第一章 死者からの手紙
神保町の古書店「時の栞」の主、倉田湊の時間は、半年前から止まっていた。恋人だった結衣を、突然の交通事故で失ってから。店の奥、陽の当たらない書斎で古書の修復に没頭することが、唯一の現実逃避だった。インクと古い紙の匂いが、悲しみを麻痺させてくれる。
そんなある日の午後、店のドアベルが鳴った。郵便配達員が差し出したのは、一通の淡い水色の封筒。見慣れない、丸みを帯びた優しい文字。その筆跡に、湊の心臓が氷水で掴まれたように冷たくなった。
白石結衣。
差出人の名前に、彼女の名前が記されていたのだ。あり得ない。彼女はこの世にいない。
震える指で封を開けると、中から一枚の便箋が滑り落ちた。彼女が好きだった、金木犀の香りがふわりと鼻をかすめる。
『湊へ。
びっくりしたかな。もしこの手紙を読んでいるなら、私からの最後のわがままを聞いてください。
私たち、もう一度だけデートをしませんか。
最初の行き先は、覚えてる? 雨の日の水族館。あの大きな水槽の前で、待っています。
結衣より』
悪質な悪戯だ。そう頭では理解しているのに、鼓動は鎮まらない。誰が、何のために? 結衣の友人か、それとも姉か。しかし、この筆跡は、この香りは、紛れもなく結衣そのものだった。湊の合理的な思考は、目の前の不可解な事実に軋みを上げていた。
ポストは虚ろなはずだった。彼女からの便りが届くことなど、二度とないはずだった。
湊は埃をかぶったコートを羽織ると、まるで何かに憑かれたように、雨が降り始めた街へと歩き出した。半信半疑のまま、最初の思い出の場所へ。これは、死者からの挑戦状なのか、それとも救済の糸口なのか。答えを求めて、湊の止まっていた時間が、再び軋みながら動き始めた。
第二章 記憶の回廊
週末の喧騒が嘘のように静まり返った水族館は、深い海の底を思わせた。湊は、巨大なジンベエザメが悠々と泳ぐ大水槽の前に立った。かつて結衣と来た時と同じ、指定された場所。当然、彼女の姿はない。代わりに、水槽のガラスに映るのは、憔悴しきった自分の顔だけだった。
「馬鹿げてる……」
自嘲気味に呟き、踵を返そうとしたその時。足元に置かれた小さな花束が目に入った。結衣が好きだった、青いデルフィニウム。花束には、次の手紙が挟まっていた。同じ水色の封筒、同じ丸い文字。
『やっぱり来てくれたんだね。ありがとう。
次は、満天の星を見に行こう。プラネタリウムの、一番後ろの席。湊の肩で眠るのが、私の特等席だったから』
心臓が大きく跳ねた。偶然ではない。誰かが、湊の行動を監視している。そして、結衣との記憶を、寸分違わずなぞっている。恐怖よりも強い好奇心が、湊を突き動かした。これは、結衣が遺した謎解きだ。そう思うことにした。
プラネタリウムの暗闇に星々が灯る。隣の空席が、やけに広く感じられた。解説員の穏やかな声が、遠い宇宙の物語を紡いでいく。湊は、そっと目を閉じた。隣から聞こえてくるはずの穏やかな寝息、肩にかかる温かい重み。五感が、失われた記憶を鮮明に再生する。涙が、こらえる間もなく頬を伝った。結衣を失ってから、初めて流した涙だった。
上映が終わり、明るくなった館内で、湊は自分の席の肘掛けに、三通目の手紙がテープで留められているのを見つけた。
『泣かないで、湊。
最後は、笑って終わりたいな。私たちの始まりの場所、覚えてる? 海が見える丘の上のカフェ。あのテラス席で、最後のコーヒーを一緒に。』
手紙を追うごとに、湊の心は揺れ動いた。送り主への疑念と、結衣との時間を追体験する切ない喜び。閉ざしていたはずの心の扉が、少しずつ開いていくのを感じていた。悲しみは消えない。だが、手紙のインクが滲むように、温かい何かが心に広がっていく。この不思議なデートが終わるとき、自分は何を知り、どう変わるのだろう。湊は最後の目的地へと、車を走らせた。
第三章 交差点の告白
海を見下ろすカフェのテラス席は、夕陽に染まっていた。潮風が、テーブルに置かれた水色の封筒を優しく揺らしている。湊は覚悟を決めて、最後の手紙を開いた。
『湊、ここまで付き合ってくれてありがとう。
これが、本当に最後のわがまま。
最後に会いたい場所があります。半年前、私があなたとの待ち合わせに向かっていた、あの交差点で待っていてください。夜の七時に』
血の気が引いた。あの交差点。結衣が命を落とした場所。冗談じゃない。そこは、湊が最も避けてきた、忌まわしい記憶の墓標だ。怒りが込み上げた。一体誰だ。人の心の傷を、ここまで弄ぶのは。
しかし、湊は向かうしかなかった。この不可解なゲームの終幕を、自分の目で見届けなければならない。
夜の七時。車のヘッドライトが絶え間なく行き交う交差点の隅に、湊は立っていた。約束の時間、彼の前に現れたのは、見知らぬ老人だった。深く刻まれた皺、痩せて少し背の曲がった、どこにでもいそうな老人。
「あなたが……?」
湊の問いに、老人は深く、深く頭を下げた。
「倉田湊さん。……申し訳、ありません」
絞り出すような声は、罪の重さに震えていた。
「手紙は、私が。私が書きました」
湊は言葉を失った。この男が? 何のために?
老人は、高木と名乗った。そして、途切れ途切れに語り始めた。
「あの日、この場所で……私が、結衣さんの命を奪いました。考え事をしていて、ほんの一瞬、信号から目を離した隙に……」
憎しみが、マグマのように腹の底から湧き上がった。この男が、結衣を。湊の未来を、全てを奪った張本人。拳を握りしめ、怒鳴りつけようとした瞬間、高木の次の言葉が湊の動きを縫い付けた。
「彼女は……事故の直後、まだ僅かに意識がありました。駆け寄った私に、これを託して……『湊に、伝えて』と……」
高木が震える手で差し出したのは、見覚えのある革張りの手帳だった。結衣がいつも大切に持ち歩いていた、日記であり、夢のスクラップブックだった。
「手帳には……あなたとの未来が、びっしりと書かれていました。結婚式の計画、新婚旅行の行き先、そして……『湊を最高に幸せにする、完璧なデートプラン』が」
水族館、プラネタリウム、海辺のカフェ。手紙の指示は全て、この手帳に書かれていたものだったのだ。
「私は、償っても償いきれない罪を犯した。ですが、せめて彼女の最後の願いだけは、この手で叶えたいと……。彼女の筆跡を何度も練習し、彼女が好きだったという金木犀の香りのインクを探し出し……。あなたを監視するような真似までして……本当に、申し訳ない」
高木は再び深く頭を下げ、その肩は小さく震えていた。
衝撃が湊の全身を貫いた。憎むべき加害者が、自分にとって最も切なく、そして温かい時間を与えてくれたという事実。結衣の最後の想いを、この男が必死に繋いでくれていたという真実。湊の中で、憎悪と感謝という、決して交わるはずのない感情が、激しい渦を巻いていた。
第四章 夜明けの栞
交差点の喧騒が、遠くに聞こえる。湊は、高木から手渡された結衣の手帳を、ただじっと見つめていた。ページをめくるたびに、そこには愛しい人の笑顔と、叶うことのなかった輝かしい未来が溢れていた。
「……なぜ」
やっとの思いで、湊は声を絞り出した。
「なぜ、こんなことを」
「贖罪です」
高木は顔を上げず、アスファルトを見つめたまま答えた。
「ですが、それは私の自己満足に過ぎません。あなたを深く傷つけ、結衣さんの思い出を汚したかもしれない。どんな罰でも受けます」
罰。この男を憎み、罵り、法の下で裁き続けることは簡単だ。それが、被害者としての当然の権利だろう。しかし、湊の心を満たしていたのは、単純な憎しみだけではなかった。
この老人は、結衣の死に最も深く向き合い、彼女の遺した想いを誰よりも真摯に受け止めようとしていた。その苦しみは、一体どれほどのものだっただろうか。
湊は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございました」
その言葉は、許しではなかった。憎しみが消えたわけでもない。だが、それは紛れもない、湊の本心だった。この不思議なデートがなければ、自分は永遠に過去の殻に閉じこもっていたかもしれない。結衣の温かさを、再び感じることもなかっただろう。
「結衣が……あなたに託してくれて、よかったのかもしれません」
高木は、はっと顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。彼は何も言えず、ただ何度も何度も頭を下げ続けた。
二人の間に、長い沈黙が流れた。やがて、湊は踵を返し、その場を去った。憎しみも、悲しみも、感謝も、全てを抱えたまま。
古書店に戻った湊は、書斎の机に結衣の手帳を置いた。それはもう、ただの思い出の品ではない。結衣が生きた証であり、罪を背負った男の苦悩の証であり、そして湊自身が未来へ進むための、道標だった。
窓の外が、白み始めている。夜明けの光が、古い本の背を静かに照らし出していく。
湊は、新しい一日が始まるのを感じていた。結衣のいない世界で、それでも生きていかなければならない。彼女の記憶という栞を、人生という本にそっと挟んで。
虚ろだったポストに、もう二度と手紙が届くことはないだろう。だが、湊の心には、結衣が遺した最後のデートの温もりが、確かに灯っていた。それは、悲しいほどに優しく、彼のこれからの道を照らす、消えない光となるはずだった。