不協和音のレクイエム

不協和音のレクイエム

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第一章 静寂の亀裂

音景(おとかげ)透の営む古書店『静寂堂』の午後は、埃が光の筋となって踊る、時の流れから切り取られたような空間だった。透は、ある事件を境に過敏になった聴覚を守るように、この静けさの中に身を沈めていた。彼にとって、世界は耐え難いノイズで満ちており、古書のページをめくる乾いた音だけが、唯一許容できる音楽だった。

その静寂を破ったのは、一本の電話だった。受話器から聞こえてきた旧知の刑事の声は、ひどく鈍い響きをしていた。

「星野さんが、亡くなられた」

星野光一郎。引退した天文学者であり、透にとって唯一無二の友人であり、恩人だった。かつて音楽家としての道を絶たれた透に、星の囁き、宇宙の静謐を語ってくれた人。彼の存在そのものが、透にとっての『静寂堂』だった。

現場は、街を見下ろす高台にある星野の個人天文台だった。警察の無機質なライトが、彼の書斎を冷たく照らし出している。床に横たわる白いシーツの膨らみから、透は目を逸らした。鑑識官がせわしなく動き回り、刑事たちが眉間に皺を寄せて囁き合っている。強盗の線が濃厚だが、不可解な点が多い、と。

透の視線は、シーツの傍ら、床に描かれた奇妙な図形に釘付けになった。それはチョークか何かで引かれた、歪んだ五本の線と、その上に乱雑に配置された黒い丸だった。

「なんだ、こりゃ。孫のイタズラか?」

若い刑事が呟く。だが、透は息を呑んだ。それはイタズラではない。紛れもなく、五線譜だった。そして、そこに描かれているのは、音楽と呼ぶにはあまりにもおぞましい、不協和音の塊だった。

「……違う」

透の掠れた声に、年配の刑事が振り返る。

「音景さん、何か?」

「これは、ダイイング・メッセージです」

透は確信を込めて言った。音楽家としての彼の魂が、その音符の異常性を叫んでいた。それは、単なる不協味な音の羅列ではない。そこには、明確な意図があった。まるで、世界そのものの調和が崩れる瞬間を写し取ったかのような、冒涜的な旋律。星野さんは、死の間際に何を伝えようとしたのか。

透は、自らが守ってきた静寂の世界に、大きな亀裂が入るのを感じていた。彼はこの不協和音の謎を解かなければならない。それは、恩人への最後の務めであり、彼自身の壊れた世界と再び向き合うための、避けられない戦いの始まりだった。

第二章 宇宙のノイズ

警察の捜査は難航していた。物取りの犯行に見せかけた計画殺人の線で捜査は進められたが、星野の交友関係は穏やかで、強い恨みを買うような人物は見当たらない。床の五線譜は、結局「意味不明の落書き」として処理され、捜査資料の片隅に追いやられた。

透は一人、『静寂堂』の奥にあるピアノの前に座っていた。警察に頼んで撮影させてもらった五線譜の写真を譜面台に置き、震える指で鍵盤に触れる。一つ、また一つと音を紡いでいく。

――グシャッ。

耳の中で何かが潰れるような、不快な音が響き渡る。ドとドのシャープが同時に叩きつけられ、ファとソのフラットが呻きを上げる。それは音楽ではなかった。聴覚を直接殴りつけるような、暴力的な音の塊だ。透は思わず耳を塞いだ。過敏になった聴覚が悲鳴を上げ、頭の芯がずきりと痛む。

しかし、彼は弾くのをやめなかった。何度も、何度も。苦痛の中で、彼はその不協和音の奥に潜む何かを探していた。星野さんは、こんな苦痛を誰かに伝えたかったのか? いや、違う。あの人は、どんな時も調和を愛した人だ。この音には、別の意味があるはずだ。

透はピアノから離れ、星野の書斎をもう一度訪れる許可を得た。天文学に関する難解な専門書に埋め尽くされた部屋の隅々まで、彼は星野の息遣いを探すように見つめた。そして、机の上に無造作に置かれた一冊のノートを見つけた。そこには、走り書きのような文字で、同じ言葉が何度も記されていた。

『宇宙背景放射の異常パターン』『予測不能なノイズ』『未来からの囁き?』

ノートには、電波望遠鏡が捉えたという、奇妙な波形データがびっしりと書き込まれていた。その波形のリズムと、床の五線譜の音符の配置が、どこか似ていることに透は気づく。まさか。星野さんは、宇宙から届くノイズを、音楽に変換しようとしていたのか?

透は仮説を立てた。犯人は、星野のこの研究を狙っていたのではないか。この「宇宙のノイズ」に、何かとんでもない価値があったのだ。だが、それが何なのか、皆目見当がつかなかった。謎は深まるばかり。あの不協和音は、宇宙の奏でるノイズそのものだというのか。だとすれば、それはあまりにも物悲しい、宇宙の葬送曲のように思えた。

第三章 未来からのダイイング・メッセージ

数日が過ぎ、捜査に進展はない。透は諦めかけていた。自分には何もできないのかもしれない。古書の静寂に再び逃げ込もうとした、その時だった。ふと、星野が昔、笑いながら話してくれた言葉を思い出したのだ。

「音楽も天文学も同じさ、音景くん。どちらも、目に見えない波を読み解き、宇宙の法則を見つけ出す仕事だからね」

宇宙の法則。その言葉が、雷のように透の脳を撃ち抜いた。

彼は、書斎の星図盤の前に立った。そして、あの五線譜の音符を、音階(ドレミファソラシ)ではなく、数字に置き換えてみた。さらに、その数字を、天文学で使われる座標――赤経と赤緯――に当てはめていった。

指が震える。計算を終え、星図盤の上に、五線譜が示す星々の位置をプロットしていく。それは、何かの星座を描いているようだった。しかし、既知のどの星座とも一致しない。無意味な点の集合だ。

「……違うのか」

透が肩を落とした瞬間、ある可能性に思い至った。もし、これが「今」の星空ではないとしたら?

彼は、星々の固有運動や歳差運動を計算に入れ、星図盤の時刻設定を未来へと進めていった。一日後、三日後、五日後……。そして、カチリ、と何かがはまるような感覚があった。時刻設定を、ちょうど**一週間後**に合わせた時だった。

星図盤にプロットされた点と点が、意味のある線を結んだ。それは、ある特定の空域に密集しており、その中心点は、街の東側に位置する、巨大な天然ガスタンク群を示していた。

そして、その星々の配置が意味するものは、古代の占星術で「大いなる災厄」を象徴する凶星の配列そのものだった。

全身の血が凍りつく。ダイイング・メッセージは、犯人を示すものではなかった。星野さんが死の間際に伝えたかったのは、**一週間後に起こる、大規模なガス爆発事故の警告**だったのだ。

彼は未来を予知したのだ。宇宙のノイズだと思っていたものは、未来の出来事が時空を超えて過去に漏れ出した「情報」だったのかもしれない。星野さんはそれを解読し、警告しようとした。だから、殺された。

犯人の目的は、金品や研究成果ではなかった。この「予言」を世に出させないこと。つまり、犯人は、これから起こるガス爆発事故の首謀者なのだ。星野の死は、始まりに過ぎなかった。本当の悲劇は、これから起ころうとしている。透は、静寂を捨て、走り出していた。残された時間は、もうわずかしかなかった。

第四章 星空に響く和音

透は警察に駆け込み、自分の推理をぶちまけた。未来予知だの、宇宙のノイズだのという話は、当然ながら一笑に付された。だが、ダイイング・メッセージとガスタンクの位置が符合するという一点だけが、年配の刑事の心を動かした。彼は「非公式に」周辺を洗ってみる、と約束してくれた。

透は独自に、ガスタンク周辺の再開発計画を調べた。すると、一人の男の名が浮かび上がった。倉持重工の社長、倉持。彼は星野のパトロンとして知られ、天文台の建設にも多額の寄付をしていた。しかし同時に、再開発計画の中心人物でもあり、事故が起これば莫大な保険金と、その後の開発利権を手にする立場にいた。人の良い資産家という仮面の裏に、冷酷な顔が隠されているのかもしれない。

予言の日、透は倉持に直接会う約束を取り付けた。倉持のオフィスは、街を一望できる超高層ビルの最上階にあった。

「星野先生の件で、お話が」

透が切り出すと、倉持は悲しげな表情を作った。

「実に残念なことでした。あんな素晴らしい方を……」

「先生は、死ぬ間際にメッセージを残しました。それは、今日、ここで起こるはずだったガス爆発事故の警告でした」

透は、真っ直ぐに倉持の目を見つめた。倉持の表情が、わずかに凍りつく。

「何を馬鹿なことを……」

「あなたは、老朽化したガス管に細工をした。そして、先生が偶然にも、あなたの計画を――宇宙からのノイズという形で――察知してしまった。だから、彼を殺し、予言を握り潰そうとした」

観念したように、倉持は大きく息を吐いた。そして、歪んだ笑みを浮かべた。

「……驚いたな。あの老いぼれは、本当に未来が見えていたのか。化け物め」

彼は静かに立ち上がると、デスクの引き出しに手をかけた。「君も、知りすぎたようだね」

その瞬間、オフィスの扉が蹴破られ、刑事たちがなだれ込んできた。透がここに来ることを、あの年配の刑事にだけは伝えていたのだ。絶望的な状況下での賭けだった。

すべてが終わった。倉持は逮捕され、彼の計画は未然に防がれた。星野の死は、多くの命を救った。

後日、透は再び星野の天文台を訪れた。がらんとした書斎の窓から、美しい星空が見える。彼は、床に残された五線譜の跡を、そっと指でなぞった。

あれは、不協和音ではなかったのかもしれない。透には、今ならわかる。あれは、一つの命が消える痛みと、多くの命が救われる未来の希望が、同時に奏でられた音だった。悲しみと喜び、破壊と創造。それら全てを内包した、究極のハーモニー。星野さんが最後に聴いた、宇宙の歌だったのだ。

『静寂堂』に戻った透は、久しぶりにピアノの蓋を開けた。そして、鍵盤に指を置く。彼が弾き始めたのは、不協和音ではない。静かで、どこまでも透明で、しかし確かな力強さを持つ、一つの和音だった。それは、失われたものへの追悼であり、これから始まる新しい人生への序曲でもあった。

彼の静寂は、もう破られてはいない。星野が教えてくれた宇宙の音楽と、完全に調和していた。窓の外では、まるで透の演奏に応えるかのように、一つの星がひときわ強く輝いていた。

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