色彩のない鎮魂歌(レクイエム)

色彩のない鎮魂歌(レクイエム)

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第一章 色なき世界と谺する謎

時枝響(ときえだ ひびき)の世界から、色が消えて久しい。正確に言えば、他人の感情の色は今も見える。嘘をつく者の舌先から立ち上る濁った黄土色、恋する乙女の頬を染める淡い桜色、怒りに燃える男の全身を覆う燃え盛るような深紅色。だが、時枝自身の内面を映すはずの色彩だけが、まるで古いモノクロ映画のように、音も気配もなく消え失せていた。喜びも、怒りも、悲しみも、すべてが均質な灰色の濃淡に過ぎなかった。

その日、時枝が呼び出されたのは、海沿いに建つ近代美術館だった。降りしきる雨が、巨大なガラス張りの建物を鈍色のヴェールで包み込んでいる。元刑事である彼に、旧知の五十嵐警部が個人的に依頼してきたのは、常識では測れない、奇妙な「事件」だった。

「見てくれ、時枝君。昨夜、この美術館で奇妙なことが起きた」

案内されたのは、企画展『永遠の青』のメインホール。中央には、頑丈な強化ガラスでできたショーケースが鎮座している。中には、世界中から集められた「青」をテーマにした宝石や工芸品が並んでいたが、その中心にあるべきものが、忽然と姿を消していた。

「消えたのは、遺伝子操作によって生み出された『奇跡の青い薔薇』。一輪挿しに生けられていたんだが、薔薇だけが消えた。水も、花瓶も、そのままに」

五十嵐警部の声には、困惑の色が滲んでいた。時枝の目には、その困惑が警部の肩のあたりで、落ち着きのない茶色の靄となって揺らめいているのが見えた。

「警備システムは? 監視カメラの映像は?」

「それがおかしいんだ。システムに侵入された形跡はない。昨夜8時の閉館から今朝9時の開館まで、赤外線センサーも作動していない。完全な密室だ。まるで、薔薇が自らの意思で蒸発したかのように」

時枝はガラスケースに近づいた。指紋一つない滑らかな表面。中に残されたクリスタルの花瓶には、透明な水が満たされ、静かに佇んでいる。まるで、最初からそこに花などなかったかのように、完璧な静寂が支配していた。

彼は目を閉じ、意識を集中させた。この共感覚は、時として論理を超えた真実の糸口を掴むことがある。関係者――館長、学芸員、警備員――が、ホールの隅で不安げに身を寄せ合っている。時枝が彼らに視線を向けると、それぞれの感情が色とりどりのオーラとなって立ち上った。不安の灰色、恐怖の濃紺、苛立ちのくすんだオレンジ。だが、犯人特有の、罪悪感を隠すための粘ついた黒や、嘘で塗り固められた歪んだ赤色は、どこにも見当たらなかった。全員が、この不可解な現象の純粋な被害者であり、目撃者だった。

「時枝君、何か感じるか?」

「いえ…何も。ここにいる誰もが、真実を知らないようです」

彼の言葉に、五十嵐は深くため息をついた。雨音だけが、天井の高いホールに虚しく響き渡る。時枝はもう一度、空になった花瓶に目をやった。彼のモノクロームの世界では、その「青い薔薇」がどれほど鮮やかだったのか、想像することしかできない。しかし、なぜだろう。その存在しないはずの青が、心の奥底にある、錆びついた記憶の扉を、軋ませながらゆっくりとこじ開けようとしているような、奇妙な感覚に襲われていた。

第二章 モノクロの追憶

捜査は行き詰まりを見せていた。物理的な証拠は何一つなく、関係者のアリバイも完璧だった。時枝は美術館に残り、一人で現場を再調査することにした。雨は依然として窓ガラスを叩き続け、灰色の光がホールに差し込んでいる。

彼は五感を研ぎ澄ませた。視覚情報が限定的ならば、他の感覚で補うしかない。ショーケースの周りをゆっくりと歩きながら、微かな空気の流れ、床のタイルの冷たさ、そして残された香りに意識を集中させる。その時だった。鼻腔をくすぐる、ほとんど消えかかった甘い香り。薔薇の香りではない。もっと儚く、どこか懐かしい、雨に濡れた土と若葉が混じり合ったような匂い。

その香りを辿っていくと、ショーケースから数メートル離れた床に、微細な土の粒子が落ちているのを見つけた。鑑識が見逃すほど、ほんの僅かな痕跡。彼は慎重にそれを指先で拾い上げ、匂いを嗅いだ。間違いない。これは、美術館の屋上庭園で使われている特殊な培養土の香りだ。

なぜ、こんな場所に? 犯人は屋上庭園を経由したのか? しかし、屋上からこのホールに侵入する経路など存在しない。謎が深まるばかりかと思われたその瞬間、時枝の頭を鋭い痛みが貫いた。

――雨。サイレンの音。少女の甲高い悲鳴。

――『お願い、助けて!』

――びしょ濡れのコンクリート。転がった、青い薔薇の髪飾り。

激しいフラッシュバックに、時枝は思わず膝をついた。それは、彼が刑事時代に関わり、そして、彼の世界から色を奪った、あの事件の記憶だった。人質立てこもり事件。犯人を説得しようとした僅かな隙に、幼い少女が命を落とした。彼が最後に見たのは、アスファルトに滲む血の赤と、その傍らで雨に打たれる、小さな青い薔薇の髪飾りだった。その日を境に、彼の感情は色を失った。激しい後悔と罪悪感が、彼の心を灰色に塗りつぶしてしまったのだ。

「…なぜ、今になって…」

時枝は乱れる呼吸を整えながら立ち上がった。今回の事件と、あの忌まわしい過去が、一本の線で結びつこうとしている。偶然とは思えなかった。これは、誰かが意図的に仕組んだ罠なのかもしれない。

五十嵐警部に連絡を取り、屋上庭園の監視カメラの映像を確認してもらうことにした。しばらくして、警部から緊張した声で電話がかかってきた。

「時枝君…信じられないものが映っていた。昨夜の深夜2時、豪雨の中、一人の男が屋上庭園に現れ、何かを植えている」

「誰です?」

時枝の問いに、五十嵐は一瞬ためらい、そして絞り出すように言った。

「…服装も、背格好も、歩き方まで…君に、瓜二つなんだ」

電話の向こうで、五十嵐が困惑の茶色を濃くしているのが見えるようだった。だが、時枝の心は、奇妙なほど静かだった。灰色の世界には、驚きという感情すら存在しない。ただ、パズルの最後のピースが、ゆっくりと自分の手元に引き寄せられていくような、冷たい予感だけが胸に広がっていた。

第三章 青の鎮魂歌(レクイエム)

自宅に戻った時枝は、鍵のかかっていない書斎の机の引き出しを開けた。そこには、あるはずのない一冊のノートが置かれていた。震える手でそれを開くと、そこに記されていたのは、彼自身の筆跡による、今回の美術館事件の、完璧すぎるほどの計画書だった。

警備システムの死角、センサーを回避するルート、ショーケースの特殊な解錠方法、そして、消えた青い薔薇の行方。全てが、緻密な計算のもとに記されていた。犯人は、記憶のない自分自身。時枝は、無意識下の自分が仕組んだ「自分自身への挑戦状」の前に、呆然と立ち尽くした。なぜ、俺はこんなことを?

計画書の最後のページには、一枚の地図が挟まれていた。美術館の屋上庭園の見取り図。そこに、赤いペンで一つの印がつけられている。時枝はコートを羽織り、再び雨の中へと飛び出した。

美術館の屋上庭園は、雨に洗われ、植物たちが生き生きとした緑の光を放っていた。時枝の世界では、その緑もまた濃淡の違う灰色にしか見えない。彼は地図に示された場所へと向かった。そこは庭園の隅、街を見下ろせる手すりのすぐそばだった。

そして、彼はそれを見つけた。

湿った土に、まるで以前からそこにあったかのように自然に根を下ろし、雨の雫を弾きながら凛と咲く、一輪の青い薔薇。その花は、彼が救えなかった少女が命を落とした、眼下の路上をまっすぐに見つめていた。

その光景を目の当たりにした瞬間、閉ざされていた記憶のダムが決壊した。

彼は、あの事件の後、少女への罪悪感に苛まれ続けた。悲しむことさえ自分に許さず、感情に蓋をした。その結果、彼の世界から色は消えた。心は空っぽの器になり、ただ時間だけが過ぎていった。

だが、人間の魂は、忘れることを許さなかった。無意識下の彼は、失われた感情、特にあの少女を悼む「悲しみ」を取り戻すために、この全てを計画したのだ。

事件は、彼自身の魂による、彼自身へのセラピーだった。あの日の悲劇を象徴する青い薔薇を、最も安全な場所から盗み出し、少女の魂が見える場所に手向けるという、歪んだ、しかし切実な儀式。それは、忘却の彼方に追いやった悲しみという感情を、もう一度その手に取り戻すための、魂の叫びだった。

時枝が、雨に濡れる青い薔薇にそっと手を伸ばした、その時。

彼のモノクロームの世界に、ほんの僅かな変化が起きた。

目の前の薔薇が、色を放ったのだ。それは、空の青でも、海の青でもない。心の奥底に沈殿していた、深く、静かで、そしてどこまでも優しい、悲しみの「青」。

涙が、彼の頬を伝った。何年ぶりかに流す、温かい雫だった。その涙とともに、灰色の世界に、確かな一つの色が戻ってきた。それは鮮やかな幸福の色ではない。心を締め付けるような、切ない痛みと共にある色だ。しかし、それは間違いなく、彼が失っていた人間性の、大切な一片だった。

事件は、誰にも知られることなく幕を閉じた。時枝は五十嵐警部に、犯人は見つからなかったが、薔薇は元の場所――屋上庭園という、あるべき場所――に戻っていたとだけ伝えた。警部は腑に落ちない顔をしながらも、それ以上追及はしなかった。彼のオーラが、安堵を示す柔らかな緑色に変わったのを、時枝は久しぶりに色のついた視界で捉えていた。

雨は上がっていた。街を濡らしていた分厚い雲の切れ間から、柔らかな光が差し込んでいる。世界はまだ、ほとんどがモノクロのままだ。しかし、一つの色が戻った今、彼は信じることができた。失われた他の色も、いつかきっと取り戻せるだろう、と。

時枝は空を見上げた。そこには、七色の全てにはまだ遠い、けれど確かな希望を宿した、淡い虹の欠片が架かっていた。彼はその光に向かって、静かに、そして力強く、一歩を踏み出した。

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