第一章 硝子の破片
「先生、今週はちゃんと練習してきました」
その言葉が落ちた瞬間だった。
鼻の奥を、腐った雑巾を煮詰めたような油臭い空気が刺した。
「うっ……」
私は反射的に口元を覆い、鍵盤から身を引く。
胃の底からせり上がる酸っぱい液体。
目の前の生徒は、無垢な瞳で私を見上げているが、私の鼻腔は彼女の毛穴から吹き出す強烈な悪臭に悲鳴を上げている。
「先生? 顔色が……」
「……いいえ、なんでもないわ」
息を止めるようにして、浅く呼吸する。
指が迷っている。リズムが崩れている。
聴覚よりも先に、この忌々しい鼻が真実を告げていた。
嘘だ。
練習などしていない。
「今日はここまでにしておきましょう。少し、体調が悪いの」
これ以上、このヘドロのような悪臭を吸い込んでいたら、鍵盤の上に中身をぶちまけてしまいそうだった。
生徒が部屋を出ていくと、私は窓を全開にし、冷たい外気を肺いっぱいに吸い込んだ。
この鼻は、呪いだ。
人が嘘を吐くとき、その成分が目に見えない粒子となって放出される。
保身の嘘はカビ臭く、悪意ある嘘は焦げたゴムのように鼻を焼く。
私は逃げるようにコートを羽織り、コンサートホールの楽屋口へと向かった。
この街で唯一、私がマスクなしで呼吸できる場所へ。
「やあ、奏。来てくれたんだね」
楽屋の扉を開けると、藤沢悠が振り返った。
革張りのソファに楽譜を広げ、コーヒーを片手に微笑んでいる。
その瞬間、張り詰めていた神経がふわりと解けた。
雨上がりの朝、森の中で深呼吸をしたような清涼感。
悠さんは、嘘をつかない。
彼の奏でるピアノと同じ。透き通って、どこまでも誠実だ。
この人のそばだけが、私の肺が機能する唯一の聖域だった。
「悠さん、いよいよ来週ですね。国際コンクール」
私は彼の隣に座り、その清浄な空気を貪るように吸う。
「ああ。最高のコンディションだよ」
彼はカップを置き、私の目を見て言った。
「これまでの人生で、一番いい演奏ができると思う。指も、心も、かつてないほど充実している」
その時だった。
――ピキリ。
耳元で、薄い氷が割れる音がした気がした。
「……え?」
私の全身を、鋭利な冷気が貫いた。
今までに嗅いだことのない匂い。
腐敗臭でも、焦げ臭さでもない。
研ぎ澄まされた刃物のような、あるいは砕け散ったクリスタルガラスのような、痛みを伴うほどに透明な香り。
それが悠さんの全身から立ち昇り、私の頬を切り裂くように撫でた。
(嘘……?)
悠さんが、私に嘘をついている?
しかも、これほどまでに巨大で、美しく、そして冷たい嘘を。
「奏? どうしたんだ、そんなに青ざめて」
彼が心配そうに手を伸ばしてくる。
その白くて長い指先からも、あの凍てつくガラスの匂いが漂っていた。
私は思わず身をよじり、彼の腕を避けた。
「……なんでも、ないです」
喉の奥が引きつる。
私の吐いた言葉からは、錆びた鉄のような血の匂いがした。
第二章 薬瓶の底
真実は人を傷つけるが、嘘は私を蝕む。
あのガラスの匂いが、鼻の奥にこびりついて離れない。
悠さんの嘘は、あまりに異質だった。
人を欺く濁りが一切ない。
ただひたすらに鋭く、悲痛なほどに澄んでいる。
私は確認しなければならなかった。
あの完璧な聖域に、何が起きているのかを。
コンクール前日の深夜。
私はホールの通用口を潜り抜けた。
関係者パスを持っているとはいえ、心臓の早鐘がうるさい。
悠さんはリハーサル中だ。
誰もいない彼の楽屋の前で、私は足を止めた。
ドアノブに手をかける。
冷たい金属の感触。
これを開ければ、もう戻れない気がした。
今まで何度も経験してきたことだ。
嘘を暴けば、関係は終わる。
信頼という薄い膜は、一度破れれば二度と修復できない。
それでも、あの匂いの正体を知らなければ、私は窒息死してしまいそうだった。
ガチャリ。
鍵は開いていた。
楽屋の中は暗く、微かに彼のコロンの香りが残っている。
私はスマートフォンのライトを点け、部屋を見回した。
机の上には楽譜。
吸い殻のない灰皿。
そして、部屋の隅にあるゴミ箱。
そこから、微かにあの「匂い」が漏れ出していた。
鋭利な、冬の匂い。
私は震える指でゴミ箱の中身をあさった。
ティッシュペーパーの下から出てきたのは、大量の空きシートだった。
「これ……」
強力な鎮痛剤。
それも、神経系の痛みを抑えるための劇薬。
シートの裏には、震えるような走り書きで、服用の時刻がメモされている。
間隔が短すぎる。通常の倍以上の量を飲んでいる証拠だ。
さらに、丸められた診断書の切れ端。
『局所性ジストニア』
『演奏活動の継続は困難』
『神経麻痺の進行』
「……そういうこと、なの」
すべての点と点が、残酷な線で結ばれる。
コンクール前の「最高のコンディション」という言葉。
あれは虚勢ですらなかった。
彼の指は、もう限界を迎えている。
ピアニストとしての死刑宣告。
それを隠して、彼は薬で感覚を麻痺させ、無理やり指を動かして舞台に立とうとしているのだ。
ライトを持つ手が震え、光が床を不規則に揺らす。
今すぐ彼のもとへ走り、「やめて」と叫ぶべきか。
それが「正しさ」だ。
友として、彼の体を守るべきだ。
でも、私の足は動かなかった。
あの透明な匂い。
あれは、誰かを騙すための悪臭ではない。
私や、ファンや、そして何より彼自身が愛した「音楽」を守るために突き立てた、氷の棘だ。
暴けば、砕ける。
彼のピアニストとしての最後の尊厳が。
彼が命を削って組み上げた、最期の祈りが。
遠くのステージから、ピアノの音が聞こえてきた。
激しく、けれど悲しいほど美しい旋律。
私は薬のシートをゴミ箱の底に戻した。
指先に残るガラスの冷たさを握りしめ、私は暗闇の中で立ち尽くした。
何も見なかったことにする。
それが、この嘘つきな鼻を持つ私にできる、唯一の償いだった。
第三章 沈黙の共鳴
コンクール当日。
二千人を収容する大ホールは、酸素が薄くなるほどの熱気に満ちていた。
私は舞台袖ではなく、客席の暗がりに身を沈めていた。
膝の上には、古いメトロノームを強く握りしめている。
針が折れ、もう動かなくなった私の相棒。
スポットライトが中央のスタインウェイを照らし出した。
静寂の中、藤沢悠が現れる。
その瞬間。
会場全体に、あの「匂い」が爆発的に広がった。
凛とした、氷の結晶のような香り。
何千人もの観客が息を呑む中、彼の全身から発せられる嘘の匂いは、もはや苦痛ではなかった。
それは彼が肉体の激痛と引き換えに精製した、純度百パーセントの覚悟の香りだ。
彼は静かに椅子に座り、鍵盤に手を置いた。
一音目。
空気が、物理的な質量を持って震えた。
(ああ……)
嘘だ。
軽やかに跳ねるトリルも、地響きのようなバスの響きも。
彼の指は悲鳴を上げ、神経は焼き切れそうになっているはずだ。
それなのに、音色は重力を無視して天へと駆け上がっていく。
『大丈夫だ』
『僕は弾ける』
『音楽は、死なない』
彼が音に込めた嘘が、光の粒子となって降り注ぐ。
隣の席の老婦人が、ハンカチを目に当てた。
「なんて……なんて生命力に溢れた音なの」
違う。
それは死の淵から掬い上げられた、最後の灯火だ。
でも、その「違い」を指摘することに、何の意味があるだろう?
私は初めて、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
肺が凍りつくほど痛い。
けれど、この痛みこそが、彼が世界に残そうとした「真実」なのだ。
真実だけが人を救うわけではない。
誰かを想う嘘は、時に真実よりも深く、魂を震わせる。
演奏がクライマックスを迎える。
ラフマニノフの重厚な和音が、ホールの壁を揺るがす。
彼の魂が、肉体という檻をこじ開けようとしていた。
轟音のようなフォルテシモ。
床を伝う振動が、私の足元から這い上がってくる。
その時。
私の手の中で、動かなくなっていたはずのメトロノームの針が、衝撃でカタリと落ちた。
重力と振動。
ただそれだけの物理現象。
けれど私には、それが彼のリズムと完全に重なったように思えた。
不完全な機械。不完全な人間。
壊れかけた二つの魂が、一瞬だけ共鳴する。
悠さんの指が、最後の和音を叩きつけた。
残響が、永遠のようにホールに留まる。
一瞬の静寂の後、割れんばかりの拍手喝采が世界を揺らした。
スタンディングオベーションの波。
悠さんは立ち上がり、客席に向かって深々と頭を下げた。
スポットライトの下、彼の顔は死人のように蒼白だったけれど、今まで見たどの笑顔よりも、穏やかで、誇らしげだった。
嘘の匂いは、もうしなかった。
すべてを燃やし尽くした灰の中に、ただ「音楽」という真実だけが輝いていた。
私は涙で滲む視界の先で、静かに彼に拍手を送った。
サヨナラは言わなかった。
彼の音楽が、私の中で鼓動し続けているのを感じていたから。
***
それから、悠さんがどうなったのか、正確なことは誰も知らない。
ただ、あの伝説のような演奏だけが、語り継がれている。
私は今、ピアノの前に座っている。
新しい生徒が、緊張した面持ちで私を見ている。
「先生、私、練習……あまりできませんでした」
少女は申し訳なさそうに言った。
嘘の匂いはしない。
ただ、未熟な誠実さがそこにあった。
私は微笑み、壊れたメトロノームをピアノの端に置いた。
それはもう動かない。
けれど、私には聞こえている。
あの日の硝子の破片が刻んだ、痛いほどに優しいリズムが。
「いいのよ。正直でいてくれて、ありがとう」
鍵盤に指を乗せる。
私の奏でる音は、以前とは違う。
清濁を併せ呑み、光も影も、真実も嘘も包み込む音。
私は深く息を吸い込んだ。
空気は、どこまでも澄んでいた。
「さあ、始めましょうか」