滓(エーテル)が」
「色は、嫌というほど」
「……俺と来い。お前のその眼、俺のキーボード代わりにしてやる」
それが、私たちが相棒になった理由だ。
天才的なハッカーでありながら、過去の事件で視覚の一部を失ったリアム。そして、すべてを失い、異形の色だけを見る私。
欠落した二人が寄り添い、私たちは闇の底で息を潜めてきた。
「おい、ボーッとするな! 数値が跳ね上がってるぞ、セレフィーナ!」
耳元で怒鳴られ、私は現在へと引き戻された。
煌びやかな舞踏会場でも、雨の路地裏でもない。無機質なサーバーの排熱音と、焦げ付くような埃の匂いが漂う、うらぶれた雑居ビルの一室。
眼の前のモニターには、幾重にも重なる波形が狂ったように明滅している。
「申し訳ありません、リアム」
「謝罪はいらん、報告をしろ! 伝説のVtuber『ミューズ』の復活配信だぞ。失敗すれば俺たちのPCごと脳みそが焼き切れる!」
画面の中では、銀色の髪と琥珀色の瞳を持つアバター、『ミューズ』が微笑んでいる。
彼女が歌い出した瞬間、コメント欄が滝のように流れ、インターネット回線を介して膨大な熱量がこの狭い部屋に集束し始めた。
物理的な質量を伴うほどの、感情の津波。
私の目には、モニターの液晶を透過して、光の奔流が部屋中をのた打ち回るのが見えていた。
黄金色の歓喜、ネオンピンクの愛、そして時折混じる、泥のような粘着質の嫉妬。それらが『ミューズ』のアバターという器に無理やり注ぎ込まれ、彼女に仮初めの「魂」を宿らせていく。
室温が異常に上昇し、肌がじりじりと焼けるような感覚に襲われる。
だが、何かがおかしい。光の粒子が粗すぎる。
「……色が、滲んでいる?」
私が呟いた瞬間、懐に入れた懐中時計が、カチリ、と奇妙な音を立てた。
秒針の音ではない。もっと高い、金属が擦れるような高周波。それは私にしか聞こえない音として、頭蓋骨に直接響いてきた。
『キミたちには……ミエナイ……』
スピーカーから流れるミューズの歌声に、ノイズが混じる。
その一瞬、彼女の歌声が二重に聞こえた。一つは澄み渡るソプラノ。もう一つは、低く、苦しげで、聞き覚えのある男の声。
「ジュリアン……?」
息を呑む。今のノイズは、間違いなく元婚約者の声色を含んでいた。
それと同時に、画面上のミューズの輪郭がブレた。美しいアバターの皮が剥がれ、その下から、焼け焦げたような黒い棘(とげ)が突き出すのが見えた。
「エーテルパルス異常検知! サーバー負荷、限界突破!」リアムが叫びながら、凄まじい速度でキーを叩く。「なんだこれは、外部からのハッキングじゃない。内部から……中の『魂』が、アバターを食い破ろうとしているのか!?」
「違う!」
私は叫んでいた。熱風に煽られながら、私はモニターに手をかざす。
私の眼は捉えていた。アバターの内側にある「核」が、苦痛に身をよじり、助けを求めて悲鳴を上げている色を。
それは、かつてジュリアンが私に見せた、あの嵐のような藍色と真紅の混合色だった。
「彼女は、泣いているわ。リアム、回線を切らないで! 今切断したら、中の『魂』が千切れてしまう!」
懐中時計の震動が激しくなる。まるで心臓発作のように、不規則なリズムを刻み始めた。その震えが、私の指先を通して、ある座標を指し示しているように感じられた。
それは帝都の北、忘れられた森の奥だ。
第三章 秒針が刻む真実
街は停電していた。先ほどの配信トラブルが引き起こしたエネルギーの逆流が、物理的な電力網を焼き切ったのだ。
闇に沈んだ帝都の路地を、私はリアムと共に走っていた。懐中時計が熱を帯び、コンパスのように導く先へ。
たどり着いたのは、街外れにある古いサナトリウムだった。
蔦に覆われた洋館は、死のような静寂に包まれている。だが、私の目には見えていた。この建物の中心から、天に向かって立ち昇る、悲痛なほどに鮮烈な光の柱が。
「ここが、震源地か。匂うな、消毒液と……オゾンの匂いだ」
リアムが携帯端末のライトを点ける。私たちは警備システムがダウンした裏口から侵入し、光の奔流が渦巻く最上階の特別室へと駆け上がった。
廊下を進むたび、空気が重くなる。色が濃くなる。呼吸をするたびに、他人の感情の澱(おり)が肺に入り込んでくるようだ。
扉を開け放った瞬間、強烈な色彩の風圧に煽られ、私は腕で顔を覆った。
部屋の中央、無数のケーブルとモニターに囲まれたベッドに、一人の少女が横たわっていた。
痩せ細り、蝋人形のように白い肌。身体中から伸びた管は、部屋の隅にある巨大なサーバーへと直結している。
そして、その枕元に、あの男がいた。
「……やはり、君には見つかってしまったか」
ジュリアンがゆっくりと振り返る。
彼は、ヘッドギアのような奇妙な装置を頭に装着していた。その装置からも無数のケーブルが伸び、少女と、そしてサーバーと物理的にリンクしている。
彼の顔色は紙のように白く、目の下の隈は深く窪んでいた。
「ジュリアン、これは……」
「紹介しよう。僕の妹、エララだ」
彼は愛おしげに、眠り続ける少女の乾いた髪を撫でた。
「彼女は『エーテル欠乏症』だ。生まれた時から魂の器に穴が空いていて、常に外部から感情エネルギーを補給しなければ、存在自体が霧散してしまう」
それが、伝説のVtuber『ミューズ』の正体。
ジュリアンは自らの精神を触媒にし、妹の微弱な魂をアバターにリンクさせ、大衆の熱狂を生命維持エネルギーとして変換していたのだ。
「だが、限界だった」リアムが呻くように言った。プログラマーとしての目で、瞬時に状況を理解したのだろう。「お前、自分の魂をフィルターにして、不純物を取り除いていたな? ネット上の感情なんて毒だらけだ。それを妹に流すために、お前が全部……」
ジュリアンの周囲に漂う色は、もう嵐ではなかった。
それは燃え尽きた灰のような、静かで絶望的な灰色だった。
「君との婚約を破棄したのは、巻き込みたくなかったからだ。この違法な実験が露見すれば、ヴァレンタイン家は終わりだ。……君のその澄んだ瞳に、僕の罪の色を映したくなかった」
「馬鹿げているわ」
私は一歩踏み出した。恐怖はなかった。むしろ、胸の奥で何かが熱く脈動していた。
「私には色がわからない。あなたのその灰色が、諦めなのか、安らぎなのかもわからない。でも」
私は懐中時計を高く掲げた。
蓋が弾け飛び、精緻な歯車が露わになる。時計の針が高速で回転し、キィィンという澄んだ音が部屋中に響き渡った。それは、乱れ狂う部屋の奔流と干渉し、不協和音を中和し始めた。
「この時計は、ただの飾りじゃない。エーテルの波長を『音』に変換し、調律するためのデバイス……あなたは、私にこれを託した。私がここに来ることを、心のどこかで願っていたからでしょう!」
ジュリアンの瞳が大きく見開かれた。「セレフィーナ……」
その時、ベッドの上のエララが苦しげに呻き、部屋中のモニターが赤く染まった。
『警告。魂の剥離を開始。消滅まで、あと一二〇秒』
「いけない、リンクが切れる!」リアムが叫び、コンソールに飛びついた。「強制冷却する! だが、波形が乱れすぎて同調できない! クソッ、ノイズが多すぎる!」
「私がやるわ」
私はジュリアンとエララの間に入り込んだ。
私の「無色透明」な魂。それは欠落ではなかった。
何色にも染まらず、あらゆる色を透過させ、屈折させるプリズムなのだ。
第四章 無色のプリズム
視界が真っ白に染まる。
私は目を閉じ、聴覚と、肌で感じる色彩の感覚だけに意識を集中させた。
右からは、エララの弱々しい、消え入りそうな魂の青。冷たく、脆いガラスのような感触。
左からは、サーバーから逆流する大衆の無責任で強大な、熱狂の赤。火傷しそうな熱量。
そして正面からは、ジュリアンの献身的で、悲痛な銀色。鋭利な刃物のような冷徹さと、炎のような情熱が入り混じっている。
それらが私の体の中で衝突し、火花を散らす。
激痛が走った。他人の感情が、フィルターなしで私の空っぽな器に流れ込んでくる。喜び、悲しみ、怒り、絶望。それらが私を塗りつぶそうとする。
(痛い。怖い。私が消えてしまう)
『君ならできる』
懐中時計の音が、ジュリアンの声に変わった気がした。いや、それは音波として変換された彼の「信頼」の色だ。
私は奥歯を噛み締め、深呼吸をした。自分を「無」にする。私はただのレンズ。私はただの通り道。
「リアム! 赤の波形、周波数442ヘルツ! 怒りの成分だけカットして!」
「442……見えた! チッ、なんてデタラメな色してやがる!」
リアムの指がキーボードを叩く音が、打楽器のように響く。
私は混沌とした光の濁流の中に手を突っ込み、絡まり合った糸を解くように、エララの魂の色を掬い上げた。
濁ったドブ川のような嫉妬を取り除き、純粋な光だけを選別する。
指先が焼けるようだ。でも、離さない。
ジュリアンの銀色が、私の身体を通して濾過され、エララの青を包み込む。
熱狂の赤は、温かなオレンジ色の生命力へと変換され、点滴のように彼女へと注がれる。
チク、タク、チク、タク。
懐中時計のリズムに合わせて、私は世界を調律する。
右へ、左へ。色の波を指揮するように。
「繋がれ、繋がれ、繋がれ……!」
私の体は、光の交差点だった。無色だからこそ、どんな色も受け入れ、そして正しい場所へと送り出せる。
懐中時計の音が、クライマックスを迎えるオーケストラのように高らかに鳴り響いた。
光が弾けた。
最終章 夜明けの色彩
目を覚ますと、窓から朝日が差し込んでいた。
消毒液の匂い。白い天井。
体を起こすと、ベッドサイドの椅子でリアムが泥のように眠っていた。いびきをかいているその顔は、いつもの不機嫌さが嘘のように幼い。
そして、窓辺にはジュリアンが立っていた。
逆光の中に立つ彼は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……おはよう、セレフィーナ」
彼の声は穏やかだった。
彼の周りには、もうあの混沌とした嵐はない。朝焼けのような、優しく淡い黄金色が漂っている。
その色を見て、私はほっと息を吐いた。
「エララは?」
「安定している。今朝、一瞬だけ目を覚まして……『綺麗な色が見えた』と言って、また眠ったよ。今度は、普通の眠りだ」
ジュリアンはベッドに歩み寄り、サイドテーブルに置かれた懐中時計を手に取った。その表面は高熱で少し変色していたが、秒針は変わらず正確な時を刻んでいる。
「ありがとう。君が、僕たちの命を救ってくれた」
「いいえ。私はただ、見ていただけです。……自分の色が、何もないから」
少し自嘲気味に言うと、ジュリアンは首を横に振った。
「無色透明は、空虚じゃない。それは光そのものだ。全ての色を含み、世界を照らすことができる。君は誰よりも鮮やかだった」
その言葉が胸に落ちたとき、私の中で何かが満ちていくのを感じた。
ああ、これが「嬉しい」という色の温度なのだろうか。じんわりと温かく、桜の花弁のように優しいピンク色。
「おい、いつまでイチャついてるんだ」
リアムが不機嫌そうに欠伸をしながら起き上がった。「言っとくが、俺たちの仕事はこれからだぞ。エーテルパルスの制御技術、それにVtuberの魂の保護。今回の一件で、俺たちがやらなきゃならないことが山積みだ。請求書もな」
「ええ、そうね」私は微笑んだ。「ジュリアン様、あなたにも手伝っていただきますわよ。罪滅ぼしとして」
「……ああ。喜んで。僕の技術のすべてを、君たちのために使おう」
ジュリアンが差し出した手に、私の手を重ねる。そしてその上に、リアムの無骨な手が、乱暴に重なった。
三人の手が重なった場所から、新たな色が生まれるのが見えた。
それはまだ誰も名前をつけていない、けれど、どこまでも透き通り、未来へと続く虹色の輝きだった。
私は窓の外を見る。
世界は相変わらず、嘘と真実、虚飾と本音が入り混じる混沌とした色に満ちている。
けれど、もう怖くはない。
私の目と、この時計があれば、どんな濁った色の中からも、きっと美しい真実を見つけ出せるのだから。
チク、タク。
時計の音が、新しい物語の始まりを告げていた。