感情保存の天秤
第一章 色褪せた虹と黄金の少女
路地裏の猫が吐き戻したような、生ぬるい風が頬を撫でる。アトラス・カーターは眉間に刻まれた皺をさらに深くし、雑踏の中を泳いでいた。
彼の網膜には、世界が常に過剰な色彩で塗りたくられて映る。恋人たちが囁き合えば視界の端で砂糖細工のようなピンクが点滅し、成功者の高笑いは粘着質な紫の煙となって肺を塞ぐ。他人の感情は彼にとって、鼓膜をやすりで削られるようなノイズであり、喉の奥にこみ上げる鉄錆の味だった。
十年前に家族を焼いた炎の赤色だけが、今も瞼の裏でくすぶり続けている。それ以来、他人の幸福を目撃するたび、アトラスの胃袋は鉛を飲んだように重く冷え切るのだった。
その感覚が、突如として飽和した。
交差点の向こう、信号待ちの人垣の中に、空間そのものが切り取られたような「空白」があった。色彩の奔流がそこだけ不自然に避けて通る。中心にいたのは、簡素な麻のワンピースを纏った少女、アリアだ。
彼女が足元の水たまりを避けて小さく跳ねる。ただそれだけの動作で、アトラスの視神経を焼き切るような極彩色の閃光が走った。周囲の歩行者たちが一斉に彼女へ視線を吸い寄せられ、陶酔したような笑みを浮かべる。それはあまりに完璧で、そして生理的な拒絶反応を引き起こすほど暴力的な「幸福」の波及だった。
アトラスはコートのポケットに手を突っ込み、祖父の遺した真鍮の塊を握りしめた。『羅針盤』と呼ばれるそれは、冷たい油のような感触を指先に伝え、針先を小刻みに痙攣させていた。方角ではない。あの少女という特異点を指して、怯えるように震えているのだ。
アリアがふと顔を上げ、空に向かって微笑んだ。
雲間から光が差し込み、彼女を祝福するようにアスファルトを照らす。映画のワンシーンのような奇跡的な美しさだった。
だが、アトラスの耳の奥で、何かが致命的に軋む音がした。遠くのビル街でガラスが割れる音が響き、カラスの群れが悲鳴を上げて空を覆い尽くす。
彼女の笑顔が深まるにつれ、世界のどこかで、見えない柱が一本ずつへし折られていくような予感が、アトラスの背中を冷や汗で濡らした。
第二章 天秤の傾き
廃教会の礼拝堂は、埃とカビの臭いが充満していた。ステンドグラスの破片が散らばる床で、アリアは膝を抱えて座っている。
彼女の周囲だけ、床の木材が真新しい艶を帯び、崩れかけた壁には蔦が青々と絡みついていた。まるで彼女の存在そのものが、エントロピーを逆流させる機関であるかのように。
アトラスは彼女から数メートル離れた柱に背を預け、無言で観察を続けていた。
ここに来るまでの道中、彼女が道端の野花を愛でた直後、その隣に生えていた大樹が音もなく枯れ果てるのを見た。彼女が喉を潤すために買った水のペットボトルは、手渡した店員が突然の目眩で倒れるのと引き換えだった。
世界は有限のパイを奪い合っているのではない。彼女が無理やり自身の皿に幸福を山盛りにするたび、テーブルの脚が重みに耐えきれず悲鳴を上げているのだ。
「今日は、とても静かね」
アリアが呟く。その声は磨かれたガラスのように滑らかで、一切の曇りがない。
アトラスはスマートフォンを取り出した。画面には、数千キロ離れた沿岸都市が高潮に飲まれたという速報が点滅している。
「静か、か」
アトラスの声は嗄れていた。「君の耳には、そう聞こえるのか」
アリアは無邪気に首を傾げる。その瞳は澄み切っているが、どこか焦点が合っていない。彼女は自分の周りで起きている微細な崩壊――枯れる草花、咳き込む小鳥、遠くで鳴り止まないサイレン――を、脳が認識することを拒絶しているようだった。
アトラスは羅針盤を取り出した。蓋を開けると、針は狂ったように回転し、やがて彼女の胸元を指してピタリと止まった。針の先が指し示すのは「幸福」ではない。彼女の内側にある、光をすべて吸い込むブラックホールのような空洞だ。
「君は、笑いたくて笑っているんじゃない」
アトラスは一歩、彼女に近づいた。羅針盤のガラスが、きりきりと音を立てて微細な亀裂を走らせる。
「世界が壊れないように、君自身が人柱になって、必死で『幸せ』を演じ続けている。そうだろう?」
アリアの表情が凍りついた。完璧だった磁器の肌に、微細なヒビが入る幻覚が見えた。
「何を……言っているの? 私はただ、みんなが救われればいいと……」
「その『救い』の勘定は、誰が払っている?」
アトラスは容赦なく踏み込んだ。「君が笑顔を貼り付けるたびに、君の中身はすり減り、その反動が外へ溢れ出している。君は今、自分が何を感じているかさえ、分からなくなっているはずだ」
第三章 分かち合う痛み、芽吹く色
アトラスの言葉が刃となって刺さったのか、アリアの唇がわなないた。
彼女を包んでいた極彩色のオーラが明滅し、どす黒い濁流のような色が滲み出し始める。
「やめて……」
アリアが耳を塞ぐ。「私が幸せでいなきゃ、あの子たちが……パパとママが……」
彼女の言葉は支離滅裂だった。過去の亡霊に囚われ、義務感だけで幸福を捏造し続ける自動人形。
アトラスは羅針盤を床に叩きつけた。
甲高い音と共に真鍮が歪み、ガラスが砕け散る。その音は、アリアの作り上げた堅牢な防壁を破る合図となった。
「見ろ、壊れた」
アトラスは砕けた羅針盤を指差した。「形あるものは壊れる。人間も同じだ。ずっと輝いていられるわけがない」
彼はアリアの目の前に跪き、彼女の冷え切った両手を、自分の武骨な手で包み込んだ。
「僕の家族は死んだ。十年経っても、まだ痛い。毎日、泥水をすするような気分だ」
アトラスは自身の胸の奥、決して癒えることのない傷口を無理やりこじ開けた。そこから溢れ出るのは、爛れたような赤と、深い悲しみの藍色。
その生々しい「不快な」感情の色が、アリアの完璧な世界を侵食していく。
「痛いだろう? 苦しいだろう?」
アトラスは彼女の瞳を覗き込む。「それが生きているってことだ。君のその空っぽの笑顔より、よほどマシだ」
アリアの瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。
それは宝石のような涙ではなく、ただの塩辛い体液だった。
「痛い……」
彼女が小さく漏らす。
「悲しい……怖い……」
堰を切ったように、アリアが泣き声を上げた。子供のように顔を歪め、鼻水を垂らし、あられもない姿で慟哭する。
その瞬間、教会を満たしていた不自然な光が消滅した。
代わりに窓の外から、激しい雨音が雪崩れ込んでくる。雷鳴が轟き、湿った土の匂いが鼻をつく。それは不快で、鬱陶しくて、けれど圧倒的に「現実」の匂いだった。
雨上がりの空は、灰色に濁っていた。
ニュース速報はまだ災害の爪痕を伝えている。世界は相変わらず不条理で、天秤は残酷なほど正確に、誰かの悲鳴で平衡を保っている。
だが、アトラスの視界から、あの頭を蝕む色彩のノイズは消え失せていた。
隣を歩くアリアの目は赤く腫れ、髪は湿気で乱れている。もはや女神のような輝きはない。ただの、疲れ切った一人の人間がそこにいた。
アトラスはポケットの中、歪んで動かなくなった羅針盤に触れる。もう、指針はいらない。
「最悪の天気だ」
アトラスが顔をしかめて空を見上げる。
アリアが鼻をすすりながら、小さく笑った。それは弱々しく、頼りない笑顔だったが、周囲の空間を歪めることはなかった。
「ええ、泥だらけで、寒くて」
彼女はアトラスの袖を掴んだ。「……でも、息がしやすいわ」
水たまりに映る二人の影は、灰色のアスファルトに溶け込んでいた。特別な色はどこにもない。
アトラスは深く息を吸い込んだ。肺に入ってくる空気は冷たく、苦く、そして驚くほど鮮烈だった。