琥珀の残光、霧の番人
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琥珀の残光、霧の番人

第一章 色彩なき路地

この街は、いつも薄い霧に包まれている。人々はそれを「記憶の霧」と呼んだ。昨日より前の出来事は、この霧に溶けるように曖昧になり、やがて完全に消え失せる。だから我々は、大切な記憶をインクと羊皮紙に、あるいは音声盤に刻みつけ、『記憶図書館』へと預ける。記録こそが、我々の存在の証だった。

俺、カイには、少しだけ人と違う世界が見えていた。

指先で古びたレンガの壁に触れる。途端に、網膜の裏で色彩が弾けた。黄金色の閃光は、ここで恋人たちが交わした歓喜の囁き。壁の染みから滲む深い藍色は、商談に敗れた男の落胆。俺の能力は、場所に残留する過去の「感情の圧力」を、色として視覚化するものだ。特に強い感情は、空気中に硝子の破片のように煌めき、結晶となって空間に痕跡を刻む。

だが、今日の路地裏は異様だった。いつもなら子供たちの笑い声が残した無数の小さな光の粒で満ちているはずの空間が、ぽっかりと刳り貫かれたように「無」だった。色がない。感情がない。まるで、そこだけ世界の生地が引き裂かれ、虚無が顔を覗かせているかのようだ。

足元に、何かが光を反射した。しゃがみ込んで拾い上げると、それは指先ほどの大きさの、完全に透明な石だった。琥珀に似ているが、内包物は何もない。ただ、氷のように冷たく、そして空虚だった。これが何なのか、俺はまだ知らなかった。ただ、胸を締め付けるような喪失感が、霧のように立ち込めていた。

第二章 記録の空白

「記録が存在しないのなら、その人物は存在しなかった。それがこの世界の法則よ」

記憶図書館の司書であるリナは、分厚い台帳を閉じながら、静かにそう告げた。彼女の背後に聳え立つ書架には、この街の全住民の「昨日までの記憶」が、膨大な書物となって眠っている。インクと古い紙の匂いが、厳粛な沈黙を支配していた。

「だが、確かにいたんだ」俺はカウンターに身を乗り出した。「昨日まで、あの部屋には老婆が一人で住んでいた。俺は彼女が窓辺で花に水をやる姿を、何度も見ている」

「あなたの記憶も、今朝の霧で薄れているはずよ、カイ。記録こそが真実なの」リナの瞳は、揺るぎない確信に満ちていた。

俺は図書館を出て、再びあの路地裏へと向かった。ポケットの中で、あの透明な石が冷たく鎮座している。諦めきれず、俺はその石を強く握りしめた。

その瞬間、脳内に閃光が走った。

それは映像ではなかった。もっと純粋な、感情の奔流。皺くちゃの手で、一枚の写真を慈しむ温かい愛情。遠い昔の子供たちの笑い声への、愛おしくて堪らない追憶。そして、最後に訪れた安らかな満足感。——ありがとう。

幻視から覚めると、俺の頬を涙が伝っていた。老婆は、確かに存在した。この石は、彼女が生きていた最後の証なのだ。リナの言った「法則」が、不気味な音を立てて軋むのを感じた。

第三章 連鎖する無色

それからだった。街のあちこちで、『完全な忘却者』が現れ始めたのは。

パン屋の陽気な主人。公園でいつも鳩に餌をやっていた老人。幼い子供の手を引いていた若い母親。彼らがいたはずの場所は、例外なく「感情の無」という空白地帯に変わり果て、そこには決まって、あの透明な石——『忘却の琥珀』が一つ、残されていた。

「何かがおかしいわ」

ある夜、リナが俺のアパートを訪ねてきた。彼女の顔は青ざめ、いつも自信に満ちた声は微かに震えていた。「記録が、消えているの。それも、まるで最初から存在しなかったかのように、前後の文脈まで綺麗に整合性が取られて……。こんなの、人の手でできる改竄じゃない」

彼女の手には、数日分の新聞が握られていた。忘却者が消えるたび、集合写真からその姿が消え、記事から名前が抹消されていた。まるで、世界そのものが彼らの存在を否定しているかのようだった。

俺たちは、集めた『忘却の琥珀』をテーブルに並べた。一つ一つに触れるたび、消えた人々の最後の記憶と感情が流れ込んでくる。それは、恐怖や憎悪ではなく、誰かへの感謝や、愛するものへの想い、ささやかな日常への満足感といった、温かい感情ばかりだった。彼らは、何かに襲われたわけではない。ただ、静かに世界から剥がれ落ちていったのだ。

第四章 存在のひび割れ

異変は、ついに記憶図書館の中心で起きた。

轟音と共に、巨大な書架の一部が、まるで蜃気楼のように揺らぎ始めた。そこに収められていたはずの何百冊もの記憶の書物が、端から塵のように崩れ、光の粒子となって霧の中へ消えていく。

「いけない!」

リナの悲鳴が響く。その空白の中心に、一人の老司書が立ち尽くしていた。彼の身体が、足元から透け始めている。存在そのものが希薄になっていくのが、俺の目にはっきりと見えた。

「マシロ先生!」

リナが駆け寄ろうとするが、見えない壁に阻まれるように前に進めない。俺は衝動的に走り出し、消えかかった老司書の腕を掴んだ。

触れた瞬間、俺の身体から、色とりどりの感情の光が奔流となって溢れ出した。それは、俺が今まで見てきた、この街のあらゆる人々の感情の残滓。その光が老司書の透けた身体に流れ込むと、彼の輪郭が僅かに、だが確かに濃くなった。

「やはり……君だったか……」老司書は、安堵したように微笑んだ。「『記憶の定着者』……」

彼の身体から、最後の力が抜けていく。俺の力でも、もはや引き止められない。

「君のその力は、世界の『ひび割れ』を修復する力だ。忘れるな……我々がなぜ、記憶を繋いできたのかを……」

言葉は途切れ、老司書の姿は完全に掻き消えた。彼のいた場所には、ひときわ大きく、そして悲しいほどに透明な『忘却の琥珀』が、ことりと音を立てて床に落ちた。

第五章 番人の宿命

マシロ先生が残した琥珀は、他のものとは違っていた。俺がそれに触れると、個人の記憶ではなく、この世界の「理」そのものが、巨大な知識の濁流となって流れ込んできた。

『記憶の霧』は、自然現象ではなかった。この世界が、増え続ける過去の記憶の重みに耐えきれず、自壊するのを防ぐための安全装置。人々が昨日までの記憶しか持てないのは、その巨大な忘却システムの副作用だった。

そして、『完全な忘却』は、システムの綻びだ。記録からも人々の意識からも消え、記憶の重荷から解放された魂が、世界の理から完全に剥がれ落ちてしまう現象——『存在のひび割れ』。

俺の能力は、そのひび割れを、他者の感情の記憶を触媒にして一時的に繋ぎ止める力。そして、俺自身は、この世界の忘却の法則が適用されない、たった一人の例外——『記憶の定着者』。

その使命は、あまりにも過酷だった。人々が霧の中に忘れていく、しかし決して失われてはならない歴史、文化、芸術、そして誰かを愛したという温かい記憶。その全てを、この身に刻み込み、たった一人で記憶し続けること。

俺は、この世界という巨大な図書館の、最後のページを守るために生まれた、孤独な『記憶の番人』だったのだ。

第六章 ただひとりの選択

「逃げてもいいのよ、カイ」

図書館の静寂の中、リナが震える声で言った。彼女もまた、マシロ先生が残した禁書から、世界の真実に辿り着いていた。

「そんな重荷、一人で背負うなんて……。誰もあなたを責めたりしないわ。だって、誰もあなたのことなんて、明日には忘れてしまうのだから」

彼女の言葉は優しさだった。そして、残酷な真実でもあった。俺がどれだけ苦しんでも、感謝されることも、記憶されることもない。永遠に、誰にも理解されない孤独が待っているだけだ。

俺は目を閉じ、集めてきた琥珀の感触を思い出す。パン屋の主人の、焼きたてのパンの香りと家族への愛情。老婆の、窓辺の花に注いだ優しい眼差し。マシロ先生の、知識を守り抜こうとした強い意志。

彼らは確かに生きていた。笑い、泣き、誰かを愛した。その記憶が、存在が、まるで最初から無かったかのように消え去っていいはずがない。

「いいや」俺は静かに目を開けた。「俺が、憶えている」

その一言に、全ての覚悟を込めた。

「彼らがここにいた証は、俺が憶えている。俺がこの世界の記憶になる。それが、俺の選んだ道だ」

リナの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。彼女は何も言わず、ただ深く、深く頭を下げた。それは、明日には忘れられてしまう、たった一人の番人への、最大限の敬意だった。

第七章 霧の中の光彩

幾年かの時が流れた。

俺は霧の街を一人、歩いている。すれ違う人々は、昨日までの記憶だけを頼りに、穏やかな今日を生きている。彼らは、自分たちの足元で、かつて無数の人々が生きていたことも、その日常が一人の犠牲の上に成り立っていることも知らない。

だが、俺には見える。

建物の壁には、過ぎ去った日々の歓喜が黄金の光彩となって刻まれ、石畳には、恋人たちの切ない想いが桜色の結晶となって煌めいている。街全体が、俺が記憶し続ける、忘れ去られた魂たちの輝きで満ち溢れていた。

それは、他の誰にも見えない、俺だけの世界の景色。

ポケットの中の『忘却の琥珀』を、そっと指でなぞる。それはもう透明な石ではない。俺の中の記憶と共鳴し、無数の色彩を宿した宝石となっていた。

空を見上げる。灰色の霧の向こうに、太陽の気配がした。孤独ではない。俺は、この世界に生きた全ての魂と共にいるのだから。

『記憶の番人』は、霧の中で、静かに微笑んだ。

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