忘れられた君へのアリア
第一章 記憶の結晶
俺の身体は、他人の墓標だ。
人々が失った最も深く、切ない記憶の欠片が、俺の内に『記憶の結晶』として宿る。夜明けの霜のように胸元で淡く光るそれを指でなぞるたび、見知らぬ誰かの愛と喪失が、冷たい奔流となって心を苛んだ。
「また、増えたのか…カイ」
焚き火の向こうで、リアが心配そうに眉を寄せた。彼女の瞳には、この『忘却の病』に蝕まれてゆく世界への憂いが映っている。人々は大切な記憶を失い、やがては自らの存在さえも世界から掻き消されていく。俺は、その零れ落ちた記憶を拾い集める、ただそれだけの存在だ。
「ああ。今度は、初めて我が子を抱いた父親の記憶らしい」
俺は自嘲気味に笑った。結晶に触れると、腕の中に温かな重みを感じる。しかし、その感動は俺のものではない。そして、この結晶が大きくなるほどに、俺自身の輪郭が世界から薄れていく。今朝も、水面に映る自分の顔が、陽炎のように揺らいで見えた。
リアが俺の隣にそっと座る。彼女は、この病で家族の記憶を全て失った。だからこそ、記憶の価値を誰よりも知っている。彼女の視線が、俺の胸で涙の形に光る透明な石に注がれた。
「その『雫』…いつも思うが、なぜかとても悲しい形をしているな」
俺は答えられなかった。この雫だけは、いつからそこにあるのか、誰の記憶なのか分からない。ただ、触れると胸が張り裂けそうな痛みに襲われるのだ。優しい声、温かい手、そして、何かを永遠に失った、あの日の空の色。それは、他のどの結晶よりも鮮明で、まるで俺自身の記憶であるかのように、魂に刻み込まれていた。
第二章 忘却の旅路
俺たちは『記憶の樹』を目指していた。世界の全ての記憶が還るというその大樹こそが、この病を癒す鍵だと信じて。
道中、俺はいくつもの記憶を拾った。恋人に別れを告げた雨の日のバス停の匂い。戦地で友を看取った兵士の、土と血の味。そのたびに俺の指先は透け、リアが俺の名前を呼ぶ声が、一瞬だけ遠くなる。
「カイ、今、一瞬…消えかけたぞ」
彼女が俺の腕を強く掴む。その温もりが、かろうじて俺をこの世界に繋ぎとめていた。
「大丈夫だ」
嘘だった。大丈夫なわけがない。だが、彼女を不安にさせるわけにはいかなかった。
ある廃墟となった村を通りかかった時、俺の中のあの『断片的な記憶』が激しく疼いた。崩れた石垣、枯れた井戸、そして西の空に沈む夕陽。
「この場所…知っている気がする」
デジャヴ、と呼ぶにはあまりに生々しい感覚。ここで誰かと笑い、誰かと約束を交わしたような、そんな懐かしさと痛みが同時に胸を突いた。リアが不思議そうに俺を見つめている。彼女にさえ、俺が時折、遠い過去を見ているような瞳をすることに気づかれていた。
「なあ、リア。誰かを忘れるのと、誰かに忘れられるの、どっちが辛いと思う?」
唐突な俺の問いに、彼女は答えに窮し、ただ寂しそうに微笑むだけだった。
第三章 記憶の樹の下で
永い旅の果て、俺たちはついに『記憶の樹』に辿り着いた。しかし、その巨木は『忘却の影』に蝕まれ、かつての輝きを失い、枯れる寸前だった。世界から忘れ去られた魂たちの嘆きが、黒い霧となって幹にまとわりついている。
俺は、何かに導かれるように、震える手でその幹に触れた。
その瞬間――閃光が、俺の全てを貫いた。
体内の無数の結晶が一斉に共鳴し、記憶の濁流が脳内を駆け巡る。そして、あの『断片的な記憶』が、完全な姿を取り戻した。
優しい声。温かい手。大切なものを失った痛み。
そうだ。あれは、俺自身の記憶だった。
遥か昔、この世界が初めて『忘却の病』に襲われた時、俺は自らの存在を捧げることで、この樹を癒したのだ。愛する者たち――その中には、今よりもずっと幼い面影のリアがいた――に別れを告げ、忘れられることを選んだ。それが、世界を救う唯一の方法だったから。
だが、俺一人の力では足りなかった。俺の存在は世界から消え、不完全な救済の代償として、再びこの地に生まれ落ち、人々が零す記憶の欠片を集め続けるという、終わらない宿命を背負ったのだ。
「そんな…嘘だ…」
隣で、リアが嗚咽を漏らしていた。樹に触れた俺を通して、彼女にも真実が流れ込んだのだ。
「嫌だ! やっと、やっとお前を見つけられたのに! またいなくなるなんて、絶対に嫌だ!」
リアが俺に縋りつき、子供のように泣き叫ぶ。その涙が、俺の心を締め付けた。
「俺を忘れたくないと、そう言ってくれるのか」
俺は震える声で尋ねた。
「当たり前だ! 忘れるものか!」
「…ありがとう、リア」
俺は微笑んだ。心からの、最後の微笑みだった。
「君がそう言ってくれたから。君が覚えていてくれたから。俺はもう一度、この世界を救う意味を見つけられた。今度こそ、完全に」
第四章 最後の雫
俺はリアをそっと引き離し、再び樹に向き直った。
「愛している、リア。君がいた、この世界全てを」
俺の身体が金色の光の粒子となって、舞い上がり始める。存在そのものが解けて、弱りきった『記憶の樹』へと注がれていく。おびただしい数の記憶の結晶が、流星群のように樹に還り、黒い『忘却の影』を浄化していく。
「カイ!」
リアの悲痛な叫びが遠くなる。彼女の記憶から、俺の名前が、姿が、共に旅した日々の全てが、砂の城のように崩れていくのが分かった。
それでいい。それが、俺の選んだ結末だ。
世界は、救われた。『記憶の樹』は眩いほどの『魂の輝き』を取り戻し、その光は地上に降り注ぎ、『忘却の病』に苦しむ全ての人々を癒した。
平穏を取り戻した世界で、リアは一人、樹の下に立ち尽くしていた。
なぜここにいるのか、思い出せない。ただ、胸にぽっかりと穴が空いたような、耐え難い喪失感が込み上げてくる。
頬を、一筋の涙が伝った。
「誰…? どうして、こんなに…胸が痛いの…?」
その時、彼女は自分の手のひらに、小さな光が握られていることに気づいた。
それは、涙の形をした、透明な美しい石。
それに触れた瞬間、言葉にならない温かい感情が、心の奥底から溢れ出した。誰かを深く愛した喜びと、その誰かに愛された幸福、そして、忘れ去られることの、魂が引き裂かれるような痛み。
リアは空を見上げた。どこまでも青く澄み渡った空。
世界はこんなにも美しいのに、なぜだろう。その美しささえも、今はひどく、切なかった。