追憶の砂と忘却の空
第一章 錆びた心音
カイの指先が、羊皮紙の乾いた感触をなぞる。瞬間、世界が反転した。鬨(とき)の声が鼓膜を突き破り、鉄と血の匂いが肺を満たす。眼前に広がるのは、勝利に沸く兵士たちの歓喜の渦。兜(かぶと)の隙間から見える空は、故郷のそれよりもずっと青く、高く澄み渡っていた。これは彼の記憶ではない。五百年前に生きた、名もなき騎士の生涯で最も輝かしい一瞬。その感情が、濁流のようにカイの魂を洗い流していく。
「――っ、ぁ」
息を吸うと、そこは埃っぽい書庫の匂いがした。現実への帰還は、いつも眩暈(めまい)と引き換えに、カイ自身の何かを削り取っていく。今、失われたのは何だ? 幼い頃に見た祭りの夜の記憶か、あるいは昨日食べたスープの味か。歴史に触れ、その真実を知れば知るほど、カイ・アステルという人間の輪郭は曖昧に溶けていく。彼は、他人の記憶で自分を埋める、空っぽの器だった。
書庫の片隅、月光を浴びて静かに佇む古びた真鍮の砂時計。サラサラと、聞こえないはずの音が彼の意識に響く。落ちていく砂粒は、世界から忘れ去られ、消滅した歴史たちの感情の結晶。カイは知っている。空の色彩が一瞬だけ褪せ、世界の肌理(きめ)が僅かに変わる瞬間を。また一つ、誰にも知られることなく、過去が『無かったこと』になったのだ。
その時だった。胸の奥深く、抉るような痛みが走る。それは、これまで追体験してきた誰の感情とも違う、根源的な痛み。狂おしいほどの『怒り』と、息もできないほどの深い『悲しみ』。これは借り物ではない。まるで、この心臓が脈打ち始めた時からずっとそこにあったかのような、紛れもない彼自身の感情だった。カイは喘ぎながら胸を押さえる。一体、俺は誰に怒り、何を悲しんでいるんだ? その答えだけが、彼の失われていく記憶の中で、決して消えることのない痣(あざ)のようにこびりついていた。
第二章 零れ落ちる世界
砂時計の砂が落ちる速度が、明らかに速まっていた。世界の忘却は加速している。このままでは、全てが感情を失った、色のない歴史の標本になってしまう。カイを突き動かしたのは、使命感ではなかった。ただ、心の奥底で燃え続ける怒りと悲しみの正体を知りたいという、渇望にも似た焦燥だった。
彼は書庫の地下、禁じられた領域へと足を踏み入れた。空気が淀み、黴(かび)と忘却の匂いが鼻を突く。目指すは、この世界で最も古いとされる『名もなき王の石碑』。そこに触れれば、何か分かるかもしれない。自分の存在理由が、この痛みと繋がっているという予感があった。
冷たい石に指が触れた瞬間――世界が砕け散った。
「ぐ、ぁあああああっ!」
それは、個人の感情ではなかった。何百万、何千万という魂の絶叫。愛する者を失った悲嘆、理不尽に命を奪われた怒り、未来を奪われた絶望。断片的なビジョンが、彼の精神を焼き切る勢いで流れ込む。
――美しかった世界が、蒼い炎に包まれ崩壊していく。
――人々が天を仰ぎ、何かを必死に『忘れよう』と祈っている。
――涙に濡れた一人の女性が、幼い子供の手を握りしめ、何かを託している。「忘れないで。いいえ、忘れて。どうか、あなたが生きる未来のために」
その声は、彼の魂に直接刻み込まれた。追体験の代償は大きかった。自分の両親の顔が思い出せない。自分の故郷の景色が分からない。だが、不思議なことに、あの怒りと悲しみは、嵐の後の灯台のように、より一層強く、鮮明に輝きを増していた。カイは悟り始めていた。自分は歴史を『読んでいる』のではない。失われたはずの何かを、必死に『思い出そう』としているのだと。
第三章 追憶の継承者
真実は、絶望そのものの形をしていた。
かつてこの世界は、人の強い感情が歴史に干渉し、過去を歪めてしまうという、不安定な法則の上に成り立っていた。愛憎が戦争を生み、悲しみが災害を呼んだ。世界を救うため、古の人々は禁断の魔術を行使した。――『歴史を忘れる力』。すなわち、人々から忘れられた歴史を、その感情ごと世界から完全に消滅させるという、今の世界の法則そのものを生み出したのだ。
その代償は、法則を生み出す原因となった『最初の悲劇』の歴史を、世界から完全に切り離すこと。その悲劇の記憶と感情のすべてを、たった一つの『器』に封じ込めることだった。
それが、カイだった。
彼がカイ・アステルとして生きてきた記憶こそが、後から作られた偽りの物語。彼の内に渦巻く怒りと悲しみこそが、世界を救うために犠牲となった、忘れられた全ての人々の魂の残響。
カイが真実を完全に覚醒させた瞬間、世界が悲鳴を上げた。空に巨大な亀裂が走り、街が、森が、海が、次々と色を失い消えていく。世界の法則が、自らの起源を思い出したことで暴走を始めたのだ。足元の砂時計は、滝のように砂を落とし、世界の終焉を告げていた。
もはや選択肢はなかった。世界と共に消えるか、あるいは。
カイは震える手で、砂時計を掴んだ。砂の中に、一つだけ。他のどの粒とも違う、淡い青白い光を放つ砂があった。
――それは、彼が『器』になる前の、人間だった頃の、たった一つの記憶の欠片。
愛した女性と交わした、ささやかな約束。
「もし世界が新しくなっても、君のことだけは、絶対に忘れない」
「…ああ、そうか」
カイの口から、乾いた笑みが零れた。
「忘れたくなかったのは、俺の方だったのか」
彼は穏やかに微笑むと、自らの胸に強く手を当てた。そして、忘れられた全ての人々の魂に語りかけるように、祈りを紡ぐ。
「今度は、俺がお前たちになる。この怒りも、悲しみも、全て引き受けよう」
カイの身体が眩い光の粒子となり、風に溶けていく。その光は砕け散った砂時計に吸い込まれるように集まり、そして、世界を包む巨大な光の奔流となった。暴走していた法則は鎮まり、消えかけていた世界は、まるで生まれたての赤子のように、静かで穏やかな色彩を取り戻していく。
新たな世界。歴史が理不尽に消えることのない、優しい世界。
街角の片隅で、一人の少女が道端に咲く名もなき花を見つけた。雨上がりの雫を弾き、淡い青白い光を放っているように見える。なぜだか分からないけれど、その花を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
少女はそっと花に触れ、はにかむように微笑んだ。
世界は、カイという青年がいたことを覚えていない。
だが、彼が命を賭して守りたかった、たった一つの温かい想いは、花の色として、少女の微笑みとして、この世界に確かに息づいていた。