第一章 記憶預かり屋と奇妙な来訪者
港に霧が立ち込める朝は、世界の輪郭が曖昧になる。錆びた鉄の匂いと潮の香りが混じり合い、遠くで鳴る汽笛の音だけが、ここが現実であることをかろうじて教えてくれる。俺、湊(みなと)が営むアンティークショップ「時のかけら」は、そんな港町の忘れられたような路地裏に、ひっそりと息づいていた。
店に並ぶのは、持ち主を失った古時計やインクの染みが残る万年筆、そして色とりどりの光をたたえた無数のガラス瓶。客のほとんどは、後者のためにこの店を訪れる。彼らは、心の奥底に沈殿した、どうしても忘れたい記憶を差し出す。俺には、その記憶を「光の粒」として取り出し、瓶に封じ込める力があった。預かった記憶は、二度と持ち主の元へは返さない。それが、この「記憶預かり屋」の唯一にして絶対のルールだった。俺は、人々の哀しみの終着駅であり、忘却の番人だった。
その日、店のドアベルが、いつもの憂いを帯びた音色とは少し違う、乾いた音を立てた。入ってきたのは、背中の曲がった小柄な老婆だった。深く刻まれた皺の一つ一つが、彼女が生きてきた長い年月を物語っている。
「……いらっしゃいませ」
俺はカウンターの奥から、感情を消した声で言った。老婆は商品を物色するでもなく、まっすぐに俺の元へと歩み寄ってきた。そして、震える手で古びた風呂敷包みを解くと、中から小さな、しかしひときわ澄んだ輝きを放つ瓶を取り出した。
「これを……」老婆の声は、掠れていた。「これを、もう一度だけ、見せてはいただけませんでしょうか」
俺は眉をひそめた。その瓶は、紛れもなく俺が預かった記憶の一つだった。棚に並ぶ他の瓶と同じく、忘却の海に沈められるはずのもの。
「申し訳ありませんが、うちは預かるだけの店です。一度お預かりしたものは、お返しすることも、中身をお見せすることもできません」
それがルールだった。忘れたいと願ったほどの痛みを、再び呼び覚ますことなど許されない。だが、老婆は諦めなかった。
「忘れたかったんです。本当に。あの人の最後の顔が、あまりに苦しそうで……その顔を見るたびに、胸が張り裂けそうだったから」
老婆――千代と名乗った――は、それが五年前に亡くした夫との最後の記憶なのだと語った。病床で、痛みに耐えながら、それでも彼女を安心させようと無理に作った笑顔。その記憶を忘れることでしか、彼女は前へ進めなかったのだという。
「でも、間違いでした」千代の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。「辛い記憶と一緒に、あの人の温もりまで忘れてしまいそうで……。お願いです。もう一度だけ、あの人に会いたいんです」
千代の切実な願いは、俺が長年築き上げてきた心の壁に、小さなひびを入れた。忘れたいと願う記憶。その裏側には、忘れがたいほどの愛がある。俺は、その矛盾の重さを、誰よりも知っていたからだ。
第二章 揺れるルールと過去の残照
千代は、それから毎日店にやって来た。何かを買うわけでもなく、ただカウンターの前の椅子に腰掛け、夫との思い出をぽつりぽつりと語るのだった。初めは迷惑に感じていた俺も、いつしか彼女の話に耳を傾けるようになっていた。彼女が語る夫は、不器用だが心優しく、彼女が育てた向日葵を何よりも愛した人だった。話している時の千代の顔は、皺だらけの少女のように輝いて見えた。
「あの人はね、よく言ってたんです。『記憶ってのは厄介だな。辛いことも、幸せなことも、同じ場所にしまってあるんだから』って」
千代の言葉は、俺自身の胸に突き刺さった。俺の店の奥、鍵のかかったガラスケースの中にも、一つだけ特別な瓶がある。それは、俺が誰にも預けることのできない、俺自身の記憶だった。
五年前、俺には沙耶(さや)という恋人がいた。彼女は光そのもののような女性で、彼女と過ごした日々は、俺の人生で唯一、色彩に満ちていた。だが、彼女は不治の病に侵された。病は彼女の身体だけでなく、記憶をも少しずつ蝕んでいった。俺の名前を思い出せなくなり、共に過ごした時間を忘れ、やがて鏡に映る自分さえ誰だか分からなくなった。
その苦しみから彼女を救いたくて、俺はこの力を使った。彼女が心から「忘れたい」と願った、俺と過ごした日々の記憶、俺を愛した記憶のすべてを、一つの瓶に封じ込めた。記憶を失った沙耶は、穏やかな顔で眠るように逝った。俺は彼女を救えたのだと、そう自分に言い聞かせてきた。だが、本当にそうだったのだろうか。
「旦那様の記憶、本当に忘れたいものでしたか?」
ある日、俺は千代に尋ねていた。自分でも予期せぬ質問だった。千代は少し驚いたように目を見開いた後、悲しげに微笑んだ。
「ええ。忘れたかった。でもね、今なら分かるんです。あの辛い記憶も、私とあの人が夫婦だった証の一部。それを捨ててしまったら、私自身が欠けてしまう。……あなたには、そんな風に思ったことはありませんか?」
千代の問いは、俺が目を背け続けてきた核心を突いていた。俺は沙耶を苦しみから救った。そのはずだった。だが、彼女の記憶を奪った俺の胸には、ぽっかりと大きな穴が空いたまま、五年という月日が流れていた。棚に並ぶ無数の瓶が、まるで誰かの人生の墓標のように見えた。俺は忘却の番人などではない。ただ、人々の大切な過去を奪い、ガラスの墓に閉じ込めているだけの、空っぽな存在なのではないか。
千代の澄んだ瞳が、俺の心の澱を見透かすようだった。俺の中で、長年守り続けてきたルールが、音を立てて崩れ始めていた。
第三章 禁忌の光と予期せぬ真実
数日後、俺は決意を固めた。店のドアに「本日休業」の札をかけ、千代を中に招き入れた。
「一度だけです」
俺はカウンターに彼女の記憶の瓶を置き、固く閉ざされた蓋に手をかけた。ルールを破る背徳感と、未知への恐れで指先が震える。俺の力は記憶を「預かる」だけであり、それを「再生」する能力はない。瓶を開けたところで、中身を見ることはできないはずだ。それでも、千代の願いを、そして俺自身の心の揺らぎを、確かめずにはいられなかった。
ゆっくりと蓋を開ける。ふわりと、温かい光の粒子が瓶から溢れ出し、店の中を蛍のように舞い始めた。だが、それだけだった。光は映像を結ぶことも、声を響かせることもなく、ただ静かに輝いているだけ。
「ああ……」
千代の肩が、失望に小さく震えた。俺は唇を噛み締めた。やはり、無理だったのだ。忘却の川は、一度渡れば二度と戻れない。俺は彼女に残酷な希望を抱かせてしまっただけだった。
謝罪の言葉を探して俯いた、その時だった。
「……まあ」
千代が、息を呑むような声を上げた。彼女の視線は、俺の背後、鍵のかかったガラスケースの中にある一つの瓶に向けられていた。沙耶の記憶が眠る、あの瓶に。
「なんて……なんて、温かい光なんでしょう。あちらの瓶は」
千代は立ち上がり、まるで引き寄せられるようにガラスケースに近づいた。
「私が預けた記憶の光とは、どこか違う。悲しいのに、とても温かい……。まるで、誰かに『忘れないで』と、そう叫んでいるような……」
その言葉は、雷のように俺の全身を貫いた。
忘れないで?
違う。沙耶は忘れたがっていた。苦しみから解放されたがっていた。だから俺は……。
混乱する俺の思考を打ち破るように、千代は続けた。
「私が預けたのは、『忘れたい』と願う記憶。だから光はどこか冷たいんです。でも、あの光は違う。あれは……あれはきっと、『覚えていてほしい』と託された記憶の色だわ」
――覚えていてほしい。
その瞬間、俺の中で何かが砕け散った。そうだ。沙耶は最期の日々、朦朧とする意識の中で、何度も、何度も繰り返していた。
「湊、忘れないで。私がいたこと、忘れないで。あなたを愛したこと、忘れないで……」
俺は、彼女のその言葉を、病が見せる幻だと思い込んでいた。自分の記憶を失っていく彼女が、俺に自分の存在を繋ぎ止めようとしている、悲痛な叫びだと。
だが、違ったのだ。
彼女は、失われていく自分自身の愛の記憶を、消えてしまう前に、俺に託そうとしていたのだ。「忘れたい」のではなく、「覚えていてほしかった」。俺のこの力は、人々の忘れたい記憶を預かるだけの能力ではなかった。持ち主が心から「託したい」と願う記憶をも、預かることができる力だったのだ。
俺は、彼女の最も大切な願いを、五年間も誤解し続けてきた。救ったつもりで、彼女の愛の証を、この冷たいガラス瓶に独りで閉じ込めてきたのだ。
第四章 忘却の番人から追憶の守人へ
ガラスケースの鍵を開け、沙耶の記憶の瓶を手に取った。ずしりと重い。それは記憶の重さであり、俺が犯した過ちの重さだった。瓶の中で、金色の光が優しく揺らめいている。まるで、俺に応えるかのように。
涙が、後から後から溢れてきた。謝罪も後悔も、もう彼女には届かない。だが、この光の温もりが、沙耶の愛そのものであることだけは、はっきりと分かった。俺は孤独ではなかった。彼女の愛は、ずっとここで俺を見守っていてくれたのだ。
俺は涙を拭うと、千代に向き直った。
「ありがとうございます。あなたが、気づかせてくれた」
そして、彼女の夫の記憶が入った瓶を、そっとその手に返した。
「この光もきっと、同じです。旦那さんは、あなたに忘れてほしかったんじゃない。辛い思い出ごと、あなたに生きてほしかったんですよ。この光は、そのための道標だったんだ」
千代は、瓶を胸に抱きしめ、何度も頷いた。その皺だらけの顔は、涙と、そして安らかな微笑みで濡れていた。彼女は深々と頭を下げると、確かな足取りで店を出ていった。彼女の背中は、来た時よりも少しだけ、まっすぐに伸びているように見えた。
翌日、俺は店の看板に、小さな文字を書き加えた。
『記憶預かり屋 時のかけら』
――そして、覚えておきたい記憶も、お預かりします。
俺はもう、忘却の番人ではない。人々の哀しみや喜び、そして愛が宿る記憶の温かさを受け止め、その想いを託された追憶の守人だ。
夕暮れの光が差し込む店内で、棚に並ぶ色とりどりの瓶が、静かに輝いていた。一つ一つの光は、誰かの人生の断片であり、愛の証。俺は沙耶の瓶を胸に抱き、窓の外に広がる、茜色と群青色が溶け合う空を見つめた。
記憶とは、忘れるためにあるのではない。きっと、抱きしめて生きていくためにあるのだ。遠い汽笛の音が、まるで新しい旅の始まりを告げるように、港町に優しく響き渡っていた。