第一章 聞こえざる産声
俺、水瀬 響(みなせ ひびき)には、生まれつき奇妙な才能があった。歴史の音を聞くことができるのだ。それは、特定の場所や物に宿る、過去の出来事の音の残響。人の声、馬の蹄、剣の交わる音。俺はそれらを「聴取」することで生計を立てる、歴史聴取師という風変わりな仕事をしている。
この能力には、絶対的な制約があった。同じ音は、一度しか聞けない。それは再生不可能な、一回性の演奏会のようなものだ。録音もできず、俺の記憶だけが唯一の記録媒体となる。だから俺は、聴いた音を必死で五線譜に書き起こしてきた。人の声の抑揚、扉の軋む不協和音、雨音の旋律。それは不完全な模倣に過ぎないと分かっていながらも、消えゆく音を繋ぎとめるための、孤独な抵抗だった。
その日、俺が訪れたのは、山深く打ち捨てられた城跡だった。霧雨に濡れた石垣が、巨大な獣の骸のように静かに横たわっている。公式の記録によれば、この「月守城(つきもりじょう)」は、五百年前に城主に跡継ぎがなく、血筋が途絶えたことで廃城となった、とされている。悲劇もドラマもない、静かな歴史の終焉。依頼は、町の郷土資料館からのもので、観光資源にするための何か面白いエピソードはないか、という安直なものだった。
苔むした礎石にそっと耳を当てる。冷たい石の感触が、じわりと肌に染みた。目を閉じ、意識を集中させる。いつものように、風の音や木の葉の擦れる現実の音が遠ざかり、代わりに時間の深淵から、か細い糸をたぐるように過去の音が立ち上ってくる。
――宴の喧騒。武具の擦れる音。厳格な男の声。
ありふれた城の日常音だ。大きな発見はなさそうだと諦めかけた、その瞬間だった。
不意に、全ての音が止んだ。真空のような静寂の後、鼓膜を震わせたのは、想像だにしなかった音だった。
「おぎゃあ、おぎゃあ……」
か細く、しかし生命力に満ちた、赤子の産声。
それは間違いなく、この城の本丸、今はただの広場となっている場所から聞こえてくる。跡継ぎがおらずに滅びたはずの城に響く、新しい生命の叫び。歴史の記述と、俺が今聴いた生々しい音との間にある、決定的な矛盾。
背筋をぞくりとしたものが駆け上った。これはただの記録ではない。歴史がひた隠しにしてきた、声なき声だ。一度しか聞けないはずのその産声は、俺の記憶に焼き付いて、何度も何度も反響した。俺の探求心に、静かに火が灯った瞬間だった。
第二章 櫛に残る囁き
月守城の産声の謎に取り憑かれた俺は、依頼の範疇を大きく逸脱し、独自の調査にのめり込んでいった。町の図書館の薄暗い書庫に籠もり、埃っぽい古文書の山と格闘する日々が続いた。しかし、どの文献にも、城主・時定(ときさだ)に子供がいたという記述は見つからない。ただ、妻である「楓(かえで)の方」が病弱であったこと、そして一度だけ懐妊の兆しがあったが、すぐに流産したという短い記述があるだけだった。
「流産、か……」
あの力強い産声は、とてもではないが、生まれなかった子の幻聴とは思えない。俺は文献調査に見切りをつけ、城主一族の末裔とされる旧家を訪ねることにした。手掛かりを求めて、何代も前に分家したという遠縁の家まで足を運んだ。
主である老人は、俺の突飛な話を胡散臭そうに聞いていたが、俺が「楓の方」の名前を口にすると、わずかに表情を変えた。
「楓様、ですか。うちには、あの方が使っておられたとされる櫛が、一つだけ伝わっておりますが」
老人が奥から持ってきたのは、使い込まれて艶の出た、黄楊(つげ)の櫛だった。質素だが、細やかな花の彫刻が施されている。楓の方が嫁ぐ際に、実家から持ってきたものだという。
「これに、何か音が?」
俺は唾を飲み込んだ。物に宿る音は、持ち主の想いが強ければ強いほど、鮮明に残る。特に、肌に触れ続けたものには、持ち主の息遣いや、秘めた独り言さえも刻まれていることがある。
「貸していただけませんか。必ず、丁重にお返しします」
俺の真剣な眼差しに何かを感じたのか、老人は静かに頷いた。
自室に戻り、俺は机の上にそっと櫛を置いた。窓から差し込む月光が、櫛の滑らかな表面を照らし出す。呼吸を整え、震える指先で、ゆっくりと櫛に触れた。そして、耳を近づける。
目を閉じると、意識が再び時を遡る。
聞こえてきたのは、髪を梳く、さらさらという心地よい音。そして、若い女性の穏やかなハミング。それは、幸せに満ちた、優しい旋律だった。彼女が楓の方なのだろう。彼女は確かに幸せだったのだ。
しかし、俺が求めているのはこの音ではない。産声の前後、彼女に何があったのか。
俺はさらに意識を深く沈めた。櫛に込められた、もっと奥深くの記憶へ――。
すると、ハミングが途切れ、微かな囁き声が聞こえてきた。
「この子だけは……私が、必ず……」
それは、決意と、そして不安が入り混じった声だった。やはり、子供はいたのだ。
俺は息を詰めて、次に来る音を待った。赤子の声か、あるいは夫である時定の声か。だが、櫛から聞こえてきたのは、それ以上のものではなかった。まるで、最も重要な部分が削り取られたかのように、音はそこで途絶えていた。
何かが足りない。決定的なピースが。
それでも、俺は確信を深めていた。歴史の裏側には、一人の母親が子を守ろうとした、知られざる物語が眠っている。俺は、その物語の語り部にならなければならない。そう強く感じていた。
第三章 時を超えた残響
最後の望みをかけて、俺は再び月守城跡に戻った。産声を聞いた本丸跡。もし、楓の方が子供を産んだのがこの場所ならば、彼女の想いが最も強く残っているのは、この土地そのものであるはずだ。
俺は冷たい地面に両手をつき、額を押し付けた。土の匂いと、湿った草の感触。全ての意識を、この一点に集中させる。櫛の音では届かなかった、さらに深い時間の層へ。楓の方の、あの囁きの先へ――。
――時が、溶ける。
聴覚が、過去へと引きずり込まれていく。
まず聞こえてきたのは、荒い息遣い。楓の方の苦しそうな呼吸だ。そして、それを励ます老婆の声。産婆だろう。やがて、あの産声が響き渡る。あの日、俺が聴いた、力強い生命の叫び。
「姫様でございます……おめでとうございます」
産婆の喜びの声。しかし、楓の方の声は、喜びに満ちてはいなかった。
「……ああ……私の、子……。この城では、育てられぬ……」
悲痛な囁きだった。時定の正室ではない、別の女性の子を跡継ぎに据えようとする家中の陰謀。病弱な楓の方が産んだ子は、その存在自体が争いの火種になる。彼女はそれを悟っていたのだ。
「お願い……この子を遠くへ……。この子が、ただ、幸せに生きられる場所へ……」
それは、母が子を想う、切実な祈りだった。彼女は我が子を手放すことで、その命を守ろうとしたのだ。これが、歴史から赤子が消された真相だった。
俺は、彼女の悲しみに胸が締め付けられながらも、聴取者としての役割を忘れず、音の細部まで記憶に刻み込もうとした。
その時だった。
ゴオオオオオオオオッ―――
突如、全く異質な、低く重い轟音が、過去の音に割り込んできた。それは重機の駆動音。ブルドーザーが土を削り、コンクリートを流し込む音。そして、現代の作業員たちの怒鳴り声。
「なんだ、この音は……?」
混乱する俺の耳に、さらに鮮明なアナウンスが響いた。
『月守ダム建設工事は、予定通り進行しています。周辺住民の皆様は、立ち入り禁止区域に近づかないよう、ご注意ください』
未来の音だ。
そんな馬鹿なことがあるか。俺の能力は、過去の残響を聞くもののはずだ。
しかし、その音は紛れもなく、これからこの場所に起こる出来事の音だった。この城跡は、数年後に建設されるダムの底に沈む運命にあるのだ。
楓の方の「この子が幸せに生きられる場所へ」という祈りの声と、全てを水底に沈めるダムの建設音が、俺の頭の中で不気味に重なり合う。
俺は、とてつもない事実に気づいてしまった。
歴史の音は、過去に閉じたものではない。楓の方の、我が子の未来を案じる強烈な祈り、その想念が時空を歪め、これから起こる未来の破壊音をも、この場所に引き寄せていたのだ。俺が聞いていたのは、単なる過去の記録ではなかった。それは、未来へ向けて放たれた、悲痛な警告の音だったのだ。
俺は地面から顔を上げた。全身が冷たい汗で濡れていた。
歴史の真実を明らかにすること。それが俺の使命だと思っていた。だが、今、俺の目の前には二つの現実が突きつけられている。歴史から消された一人の赤子の物語と、その物語が眠る土地そのものが、未来永劫消え去ろうとしている事実。
俺は、ただの傍観者でいていいのだろうか。俺の価値観が、足元から崩れ落ちる音がした。
第四章 音を紡ぐ者
数日間、俺は自分の部屋に閉じこもった。楓の方の祈りと、ダムの轟音が、頭の中で鳴り止まない。真実を公表すべきか。月守城に隠された世継ぎがいた、という事実は、歴史の定説を覆すスクープになるだろう。だが、それは人々の好奇の目に晒され、スキャンダラスに消費されるだけではないのか。母親の切なる祈りは、ゴシップの海に沈んでしまうかもしれない。そして何より、ダムの建設計画という巨大な現実の前では、五百年前の真実など、あまりに無力だった。
俺は、机の上の五線譜に目をやった。いつもなら、聴いた音を必死で書き写しているはずだった。だが、今回は一本の線も書けずにいた。楓の方の祈りを、どうすれば音符で表現できる? 未来の破壊音と重なったあの悲痛な響きを、どうすれば譜面にできる?
不可能だ。
そう悟った時、ふと、全く違う考えが浮かんだ。
音をそのまま写すのではなく、音に込められた想いを、別の形で伝えればいいのではないか。
俺はペンを取った。五線譜ではなく、真っ白な原稿用紙に向かう。
そして、書き始めた。歴史の論文でも、暴露記事でもない。一人の母親の物語を。
病弱な城主の妻が、家中の陰謀から我が子を守るため、その存在を歴史から消し、名もなき村人の子として遠い里へ逃がす物語。それは、史実と俺が聴いた音を元に、俺自身の解釈で紡いだ、名もなき母と子のための鎮魂歌(レクイエム)だった。俺は、聴取師として聞いた音の全てを、言葉に変換していった。産声の力強さ、母親の囁きの切なさ、そして、彼女の祈りが時を超えて未来にまで届こうとしていることを。
書き上げた物語を、俺は匿名で町の郷土資料館に送った。ちょうどそこでは、ダム建設の是非を問う住民討論会と、町の歴史を振り返る小さな展示会が開かれていた。
数週間後、俺は再び月守城跡を訪れた。
ダムの建設計画がどうなったかは、まだ分からない。俺の書いた物語が、人々の心をどれだけ動かせたのかも。結果は重要ではなかったのかもしれない。
俺は、ただ、楓の方に報告がしたかったのだ。あなたの祈りは、確かに届きましたよ、と。
礎石にそっと耳を当てる。
もう、あの産声は聞こえなかった。一度きりの演奏会は、終わってしまったのだ。
だが、それでいい、と俺は思った。
俺はもう、過去の音をただ聞くだけの傍観者ではない。消えゆく音に込められた想いを受け取り、それを未来へと繋ぐ語り部になったのだ。一度しか聞けない音の儚さも、今は愛おしく感じられた。
顔を上げると、風が吹き抜けていった。その風の音の中に、ふと、遠い昔の母親が口ずさんだ優しいハミングと、まだ見ぬ未来の子供たちがこの場所で遊ぶ、甲高い笑い声が、混じり合って聞こえたような気がした。
歴史とは、過去の出来事を記した、動かない石碑などではない。それは、過去から未来へと絶え間なく流れ続ける、無数の音の川なのだ。俺は、その流れのほとりに立ち、これからも耳を澄まし続けるだろう。聞こえざる声に、その声が紡ぐ物語に。