残響の調律師

残響の調律師

0 4452 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 訃報と不協和音

柏木奏(かしわぎ そう)の指は、常に完璧な均衡を求めていた。グランドピアノの内部、複雑に絡み合う弦とハンマーの森で、彼の聴覚はミクロン単位の不協和音すら許さない。彼は調律師。音を整え、沈黙に秩序を与えることを生業としていた。しかし、彼自身の内なる世界は、もう十年以上も調律されないまま、軋みを上げていた。

その知らせは、冷たい雨がアスファルトを叩く日の午後、一本の電話によってもたらされた。受話器の向こうから聞こえてきたのは、知らない男の事務的な声。十年以上、声も聞いていない父、柏木響(ひびき)が死んだのだという。奏の心に浮かんだのは、悲しみではなかった。むしろ、錆びついた弦がぶつんと切れたような、空虚な解放感だった。

著名な作曲家であった父は、奏にとって崇拝の対象であると同時に、乗り越えることのできない巨大な壁だった。母の死後、父は音楽に心を閉ざし、同じ道を歩もうとする幼い奏を、冷たい言葉で突き放した。「お前に才能はない」。その一言が、奏の心を永久凍土に変えた。彼は作曲家の道を諦め、父への反発から、創造ではなく調整の道、調律師を選んだのだ。

葬儀にも顔を出すつもりはなかった。だが、数日後、父の顧問弁護士だという人物が、奏の小さな仕事場を訪れた。弁護士が差し出した一通の封筒には、遺言書の写しが入っていた。財産のほとんどは慈善団体に寄付されていたが、ただ一つ、奏に向けた遺言があった。

『アトリエにある私のピアノを、息子の奏に調律してもらいたい。それが、最後の願いだ』

奏は思わず紙を握りしめていた。あのピアノ。父の指が数多の名曲を生み出した、漆黒のグランドピアノ。それは父の栄光の象徴であり、奏にとっては、父に拒絶された記憶が染み付いた呪いの楽器だった。

「お断りします」

奏の返事は、彼の調律する音のように、淀みがなかった。

「ですが、柏木先生は強く希望されていました。報酬は、望むだけ」

「金の問題じゃない。俺は、あの人のための仕事はしない」

冷たく言い放つ奏の耳の奥で、キーン、と高い金属音が鳴った。それは、彼の感情が昂ぶった時にだけ現れる、厄介な耳鳴りだった。この耳鳴りが始まると、音のピッチが微妙にずれて聞こえるのだ。調律師にとって、それは致命的な欠陥だった。だからこそ奏は、常に心を平坦に保つ術を身につけてきた。父という存在は、その平坦をいとも簡単に乱す、最大の不協和音だった。

弁護士は困ったように眉を下げたが、一枚の古い鍵をテーブルに置いた。「気が変わりましたら、いつでも。あのアトリエは、一ヶ月後には処分されます」。その言葉を残し、男は去っていった。

奏は一人、仕事場に残された。窓の外では、雨がまだ降り続いている。テーブルに置かれた古びた真鍮の鍵が、鈍い光を放ちながら、彼を過去へと誘うように、静かに沈黙していた。

第二章 閉ざされたアトリエ

一週間、奏は鍵を見ないように過ごした。しかし、眠りに落ちると、決まって父のアトリエの夢を見た。埃っぽい空気、床に散らばる楽譜、そして部屋の中央に鎮座する、巨大な黒い影のようなピアノ。そのピアノが、無音の叫びを上げているような気がした。

奏には、一つの秘密があった。彼が持つ特異な聴覚は、ごく稀に、楽器に残された持ち主の強い想いを「残響」として捉えることがあった。それは音の記憶。愛用のギターが持ち主の死後に奏でた別れのブルース、演奏会直前に壊れたヴァイオリンが放った奏者の悔しさの断片。それは科学では説明できない、奏だけの感覚だった。父のピアノには、一体どんな「残響」が残っているのだろうか。罵声か、後悔か、あるいは完全な無関心か。それを確かめたいという衝動が、拒絶の気持ちを少しずつ侵食していった。

結局、奏は週末に、重い足取りで実家へと向かった。鍵を開けると、カビと紙の匂いが混じった、懐かしい空気が鼻をついた。アトリエのドアを開ける。夢で見た通りの光景がそこにあった。時の流れから取り残されたかのように、すべてが十年前のままだった。

そして、ピアノがあった。スタインウェイのフルコンサートグランド。蓋は閉じられ、分厚い埃のヴェールを被り、まるで巨大な棺のようだった。奏はゆっくりとそれに近づき、そっと鍵盤蓋を開けた。象牙の鍵盤は黄ばみ、いくつかは重く沈み込んでいた。

彼は椅子に腰掛け、一つの音を鳴らしてみた。ポーン、と響いた音は、狂っていた。湿気と時間によって、すべての弦が伸びきってしまっている。それは単なる音の狂いではなかった。かつて完璧なハーモニーを奏でていたものが、調和を失い、悲鳴を上げているようだった。

奏は工具を取り出し、作業を始めた。だが、指が思うように動かない。父の残り香が、この部屋の隅々にまで染み付いている。彼の視線、彼の溜息、彼の厳しい声。それらが亡霊のように蘇り、奏の集中を乱した。そして、案の定、あの耳鳴りが始まった。キーンという高音が思考を麻痺させ、ピアノの音がぐにゃりと歪む。A(ラ)の音が、Aフラットにも、Aシャープにも聞こえる。これでは調律どころではない。

「くそっ……!」

奏はチューニングハンマーを置き、頭を抱えた。父の「残響」を聞くためには、まずこのピアノを完璧な状態に調律しなければならない。しかし、父への憎しみや整理のつかない感情が邪魔をして、調律師としての自分の耳を狂わせている。この矛盾が、彼を苛んだ。父は死んでなお、自分を縛り付けている。奏は、この部屋そのものが、父が作り出した巨大な不協和音の塊なのだと感じていた。

第三章 時を超えた連弾譜

調律は遅々として進まなかった。奏は数日間、アトリエに通い詰めた。心を無にしようと努め、ピアノと向き合う。数本の弦を調律しては、耳鳴りに妨げられて中断する、その繰り返しだった。焦りと無力感が、彼の肩に重くのしかかった。

気分転換に、と部屋を見回した奏の目に、ピアノの脇に積まれた楽譜の山が留まった。ほとんどは父が出版した曲の校正刷りだったが、その一番下に、一冊の古びたスケッチブックが挟まっているのが見えた。何気なく手に取り、ページをめくる。そこに書かれていたのは、見覚えのある、拙いメロディだった。

それは、奏がまだ十歳にも満たない頃、作曲の真似事をして書いた曲だった。母が「素敵な曲ね」と褒めてくれた、たった一つの思い出の曲。なぜこんなものが、父の書斎に。奏は混乱しながらページをめくった。

次のページを見て、彼は息を呑んだ。彼の幼稚なメロディに、豊かで美しい対旋律(カウンターメロディ)と和音が書き加えられていたのだ。それは明らかに父の筆跡だった。単なる編曲ではない。彼のメロディを優しく包み込み、より高みへと引き上げるような、完璧なデュエットパート。まるで、父が息子の隣に座り、一緒にピアノを弾いているかのような楽譜だった。

最終ページには、インクが掠れた文字で、こう記されていた。

『奏へ。いつか、お前と連弾するために。父より』

日付は、母が亡くなった年の、奏の誕生日。

奏の全身から、力が抜けた。膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でピアノに手をついてこらえた。涙が、楽譜の上にぽたぽたと落ち、インクを滲ませた。

「お前に才能はない」

あの言葉は、何だったのか。あれは、拒絶ではなかったのか。奏は、断片的な記憶のピースを必死で繋ぎ合わせようとした。母の死後、悲しみに暮れるあまり、大好きだったピアノに触れなくなった自分。そんな彼を見て、父は焦っていたのではないか。音楽の世界の厳しさを知るがゆえに、中途半端な気持ちでこの道に進んでほしくなかったのではないか。だから、わざと突き放した? 息子の才能を信じていたからこそ、もっと強い覚悟を求めて、あえて憎まれ役を演じたのではないか?

不器用すぎる。あまりにも不器用で、一方的な愛情の形だった。だが、この楽譜が、父の真実の心を雄弁に物語っていた。父は、奏を拒絶したのではなく、誰よりも彼の才能を信じ、共に音楽を奏でる日を夢見ていたのだ。十年以上も抱き続けてきた憎しみが、まるで陽光に溶かされる氷のように、静かに消えていくのを感じた。

第四章 残響の調律

奏は涙を拭うと、静かに立ち上がり、再びピアノの椅子に座った。もう、耳鳴りは聞こえなかった。心の中を支配していた不協和音が消え、完全な静寂が訪れていた。彼の聴覚は、かつてないほどに研ぎ澄まされていた。

彼はチューニングハンマーを手に取った。今度の一音一音は、父との対話だった。低音弦を整えながら、厳格だった父の背中を思い出す。中音域の弦を張りながら、一度だけ褒めてくれた遠い記憶を辿る。そして、高音の煌びやかな音を調律しながら、この楽譜に込められた父の不器用な愛を感じる。

すべての作業が、祈りのようだった。許しを乞う祈りであり、感謝を捧げる祈りでもあった。

長い時間をかけ、最後の弦の調律を終えた。奏はそっと指を鍵盤から離す。完璧に調律されたピアノは、沈黙の中で、まるで息を凝らしているかのようだった。

その、瞬間。

ピアノの内部から、ふわりと、一つの音が立ち上った。それは特定のメロディではなかった。言葉でもない。ただ、温かく、深く、そして少し寂しげな、一つの和音(コード)。Cメジャーセブンスのような、明るさの中に切なさを秘めた、複雑で優しい響き。

父の「残響」だった。

それは「ありがとう」とも「すまなかった」とも「愛している」とも聞こえた。万感の想いが凝縮された、たった一つの和音。奏は目を閉じ、その音を全身で受け止めた。父の無骨な手が、そっと自分の頭を撫でてくれたような気がした。もう、言葉は必要なかった。

目を開けた奏の頬を、一筋の涙が伝った。彼は父を許し、そして何より、父を憎み続けてきた自分自身を、許すことができた。

奏は、父が残してくれた連弾譜を譜面台に置いた。そして、ゆっくりと指を鍵盤に下ろす。彼が弾き始めたのは、幼い日に作った、あの拙いメロディ。それに呼応するように、頭の中では、父が書き加えてくれた美しい対旋律が鳴り響く。アトリエには、時を超えた父と息子の連弾が、静かに、そしてどこまでも優しく響き渡っていた。

一ヶ月後、奏はアトリエの鍵を弁護士に返した。ピアノは、彼が引き取ることにした。

彼の仕事場に置かれた、父の形見のピアノ。それはもう、呪いの楽器ではない。時折、彼はそのピアノを弾く。一人で弾いていても、そこにはいつも、父の温かい和音が寄り添っているような気がした。奏の調律する音は、以前にも増して、深く、人の心に響くようになったと評判だった。彼は音だけでなく、人の心に残された不協和音をも調律する、真の調律師になったのだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る