残像の囚人、砂時計の夢
第一章 霧雨の幻影
アスファルトを叩く霧雨が、街のネオンを滲ませていた。僕、水無月朔(みなづき さく)の瞳には、その滲んだ光景に重なるように、もう一つの世界が映っている。他人が失くした時間──その残像だ。
バス停のベンチには、数時間前に誰かが置き忘れたであろう文庫本の幻影が、雨に濡れることなく静かにそこにある。路地裏を曲がれば、昨日、子供が泣きながら落とした赤いスーパーボールの残像が、水たまりの上で虚しく弾んでいた。半透明で、色褪せたセピア色の幻影。触れることはできず、ただ視界にだけ存在する、過去の断片たち。
「また、一人消えたらしい」
カフェの窓際、熱いコーヒーの湯気が僕と世界の間に薄い膜を作る。向かいの席に座る友人、圭介の声が、ガラスを伝わる雨音に混じって聞こえた。テレビのニュースキャスターが、神妙な面持ちで連続失踪事件を報じている。被害者は皆、ある共通点を持っていた。「未来の自分に会う夢」を見なかった者たちだ。
この世界で、その夢は人生の羅針盤とされる。夢を見なかった者は、存在の座標を失った船のように、社会の海から徐々に姿を消していく。人々から忘れられ、最後には本当に、どこかへ消えてしまうのだ。
僕はコーヒーカップを置き、失踪現場の一つだという古い公園へ向かった。雨に洗われたブランコが、錆びた音を立てて揺れている。そこに、少女の残像が見えた。数日前にここで消えたという、中学生の女の子だ。彼女の幻影は、まるで古いフィルムのように明滅し、何かを恐れるように虚空を見つめていた。
その視線の先に、もう一つの人影があった。
背の高い、見覚えのあるコートを着た男の残像。雨に濡れることもなく、ただ静かに佇んでいる。風が彼の前髪を揺らし、その横顔が僕の目に焼き付いた。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。鏡で何度も見たことのある、僕自身の顔だった。数年後、あるいは数十年後の、僕の「未来の姿」をした幻影が、消えた少女の傍らに立っていた。
第二章 砕けた砂時計
自室の机の上、小さなベルベットの布の上に、僕の唯一の羅針盤が置いてある。「砕けた砂時計」。ガラスには蜘蛛の巣のようなヒビが入り、中の砂は落ちることをやめている。けれど、手に取ると、中の砂がまるで心臓のように、微かに振動しているのが分かった。
これは、僕が幼い頃に見た夢の中で、「未来の自分」から手渡されたものだ。そう信じていた。夢の記憶はほとんどないが、この砂時計の冷たい感触だけは、今も指先に残っている。
「……教えてくれ。あれは、誰なんだ」
砂時計を握りしめ、再び公園の失踪現場へ意識を集中する。ガラスのヒビが内側から淡い光を放ち、僕の視界が歪んだ。少女の残像と、僕の未来の姿をした幻影が、先ほどよりもずっと鮮明に浮かび上がる。未来の僕の幻影は、怯える少女にそっと手を差し伸べていた。その光景は、連れ去るというよりは、むしろ救い出しているかのようにも見えた。
この謎を解くには、もっと情報が必要だ。僕は市立図書館の古文書保管室へと足を運んだ。「夢」に関する古い伝承を求めて。
そこで、埃っぽい書架の間で、一人の女性に出会った。
「『夢なき者の漂流譚』……ですか? 随分と古い本を」
司書の響子さんと名乗った彼女は、僕が手に取った本を見て、少し驚いたように目を丸くした。栗色の髪が、窓から差し込む午後の光を吸って柔らかく輝いている。
「この街の失踪事件と、何か関係が?」
彼女の声には、単なる好奇心ではない、切実な響きが混じっていた。その瞳の奥に、僕と同じ種類の孤独と不安の影が見えた気がした。
第三章 夢の侵食
「夢は、未来という名の岸辺へ辿り着くための海図。夢を失った者は、時の海で遭難し、誰の記憶の岸にも辿り着けずに消え去る……」
響子さんが、色褪せたページに記された一節を静かに読み上げた。彼女の指先が、古書のざらついた紙の上を滑る。僕たちは、図書館の閉館後も、二人で古い伝承を読み解いていた。
彼女自身も、夢の記憶が曖昧なのだという。断片的なイメージしかなく、未来の自分から何を受け取り、何を話したのか、全く覚えていないのだと。その告白は、彼女の存在そのものが持つ脆さを僕に突きつけてきた。
僕は彼女に自分の能力について打ち明けるべきか迷った。だが、言葉にする前に、僕の能力が新たな真実を映し出してしまった。砂時計をポケットの中で握りしめると、失踪した別の中年男性の残像が見えた。彼の最後の場所は、街外れのバス停だった。
残像の中で、男は自分の「未来の姿」と対面していた。しかし、その光景は次の瞬間、ノイズが走ったように歪む。男の未来の姿が掻き消え、代わりに現れたのは――またしても、僕の「未来の自分」の幻影だった。まるで、他人の夢を上書きするように。僕の幻影が、彼の未来を奪い去っていく。
背筋が凍るような感覚に襲われた。
失踪者たちは、「夢を見なかった」のではない。夢を見たのだ。だが、僕のこの忌まわしい能力が、彼らの「未来」を僕自身の「未来」の幻影で塗り潰し、彼らの人生の羅針盤を破壊してしまったのだとしたら?
彼らは未来を失い、存在の座標をなくし、そして……消えた。僕のせいで。
第四章 重なる未来
「最近、変なの」
ある日の夕暮れ、図書館からの帰り道、響子さんがぽつりと呟いた。
「駅の改札で、駅員さんが私のこと、見えてないみたいだった。すぐ目の前にいるのに、隣の人に話しかけて……。まるで、私が透明人間になったみたい」
彼女の笑顔は、無理に作られたガラス細工のように脆く見えた。風が吹けば、それだけで砕けてしまいそうだった。
その言葉は、僕の胸に鋭い杭となって突き刺さる。僕の存在が、僕の能力が、彼女の未来をも侵食し始めている。彼女の存在を、この世界から希薄にさせている。
もう、迷っている時間はない。
自室に戻り、僕は「砕けた砂時計」を両手で強く握りしめた。これを使えば、失われた時間の残像をより深く、より鮮明に見ることができる。だが、今回は違う。僕が見たいのは他人の過去じゃない。僕自身の、始まりの記憶だ。
あの夢の中へ。未来の自分と出会った、あの原初の場所へ。
「行かせてくれ……!」
砂時計が激しく振動し、まばゆい光を放つ。視界が白く染まり、意識が急速に過去へと引きずり込まれていく。身体が浮き上がるような、それでいてどこまでも沈んでいくような、奇妙な感覚。次に目を開けた時、僕は懐かしい子供部屋のベッドの上にいた。夢の中だ。目の前には、あの男が立っていた。未来の僕が。
第五章 砂時計の逆説
夢の中の「未来の僕」は、何も語らなかった。ただ、とても悲しい、慈しむような目で、幼い僕を見つめているだけだった。その姿は、僕が今まで見てきた幻影とは違い、確かな実体を持っているように感じられた。
幼い僕は、未来というものが怖かった。明日が今日と同じように来る保証なんてどこにもない。その漠然とした不安に押し潰されそうになっていた。だから、目の前の「未来の自分」に、必死に手を伸ばした。
「ねえ、未来は変わらない? 僕はずっと、僕のままでいられる?」
幼い僕の手の中に、いつの間にか「砕けた砂時計」が握られていた。いや、違う。この時の砂時計は、まだ砕けていなかった。完璧な形をしていた。
「これをあげる。これを持っていれば、僕の未来は変わらないよね?」
僕は砂時計を、未来の僕に差し出した。受け取ってくれ、と懇願するように。
その瞬間、未来の僕の姿が陽炎のように揺らめいた。彼の身体が半透明になり、その向こうに、今まで僕が見てきた失踪者たちの顔が、何重にも重なって映し出される。彼らは僕に向かって、声なく何かを訴えかけていた。助けて、と。
理解した。
砂時計は、未来の自分から「もらった」ものではなかった。未来への不安に駆られた幼い僕が、不変の未来を願って、未来の自分に「渡した」ものだったのだ。自分の未来を固定するために、他人の未来を奪い、自分の世界に閉じ込める。この砂時計は、その契約の証。僕が作り出してしまった、「未来の破片」という名の、巨大な牢獄だった。
失踪者たちは未来に連れて行かれたのではない。僕の視界に、僕の能力の中に、「失われた未来」の残像として囚われていたのだ。
第六章 彼方への解放
夢から覚めると、部屋の空気が氷のように冷たかった。窓の外では、響子さんが僕を待っていた。だが、その姿は頼りなく揺らめき、向こう側の景色が透けて見え始めている。彼女は不安そうに微笑みながら、僕に向かって手を振った。その指先が、ゆっくりと消えかけていた。
もう、やるべきことは一つしかない。
僕は砕けた砂時計を握りしめ、彼女のもとへ駆け寄った。
「響子さん」
僕の声は震えていた。彼女は驚いたように僕を見る。その瞳に、僕の姿はまだ映っているだろうか。
「ごめん。僕が、君たちの未来を奪ってた」
砂時計を高く掲げる。僕が作り出したこの牢獄を、僕自身の手で破壊する。それは、僕自身の未来の羅針盤を砕き、この世界における僕の存在座標を、永遠に失うことを意味していた。
「もう、大丈夫だ。君たちの未来を、今、返すよ」
心の中で、囚われた全ての人々に向けて叫ぶ。
砂時計が、断末魔のような甲高い音を立てて砕け散った。眩い光が溢れ出し、僕の視界を埋め尽くす。光の中から、無数の人々の幻影が解放され、光の粒子となって夜空へと昇っていくのが見えた。まるで、長い間閉ざされていた窓が開き、魂が自由になったかのように。
響子さんの姿が、くっきりと色を取り戻していく。彼女は戸惑ったように自分の手を見つめ、そして僕を見た。その瞳に浮かんだのは、感謝でも、悲しみでもない。ただ、純粋な「誰?」という問いかけだった。
僕の身体もまた、足元からゆっくりと透明になっていく。響子さんが何かを言おうと口を開くが、言葉にならない。彼女の記憶から、「水無月朔」という存在が、今まさに消え去ろうとしているのだ。僕と過ごした時間も、交わした言葉も、全てが。
それでいい。
僕は、静かに微笑んだ。
世界は僕を忘れるだろう。けれど、僕が救った誰かが、それぞれの未来を生きていく。誰も知らない街角で、僕は一人、静かに消えていく。最後に僕の目に映ったのは、少しだけ優しくなったような気がする、この街の夜景だった。