色彩の奏でる嘘、透明な未来図

色彩の奏でる嘘、透明な未来図

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第一章 極彩色の吐瀉物

呼吸をするたび、肺が腐っていく気がした。

金曜日の夜。新宿駅のホーム。

視界を埋め尽くすのは人、人、人。

だが僕の網膜には、人間など映らない。

そこにあるのは、原色のペンキをぶちまけ、ミキサーで撹拌したような色彩の地獄だ。

「昨日の企画書、部長すごい褒めてたよ」

すれ違いざま、サラリーマンの口からドロリとした液体が漏れる。

ドブ川の底に溜まったヘドロのような、湿ったネズミ色。

おべっか。

「もう二度としないって約束する」

電話越しに詫びる男の声が、鼓膜に粘りつく。

足元に垂れたのは、内臓が腐敗したような甘ったるい紫の粘液。

裏切り。

吐き気がする。

物理的な悪臭ではない。脳の奥を直接撫で回されるような、生理的な拒絶反応。

僕は天音律(あまね りつ)。

人の嘘を「色」として視覚認識してしまうこの眼は、世界を巨大な汚物入れとして映し出していた。

逃げたい。

瞼を閉じても、残像が焼き付いて離れない。

蛍光色の火花。欺瞞の点滅。虚栄のグラデーション。

胃液がせり上がり、口元を押さえてしゃがみ込みそうになった時だった。

「律!」

喧騒を切り裂く、凛とした声。

顔を上げる。

改札の向こう、人波をかき分けて走ってくる少女。

奏(かなで)。

世界が一変する。

彼女の周囲だけが、真空のように澄み渡っていた。

嘘の色がない。

色彩の暴力に満ちたこの街で、唯一呼吸を許される「無色」の聖域。

僕は溺れる寸前の遭難者のように、彼女の元へ駆け寄った。

「……遅い」

「ごめんごめん! ちょっと探し物しててさ」

奏は悪びれずに笑う。

その笑顔には、一切の濁りがない。

僕の荒んだ神経が、冷たい水に浸されたように鎮まっていく。

「はい、これ。遅刻の埋め合わせ」

彼女が鞄から取り出したのは、古びた画用紙だった。

端が茶色く変色し、角が擦り切れている。

『未来図』

十年も前だろうか。

僕らが十歳の頃、二人で描き殴った夢の地図だ。

宇宙飛行士の僕。医者の奏。

そして、二人が住むはずの未来の家。

「実家の押入れから出てきたの。懐かしくて、どうしても律に見せたくて」

奏が丁寧に紙を広げる。

その瞬間、僕の思考が凍りついた。

絵の中央。

一番大切な場所が、白く濁っている。

経年劣化ではない。

まるで強力な漂白剤を垂らし、そこにあった「何か」を根こそぎ溶かし去ったような、不自然な空白。

紙の繊維が毛羽立ち、そこだけが死んでいるように見えた。

「……ここ、変色してるな」

僕が指差すと、奏は不思議そうに首を傾げた。

「え? どこが?」

「ここだよ。二人の『約束の場所』を描いたところ」

奏は目をぱちくりとさせ、僕の指先と自分の顔を交互に見た。

その瞳は、ガラス玉のように透明で――そして、空虚だった。

「約束? ……私たち、そんなの描いたっけ?」

心臓が早鐘を打つ。

背筋を冷たい汗が伝う。

彼女の周囲に、嘘の色は浮かんでいない。

ネズミ色も、紫も、赤もない。

完全なる透明。

つまり、彼女は嘘をついていない。

演技でも、とぼけているわけでもない。

「覚えてないのか? この絵を描いた日のこと」

「ううん、覚えてるよ。夕焼けが綺麗で、律がクレヨンを折っちゃって……」

「じゃあ、この空白になにを描いた?」

奏は困ったように眉を下げ、視線を宙に彷徨わせた。

「……わからない。思い出そうとすると、頭の中に白い霧がかかるの」

彼女は、本当に喪失している。

僕との未来を誓った、あの一番大切な記憶だけを、物理的に抉り取られたように。

彼女の「無色」が、急に恐ろしいものに見えた。

それは清らかな透明ではない。

中身が空っぽになった、虚無の色だ。

第二章 硝子の心臓

場所を近くの公園に移した。

夜風が熱った頬を冷やすが、僕の混乱は収まらない。

ベンチに座る奏は、申し訳なさそうに膝の上で指を組んでいる。

「ごめんね、律。最近、物忘れがひどくて」

「物忘れなんてレベルじゃない。そこだけ綺麗に切り取られてる」

僕は焦燥を隠せずに言った。

なぜだ。

三年前まで、彼女はこの絵の話を笑顔でしていたはずだ。

何が起きた?

「……律、怒ってる?」

「怒ってない。怖いんだ」

僕が本音を吐露すると、奏はふと遠くを見る目をした。

その瞳の奥に、さざ波のような揺らぎが見える。

「私ね、最近怖いの」

唐突な独白だった。

「夜になると、胸の奥がすごく痛くなる。誰にも必要とされていない、世界から弾き出されたような孤独感。このまま消えてしまいたいって、本気で願う自分がいるの」

彼女の言葉に、耳を疑った。

奏は、太陽のような子だ。

いつだって前向きで、僕の陰鬱さを笑い飛ばしてくれる強さを持っていたはずだ。

「そんなの、奏らしくない」

「そうだよね。でも、感情が勝手に溢れてくるの。まるで……」

彼女が胸元を強く握りしめる。

白いブラウスの生地が引きつる。

「まるで、誰かの悲鳴が、私の中に住み着いているみたい」

その瞬間。

彼女の胸の奥から、色が溢れ出した。

ドクン、と脈打つように放たれたその色は、嘘のグレーでも、秘密の紫でもない。

鮮烈で、痛々しいほどに鋭利な、クリムゾン・レッド。

僕は息を呑んだ。

その色を、僕は知っている。

他人の色ではない。

もっと生々しく、僕の神経に直接突き刺さる感覚。

吐き気ではない。共振だ。

僕の古傷が、その色に反応して疼いている。

あれは――僕だ。

三年前。

「色」が見える能力に耐えきれず、部屋のカーテンを閉め切り、死ぬことばかり考えていた日々の僕。

世界を呪い、自分を呪い、孤独の底で血を流していた、あの頃の僕の感情そのものだ。

なぜ。

なぜ、僕の絶望が、彼女の中から溢れ出ている?

思考が高速で回転する。

祖母の御伽噺やオカルトじみた理屈など必要ない。

目の前の現象が、残酷な論理を組み上げていく。

彼女の記憶の「空白」。

彼女の中に巣食う「僕の絶望」。

そして、三年前という時期の一致。

彼女は、僕の感情を持っている。

容器である彼女の心には収まりきらないほどの、劇薬のような絶望を。

容量オーバーの代償として、彼女自身の記憶が押し出され、消滅したとしたら?

パズルのピースが、不快な音を立てて嵌っていく。

「……奏」

僕の声が震える。

認めなくない。けれど、認めざるを得ない。

「君が感じているその痛み。それは、君のものじゃない」

奏が驚いたように僕を見る。

その瞳から、また一筋、鮮血のような赤がこぼれ落ちた。

「どういう、こと?」

「それは僕の感情だ。三年前、僕が抱えていた死にたくなるほどの絶望だ」

僕は彼女の肩を掴んだ。

指先が食い込む。

「何をした? 君は僕の何をしたんだ!」

第三章 透明な罪

僕の怒声に、奏の体がビクリと跳ねた。

しかし、彼女は目を逸らさない。

その瞳の奥で、真紅の絶望と、透明な愛が激しく渦巻いている。

沈黙。

公園の時計の針が進む音だけが、やけに大きく響く。

やがて、奏の唇が微かに動いた。

「……ばれちゃった」

その一言と共に、彼女を包んでいた「透明な殻」が砕け散った。

あふれ出したのは、嘘の色ではない。

彼女が必死に隠蔽してきた、あまりにも純粋な真実の奔流。

「そうだよ。私が、奪ったの」

奏の声は静かだった。

諦観と、慈愛が混ざり合った響き。

「三年前のあの日。律は、本当に壊れてしまいそうだった。私、怖かった。律の色が見えなくても、律が今にも消えてしまいそうなことだけは分かったから」

彼女の手が、僕の手首をそっと包む。

冷たい。

彼女はずっと、こんな冷たい絶望を抱えて笑っていたのか。

「律を助けたかった。でも、言葉じゃ届かない。だから願ったの。律の痛みが全部、私に移ればいいのにって」

彼女は自嘲気味に笑う。

「馬鹿だよね。そうしたら、本当に『移っちゃった』の。翌朝起きたら、私の心は鉛みたいに重くて、代わりに……律との一番大切な約束が、思い出せなくなってた」

等価交換。

他人の絶望を引き受けるために、彼女は自分自身を形成する核となる記憶を支払ったのだ。

あの『未来図』の空白は、僕の命の代金だった。

「ふざけるな……!」

視界が歪む。

涙で滲んだ世界の中で、奏の放つ赤色だけが鮮明に焼き付く。

「そんなこと頼んでない! 僕の絶望は僕のものだ! 勝手に背負って、勝手に記憶をなくして……それで僕が喜ぶとでも思ったのか!?」

「喜ばなくていいよ」

奏は、僕の涙を指先で拭った。

その指先には、僕の醜い絶望が染み付いているはずなのに、どうしようもなく温かい。

「律が笑ってくれるなら、私は何でもよかった。律には、綺麗な色だけを見ていてほしかったから」

息が止まる。

僕はずっと、彼女には「嘘の色」が見えないから、彼女は純粋なのだと思っていた。

違った。

彼女が僕に見せていた「透明」は、何もない空虚さではない。

自己保身も、計算も、悪意も一切混じらない、純度100%の「献身」。

あまりに純粋すぎるその想いは、僕の汚れた眼には「無色」として映るしかなかったのだ。

彼女はずっと、僕の身代わりとして、地獄の業火に焼かれ続けていた。

その痛みをひた隠しにして、笑顔という完璧な嘘で塗り固めて。

「……返せよ」

僕は崩れ落ちるように膝をつき、彼女の腰に縋り付いた。

子供のように泣きじゃくる。

「僕の絶望を返せ。君の記憶を返してくれ。こんなの間違ってる」

「無理だよ、律」

奏の手が、僕の髪を優しく梳く。

母親が子をあやすような、残酷なまでの優しさ。

「一度混ざり合った色は、もう分離できない。この赤色は、もう私の体の一部なの」

最終章 不完全な色彩

慟哭が枯れるまで、どれくらいの時間が経っただろう。

僕は腫れ上がった目で、夜空を見上げた。

相変わらず、遠くの街並みからはどす黒い欲望の煙が立ち上っている。

世界は汚いままだ。

これからも、僕は人の嘘を見続け、その醜悪さに嘔吐し続けるだろう。

けれど。

「……律」

隣に座る奏を見る。

彼女の胸には、未だに僕の絶望が赤く脈打っている。

記憶は戻らない。

『未来図』の空白は、二度と埋まらない。

失われたものは、永遠に帰ってこない。

それが現実だ。奇跡なんて起きない。

でも、彼女の瞳には、僕の絶望さえも内包し、それでもなお輝き続ける圧倒的な「肯定」の光があった。

僕の汚さを飲み込み、自らの血肉に変えて生きる、強靭な愛の色。

世界は醜い。

でも、この色があるなら。

この色が隣にあるなら、僕はまだ息ができるかもしれない。

「……奏」

僕は懐から、安っぽいボールペンを取り出した。

「ん?」

「記憶がないなら、新しく描けばいい」

僕はベンチに置かれた『未来図』を引き寄せ、白く濁った空白の上にペン先を落とした。

震える手で。

不格好に。

でも、祈るように強く、線を引く。

「律の絶望を君が持っているなら、君の希望を僕に分けてくれ」

僕たちは共犯者だ。

傷を舐め合うのではない。傷を分け合い、継ぎ接ぎだらけの魂で立っている。

奏が目を丸くし、やがてくしゃりと、泣き笑いのような表情を見せた。

「……うん。今度は、もっと派手な色にしようよ」

「ああ。目が痛くなるくらいの極彩色にしよう」

彼女が僕の手に、自分の手を重ねる。

体温が混ざり合う。

二人の指が触れ合った瞬間、視界を覆っていたグレーのフィルターが、パリンと音を立てて弾け飛んだ気がした。

完全な真実なんて、どこにもない。

人は誰もが、守るために、隠すために、あるいは愛するために、色とりどりの嘘を纏って生きている。

それなら僕は、その色の濁流に溺れるのではなく、その奥にある一筋の光を見つけ出そう。

奏が、僕の闇を背負ってくれたように。

重ねた手の下で、未来図の空白が、新しいインクで黒く塗りつぶされていく。

それはかつての夢とは違う、歪で泥臭い形かもしれない。

けれど、どんな美しい嘘よりも鮮やかで、どんな真実よりも確かな、僕たちだけの「色」だった。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**:
嘘を色で認識し、世界に絶望する律は、奏の「無色」に救いを求める。しかし奏の「無色」は、律の絶望を自身に移し替え、記憶と引き換えにした純粋すぎる献身の証だった。奏は律に「綺麗な色だけを見ていてほしい」と願う愛ゆえに、自らを犠牲にした。

**伏線の解説**:
『未来図』の空白、奏の「物忘れ」や胸の「誰かの悲鳴」は、律の絶望が奏に「移った」ことを示唆。律が認識した奏の「無色」は、悪意のない献身という、律の能力では捉えきれない「透明な真実」であったと明かされる。

**テーマ**:
物語は、絶対的な「真実」や「嘘」の境界の曖昧さを問う。そして、不完全な自己と世界を受け入れ、他者の闇をも包み込む「愛」の形を描く。傷を分かち合い、完璧ではないが故に強い絆で結ばれた「共犯者」として、絶望の中にも希望を見出し、共に不完全な未来を紡ぐことの尊さを肯定する。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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