クロノスの残光
第一章 色褪せた街の影
俺、カイの目には、世界が常に濃淡のグラデーションで映っている。人々が纏うオーラ――彼らが内包する「時間」の色だ。生まれたばかりの赤子は眩いばかりの純白を放ち、歳月を経て、労働や情熱で時間を消費するほどに、その色は深みを増し、やがては煤のような黒へと沈んでいく。
ここ、灰色の街「ロストエンド」では、誰もが濃い影を引きずって生きていた。錆びた鉄骨が空を覆い、石炭の混じった雨が路地を濡らす。この街の時間は、異常な速さで消費されていく。まるで、見えざる何者かに命を啜られているかのように。
「カイ、見て。綺麗でしょ」
リナが掌に載せて見せたのは、露店で買ったガラス細工の小さな花だった。彼女の纏う時間は、この街では珍しい、淡い空色を保っていた。だが、その輪郭は日に日にぼやけ、今にも霧散してしまいそうな儚さを帯びている。
「ああ、綺麗だ。お前に似合ってる」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を守りたいと、何度思ったことか。この街では、時間は通貨だ。自分の時間を切り売りして日々の糧を得る。リナもまた、妹の薬代のために、自分の時間を少しずつ、しかし確実に削っていた。
その夜、リナは消えた。
彼女が住んでいた安アパートの部屋は、がらんとして冷え切っていた。床の中央に、ぽつんと一つ、小さな結晶が転がっている。人が時間を使い果たした後に残す「時間結晶」。リナの結晶は、彼女が最後に纏っていた空色をそのまま閉じ込めたように、淡く光っていた。
震える指でそれに触れた瞬間、脳内に激しい奔流が流れ込んできた。リナの最期の記憶だ。薄暗い部屋、荒い呼吸、急速に透明になっていく自分の指先を見つめる恐怖。そして窓の外――遥か天上にそびえる富裕層の都市「エテルニア」の白い塔を見上げる、絶望と、わずかな憧憬。彼女の冷たくなっていく掌には、何かの硬い破片が握りしめられていた。
記憶の追体験が終わると、俺の手の中に、リナの結晶と、もう一つ、古びたガラスの破片が残されていた。奇妙な螺旋模様が刻まれた、砂時計の一部らしきものだった。
第二章 淀みの噂
リナの死は、この街ではありふれた出来事の一つに過ぎなかった。だが俺にとっては、世界のすべてが歪んで見えた始まりだった。なぜ彼女の時間は、あんなにも速く失われなければならなかったのか。
俺は街の情報屋、隻眼のギデオンを訪ねた。彼の店は、埃っぽい古書とガラクタの匂いに満ちている。
「エテルニア、か」
ギデオンは義眼をカチリと鳴らし、俺が差し出した砂時計の破片を眺めた。「上層の連中が『無限の時間』を持ってるって噂、お前も聞いたことあるだろ」
「ああ。だから俺たちの時間が奪われるんだと」
「半分は正解で、半分は間違いだ、小僧」
ギデオンは声を潜めた。「奴らは時間を持ちすぎた結果、『時の淀み』って病に冒されてるらしい。身体が内側から腐り、思考は混濁し、永遠に近い苦しみを味わうのさ。それでも時間を集め続けるのは、もはや狂気に他ならん」
狂気。その言葉が妙に胸に引っかかった。無限の時間を持ちながら、なぜさらに貧しい者から奪う必要がある? 苦しむと分かっていながら、なぜ溜め込む? 矛盾だらけの噂話だった。
リナの最期の記憶が蘇る。エテルニアの塔を見上げる、あの絶望に満ちた瞳。彼女は、ただ時間を奪われただけではない。何か、もっと根源的な理不尽さに打ちのめされていた。
俺は、街で消えていった人々の時間結晶を密かに集め始めた。持ち主を失った結晶は、路地の隅や瓦礫の下で、誰にも省みられることなく静かに光を放っていた。一つ、また一つと触れるたび、俺の脳裏には様々な人生の最期が焼き付いていく。悲しみ、怒り、そして誰もが共通して抱いていた、エテルニアの塔に対する言いようのない恐怖。
第三章 結晶の囁き
幾多の記憶を追体験するうちに、俺はある共通点に気づいた。彼らの記憶の断片を繋ぎ合わせると、ぼんやりとした一つのイメージが浮かび上がるのだ。それは、完全な形をした砂時計。俺が持っている破片と、同じ螺旋模様が刻まれた美しい工芸品だ。
「終焉の砂時計……」
ある老人の記憶の中で、その名が囁かれた。それはただの砂時計ではない。世界の理を映し出すための、特別な装置なのだという。
俺は街の片隅で工房を営む、腕利きの時計技師の元を訪れた。彼は俺が持ち込んだ破片と、記憶から描き起こしたスケッチを交互に見比べ、長い溜息をついた。
「これは…ただのガラスじゃない。凝縮された時間の塊そのものだ。復元は可能かもしれんが、核となる部品が足りない」
核。リナの記憶、老人の記憶、その全てが指し示していたのは、エテルニアの白い塔の頂だった。そこに、砂時計を完成させるための最後のピースがあるに違いない。
決意は固まった。危険を承知で、俺は上層都市エテルニアへ向かう。リナの、そして名もなき人々の無念を晴らすために。この世界の歪みを、この手で正すために。
第四章 静寂の牢獄
エテルニアへの潜入は、想像を絶する困難を伴った。だが、俺は多くの結晶から得た記憶の断片――警備ルートの隙間や隠し通路の知識――を頼りに、ついにその白亜の都市へと足を踏み入れた。
そこは、俺が想像していた世界とは全く異なっていた。下層街の喧騒とは無縁の、墓場のような静寂。空気は消毒されたように無味無臭で、塵一つない白い街路には人影もまばらだった。そして何より奇妙だったのは、そこに住まう人々の纏う時間のオーラだった。
彼らは、驚くほどに希薄だった。
ロストエンドの住人たちのような濃い影ではなく、まるで水で薄めた絵の具のような、淡く頼りない色。今にも消え入りそうなその姿は、「無限の時間」を持つ富裕層とは到底思えなかった。彼らは「時の淀み」に苦しんでいるのではない。まるで、常に何かに時間を吸い上げられているかのように、消耗しきっていた。
塔の中心部で、俺はこの都市の支配者だという老人と対峙した。オルド卿と名乗った彼は、豪奢な椅子に身を沈めながらも、その瞳には深い絶望の色を浮かべていた。彼の纏う時間は、ほとんど無色に近かった。
「ようこそ、時の記憶を読む者よ」オルド卿は静かに言った。「お前が来ることは分かっていた」
「あんたたちが、リナの時間を奪ったのか!」
「奪った、か。あるいは、捧げてもらった、と言うべきかもしれんな」
彼の言葉は、俺の怒りを逆撫でするだけだった。だが、続く彼の告白は、俺の築き上げてきた全ての前提を根底から覆すものだった。
第五章 無限の真実
「我々は、『無限の時間』など持っておらん」オルド卿は、か細い声で語り始めた。「むしろ、我々こそが最も時間を奪われ続けているのだ。このエテルニアの、そして世界の理を維持するために」
彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の奥にある巨大なクリスタルを指し示した。塔の心臓部だ。それは脈動するように明滅を繰り返し、膨大なエネルギーを湛えているのが分かった。
「あれが、噂の『無限の時間』の正体だ。我々は『クロノス・コア』と呼んでいる」
だがそれは、時間そのものではなかった。
「あれは、時間を使い果たし、『真の存在』となった者たちの記憶と意識が溶け合った、集合意識体だ」
オルド卿の言葉に、俺は息を呑んだ。時間を使い果たせば、人は消滅する。それがこの世界の常識だったはずだ。
「消滅ではない。個という枠を超え、より大きな生命の流れに還るのだ。だが我々の祖先は、それを『死』として恐れた。個の喪失を何よりも忌み嫌った」
だから彼らは、このクロノス・コアを創り出した。人々が真の存在になるのを防ぎ、その膨大な意識体を盾として、自らの個を保つための牢獄を。しかし、その維持には膨大な時間が必要だった。彼らは自らの時間を捧げ、それでも足りずに、下層の者たちから時間を吸い上げるシステムを構築したのだ。「時の淀み」とは、このコアとの接続が不安定になり、自我が侵食される現象に過ぎなかった。
「我々は、恐怖に囚われた囚人なのだよ」
オルド卿は震える手で、一つの箱を開けた。中には、俺が探していた砂時計の残りの部品が収められていた。「終焉の砂時計を完成させ、真実を見極めるがいい。そして、この永きにわたる停滞を終わらせてくれ」
第六章 最後の記憶
復元された「終焉の砂時計」は、俺の手の中で静かな輝きを放っていた。オルド卿は、代々受け継がれてきたという小さな、しかし最も古い時間結晶を俺に差し出した。それは、世界の始まりに関わった「創始者」の結晶だという。
俺はその結晶を砂時計にセットした。すると、砂時計の中の砂が、まるで意志を持ったかのように輝きながら落ち始めた。
そして、俺は追体験した。
それは、言葉にできないほど荘厳な記憶だった。最初の人間が、自らの生涯を終え、時間を使い果たす瞬間。彼の肉体は光の粒子となり、世界に溶けていく。だが、それは恐怖ではなかった。個という小さな器から解放され、風の囁きに、川のせせらぎに、星々の瞬きに、その意識が広がっていく。万物と繋がり、世界そのものになる、歓喜に満ちた瞬間。
それは消滅などではない。循環だ。自らの生きた記憶と経験を世界に還し、それが新たな生命に分配され、新たな時間を紡いでいく。壮大な生命のサイクル。富裕層の先祖たちが恐れた「個の喪失」は、実はずっと大きな存在への「帰還」だったのだ。
第七章 時の解放者
記憶の奔流から意識が戻った時、俺の頬を涙が伝っていた。リナも、名もなき人々も、消えてしまったわけではなかった。彼らは皆、この大きな流れの中に還っていたのだ。
「怖くなんて、なかったんですね」
俺の呟きに、オルド卿は静かに頷いた。彼の目にも光るものがあった。
もう迷いはなかった。俺は自分の胸に手を当てる。残された時間は、もう僅かだ。俺はこの歪んだ循環を断ち切り、本来の流れを取り戻す。
オルド卿が見守る中、俺はクロノス・コアに向かって、自らの時間を解放した。俺の身体を構成していた時間のオーラが、眩い光の奔流となってコアへと注がれていく。身体が内側から透き通っていく感覚。痛みも恐怖もない。ただ、懐かしい温かさに包まれていく。
意識が薄れていく中で、俺は見た。停滞していたクロノス・コアが再び脈動を始め、その光が世界中に降り注いでいくのを。ロストエンドの濃すぎる影が和らぎ、エテルニアの希薄すぎたオーラに色が戻っていく。世界が、穏やかなグラデーションを取り戻していく。
最後に、光の中で微笑むリナの顔が見えた気がした。彼女は「ありがとう」と言って、大きな流れの中へと溶けていった。俺もまた、その後を追うように、光の粒子となって世界に還った。
エテルニアの塔は、その役目を終えて静かに光を失った。後に残されたのは、砂の一粒まで落ちきった「終焉の砂時計」だけ。それは、個という儚い時間を生き、そして世界そのものになった、一人の男の選択を静かに物語っていた。