墨痕に眠る祈り

墨痕に眠る祈り

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第一章 血のインクと静かな嘘

古書の匂いが好きだった。乾いた和紙の香り、墨の幽かな芳香、そして幾星霜を越えてきた時間の重み。僕、水上伊織(みなかみ いおり)の仕事場は、そんな古の香りだけで満たされていた。僕は古文書修復家。歴史という巨大な織物の、解れた糸を一本一本、丁寧につなぎ直すのが生業だ。

僕には、ささやかな秘密があった。幼い頃から、古文書に触れると、そこに込められた「嘘」が分かるのだ。それは超能力などという大袈裟なものではない。記述に偽りがある箇所だけ、インクが僅かに滲んで見えたり、紙の質感がそこだけ氷のように冷たく感じられたりする、ごく微かな物理的な違和感として現れる。僕はこの感覚を「静かな嘘」と呼んでいた。この天賦の才のおかげで、僕は歴史の純粋な真実を後世に伝えるという仕事に、一種の聖なる使命感さえ抱いていた。

その日、僕の工房の引き戸を鳴らしたのは、国立歴史博物館の学芸員、三田村氏だった。彼が桐の箱から恭しく取り出したのは、戦国時代のものとされる一巻の巻物。一見して、その壮絶さが伝わってきた。和紙は茶褐色に変色し、所々に血痕と思われる黒ずんだ染みがこびりついている。

「水上君、君にしか頼めない。これは、これまで存在が知られていなかった武将、有馬宗影(ありま むねかげ)の遺書と見られている。もし本物なら、歴史を塗り替える大発見だ」

有馬宗影。その名は、どの文献にもほとんど登場しない。地方の小競り合いで主君を裏切り、一族を滅亡に追いやった卑劣な男として、僅かに脚注で触れられる程度の存在だ。

僕は息を呑み、白い手袋をはめた指先で、そっと巻物に触れた。

その瞬間、全身に鳥肌が立った。

違う。いつもの「静かな嘘」とはまるで違う。インクの滲みや紙の冷たさといった局所的な反応ではない。巻物全体が、まるで巨大な嘘の塊であるかのように、僕の手の中で重く、冷たく、脈打っているのだ。それはまるで、生きた偽物が「私に触れるな」と拒絶しているかのようだった。

歴史を塗り替える大発見? とんでもない。これは、僕がこれまで対峙した中で最も深く、最も邪悪な偽書だ。僕は、この偽りの歴史を暴くという新たな使命に、打ち震えるほどの興奮を覚えていた。

第二章 抹消された英雄の影

修復作業は困難を極めた。血と泥に汚れた和紙は脆く、少しの油断が数百年分の歴史を塵に帰してしまう。僕は、ピンセットの先で慎重に汚れを取り除きながら、有馬宗影という男の正体を探るべく、恩師である高遠教授のもとを訪ねた。

「ほう、有馬宗影か。懐かしい名だ」

研究室の書架に埋もれるように座っていた教授は、僕の話を聞くと、皺の刻まれた顔に興味深そうな表情を浮かべた。

「君の言う通り、表向きの歴史では彼は裏切り者だ。だが、郷土史家の間では、別の説が囁かれていてね。彼の主君は稀代の暴君で、領民は疲弊しきっていた。宗影の裏切りとされた行為は、実は領民を救うための苦渋の決断だったのではないか、と。しかし、勝者によって歴史は書かれる。宗影は汚名を着せられ、彼の功績はすべて抹消されたのかもしれん」

教授の言葉は、僕の直感を裏付けていた。この遺書は、宗影を貶めるために勝者側が捏造したプロパガンダなのだ。そう考えれば、巻物全体から放たれる強烈な違和感にも説明がつく。

「許せない…」僕は思わず呟いた。

「真実は、人の数だけ存在するのかもしれんよ、伊織君。君が信じる『絶対の真実』というものは、案外、脆いものかもしれん」

教授の忠告は、その時の僕には届かなかった。僕にとって真実は一つ。曇りのない、純粋な結晶のようなもの。それを守ることこそが、僕の存在意義だった。

修復作業は進み、墨で書かれた文字が少しずつ姿を現し始めた。そこには、自己の卑劣さを嘆き、裏切りの罪を告白する、惨めな男の独白が綴られていた。文字の一画一画が、僕の指先には耐え難いほどの「嘘」となって突き刺さる。僕は、この偽りの言葉の向こう側にある、抹消された英雄の魂に思いを馳せた。必ず、僕があなたの無念を晴らしてみせる。僕は心の中で、まだ見ぬ武将にそう誓っていた。

第三章 祈りのための偽書

転機は、巻物の染みを分析した時に訪れた。血痕だと思っていた黒ずみは、確かに血液だった。だが、それと共に検出されたのは、墨と、そして数種類の薬草の成分だった。特に、幻覚作用と鎮静作用を持つとされる、古代のある地方でのみ自生していた特殊な植物の痕跡が見つかったのだ。

「奇妙な配合だ…」

僕は分析結果を片手に、深夜の研究室で文献を漁った。そして、ついに一つの記述に行き着く。

『古の民、耐え難き記憶に苛まれし時、己が血と鎮魂の草を混ぜたる墨にて偽りの身の上を記し、これを真実と成す儀式あり。魂の苦しみを和らげるための、悲しき呪術なり』

――偽りの身の上を記し、これを真実と成す。

その一文が、雷のように僕の脳を打ち抜いた。まさか。まさか、そんなことが。

僕は震える手で工房に戻り、修復台の上の遺書に再び触れた。違和感は変わらない。だが、その「嘘」の質が、まるで違って感じられた。これは、他者を欺くための悪意ある嘘ではない。これは…これは、自分自身を欺くための、悲痛な嘘なのだ。

その瞬間、僕の能力が暴走したかのように、脳裏に鮮烈なビジョンが流れ込んできた。

燃え盛る城。女子供の悲鳴。血の匂いと、肉の焼ける異臭。そして、その地獄の中心で、刀を握りしめたまま呆然と立ち尽くす一人の武将の姿。有馬宗影。

彼は、暴君を討ち、領民を救った。それは事実だった。しかし、そのためにあまりにも多くの犠牲が出た。彼が救おうとした者たちさえ、彼の目の前で無惨に死んでいった。彼は英雄などではなかった。ただの、夥しい死の上に立つ、無力な生存者に過ぎなかった。

その耐え難い真実が、彼の心を少しずつ蝕んでいったのだ。毎夜悪夢にうなされ、幻聴に苦しむ。英雄と讃えられる声が、死者の怨嗟に聞こえる。

彼は、その地獄から逃れたかった。

だから、書いたのだ。この遺書を。

自分が民を救った英雄である、という耐え難い真実を封じ込めるために。自分がただの卑劣な裏切り者であったという「優しい嘘」を自らに信じ込ませるために。これは、歴史を偽るための偽書などではなかった。壊れかけた魂が、安寧を求めて捧げた、血と涙の「祈り」そのものだったのだ。

第四章 真実の重さと沈黙の選択

僕は、修復を終えた巻物を前に、何時間も動けずにいた。これまで僕が信じてきたものすべてが、足元から崩れ去っていくような感覚。真実こそが正義であり、嘘は悪だ。その単純な二元論が、有馬宗影の絶望的な祈りの前では、あまりにも無力で、傲慢に思えた。

真実を公表すればどうなる?

有馬宗影は、歴史の表舞台で英雄として再評価されるだろう。僕の名も、世紀の発見をした修復家として歴史に刻まれるかもしれない。だが、それは本当に、彼の魂が望んだことなのだろうか。彼は、英雄と呼ばれることから逃れるために、自らを貶める物語を紡いだのだ。僕が真実を暴くことは、彼の四百年にわたる静かな眠りを妨げ、再び地獄の記憶へと引きずり戻す行為に他ならないのではないか。

人を救うための嘘は、人を傷つける真実よりも、価値があるのではないか。

僕の指先が、巻物の滑らかな表紙をなぞる。もはや、あの氷のような冷たさは感じなかった。代わりに、人の肌のような微かな温もりと、深い悲しみの残響だけが、静かに伝わってくる。

数日後、僕は博物館に修復報告書を提出した。そこには、素材や技法に関する詳細な分析結果だけが淡々と記されていた。僕が突き止めた「真実」については、一文字も書かなかった。ただ、報告書の最後の締めくくりに、僕はこう書き加えた。

『この古文書は、特定の歴史的事実を証明する史料として扱うべきではない。これは、名もなき一人の人間が、その魂の安寧を求めて流した、血の涙の結晶である』

三田村氏は不満そうな顔をしたが、僕の結論を覆すことはできなかった。結局、有馬宗影の遺書は「真贋不明の奇書」として、博物館の薄暗い収蔵庫の片隅で、再び深い眠りにつくことになった。

僕の工房の窓から、夕日が差し込んでいる。それはまるで、あの巻物に染み付いた血の色のように赤く、そしてすべてを赦すかのように穏やかな光だった。僕は、歴史の真実を追い求めることをやめたわけではない。ただ、これからは、その行間に記された声なき声、墨痕に眠る人々の祈りにも、耳を澄ませていこうと決めたのだ。それが、僕なりの、歴史に対する誠意だった。

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