第一章 色彩のない街
世界から『時計』が消えて、何度目の日の出だろうか。
人々は空の色と腹の虫で時を測り、待ち合わせは「次の鐘が鳴る頃」から「あの樫の木の影が、石畳の三枚目に届く頃」へと変わった。正確さを失った社会は緩やかに淀み、列車は来なくなり、工場の煙突は冷たい沈黙を保っている。
僕、相沢トキの目には、この不確かな世界が、奇妙な色彩で満ちて見えた。
人々が通り過ぎた後には、まるで陽炎のように揺らめく光の残像が漂う。それは彼らが失くした『時間』の断片。鮮烈な後悔を伴う記憶ほど、その色は濃く、深く、見る者の心を抉る。
街角のベンチに座る老婆の足元には、燃えるような緋色の残像が渦巻いていた。あれは、孫との約束の時間に間に合わず、たった一人の家族に別れを告げられなかった後悔の色だ。
僕は誘われるようにその光に指を伸ばしかけ、寸前で思いとどまる。
この光に触れれば、老婆の悲しみが僕の脳内に流れ込むだろう。そして代償に、僕の未来からランダムな一日が、綺麗に消し去られる。まるで初めから存在しなかったかのように。
首に下げた、銀の懐中時計の冷たさが肌に伝わる。祖父の形見だというそれは、秒針が永遠に十二を指したまま、壊れて久しい。僕は虚ろな目で、傾き始めた太陽が街に落とす長い影を眺めていた。この世界では、誰もが巨大な日時計の上を歩く、不器用な針なのだ。
第二章 止まったままの依頼人
「父が最後に何をしようとしていたのか、知りたいんです」
僕の前に座る女性、水瀬リオは、透き通るような声でそう言った。彼女の営む工房は、かつて時計の修理で有名だったらしい。だが今、壁に掛けられた工具の数々は、その使い道さえ忘れられ、静かな埃を被っている。
彼女の周りには、淡い勿忘草色の残像が霧のように漂っていた。それは深い喪失感と、届かなかった想いの色だ。
「父は、『時間』を取り戻そうとしていました。でも、どうやって? 時計という言葉さえ、今では誰も思い出せないのに」
リオの瞳が揺れる。彼女の一族は代々、時間を刻むことに生涯を捧げてきた。その記憶と誇りを根こそぎ奪われた喪失感は、計り知れない。
「あなたの不思議な力で、父の『失われた時間』を見てほしい。お願いです」
彼女の差し出した掌には、奇妙な輝きを放つ小さな石が握られていた。
『後悔石』。
人々が最も後悔した瞬間の感情が、地中で結晶化したもの。持ち主の未練を吸い取ると言われ、時計を失った世界で、心の拠り所として密かに流行していた。しかし、僕は知っている。あれは未練を吸うのではない。後悔の記憶を増幅させ、持ち主を過去に縛り付ける呪いの石だ。
「お父様の周りには、強い残光が残っているはずです。ですが、それに触れることには……代償が伴います」
「構いません」とリオは即答した。「止まったままの私を動かすためなら、どんな代償でも」
その真っ直ぐな瞳に、僕は何も言えなくなった。
第三章 後悔石の囁き
リオの案内で訪れた父親の書斎は、異様な空気に満ちていた。部屋の隅に積まれた木箱から、大小様々な後悔石が鈍い光を放ち、空気を重く歪ませている。まるで、無数の溜息が空間に飽和しているかのようだ。
「父は晩年、この石を集めることに夢中でした」
後悔石が過剰に集まると、周囲の時間の流れを歪ませる。この部屋だけが、外の世界から切り離されたように、時間の進みが遅く感じられた。壁の染み、床の傷、その全てが過去の瞬間にしがみついているようだった。
そして、僕は見た。
書斎の中央、古びた革張りの椅子の周りに、これまで見たこともないほど濃密な、紫水晶色の光の残像が渦を巻いているのを。それは、たった一つの強烈な未練と後悔が放つ光だった。
「これか……」
僕は思わず息を呑む。この光に触れれば、どれほどの過去が流れ込んでくるのか。そして、僕の未来から、どれほどの時間が奪われるのか。想像するだけで、足がすくむ。
リオが僕の袖をそっと掴んだ。彼女の指は小さく震えている。
「怖いですか?」
「……ええ」
「私もです。でも、知らなければ進めない」
僕は覚悟を決めた。首の懐中時計を強く握りしめる。この壊れた時計だけが、僕が僕であることの唯一の証明だった。
第四章 残光に触れる代償
紫水晶の光に、そっと指を差し入れる。
瞬間、世界が砕け散った。
激流のような記憶の奔流。リオの父の絶望が、僕自身の感情として叩きつけられる。彼は『時計』の概念を復活させようとしていた。後悔石のエネルギーを集め、時空に穴を穿ち、失われた『時間』の概念をこの世界に引き戻そうと足掻いていたのだ。
『時間を……取り戻せ……! 人類には秩序が必要なのだ!』
老人の最後の叫びが脳内に響き渡る。だが、彼の試みは強大すぎるエネルギーに耐えられず、暴走した時間の波に呑まれて、その命を散らした。
意識が現実に戻った時、僕は床に膝をついていた。激しい頭痛と喪失感。まただ。僕の未来が、ごっそりと抜け落ちた。今度の喪失は、いつもの一日分とは比較にならない。まるで、これから紡がれるはずだった物語の、最も美しい一章が丸ごと白紙になったような、途方もない空虚感だった。
リオと笑い合うはずだった公園のベンチ。彼女に渡すはずだった、小さな花束。その全てが、色を失った幻影となって消えていく。
その時だった。
チリリッ、と乾いた金属音が響いた。僕が握りしめていた懐中時計の内部で、止まっていたはずの歯車が、凄まじい勢いで逆回転を始めたのだ。文字盤の中央が淡く発光し、これまで記録してきた『失われた時間』の断片が万華鏡のように映し出され、やがて一つの映像を結んだ。
それは、僕が見たことのない、未来の光景だった。
第五章 未来からの手紙
ガラスと鋼鉄でできた、無機質な摩天楼。空は人工の光で覆われ、昼も夜もない。人々は皆、同じ灰色の服を着て、手首に埋め込まれたデバイスの指示通りに、一秒の狂いもなく歩いている。笑顔も、怒りも、悲しみもない。感情は非効率なバグとして処理され、人々はただ生きるために動く、完璧な歯車と化していた。
その光景の片隅に、一人の老人がいた。
深く刻まれた皺。濁った瞳。だが、その顔立ちは紛れもなく、老いた僕自身だった。
未来の僕は、壊れた懐-中時計を通して、過去の僕――今の僕に、静かに語りかけてきた。
『聞こえるか、若き私よ。その光景こそ、私が破壊した未来だ』
声は思考に直接響いた。
『人類は時間を管理しすぎた。効率を求め、生産性を崇拝し、心を失った。私は、その檻から人類を解放したかった。時間という絶対的な支配者を、この世界から消し去ることで』
衝撃の事実に、言葉を失う。『時計』を消滅させた犯人。それは、未来の僕自身だった。
『私が君に、その能力を与えた。他者の失われた時間に触れる力を。そして、多くの後悔の記憶を集めさせた。この壊れた時計は、そのエネルギーを蓄積し、時空を超えて過去に干渉するための鍵だ。君がリオの父の強大な後悔に触れた今、ついに条件は満たされた。過去が改変され、『時計』は世界から消滅したのだ』
つまり、僕が今まで行ってきたことは全て、未来の僕によって仕組まれた、壮大な計画の一部だったのだ。
第六章 秒針なき夜明け
真実を知り、僕は呆然と立ち尽くす。僕の目の前では、父の最期を知って静かに涙を流すリオがいた。
この混沌は、僕が望んだ世界。
この不便さは、僕が与えた自由。
だが、本当にこれは正しかったのだろうか。
未来の僕が壊した完璧な管理社会と、僕が作り出したこの不確かな無秩序。どちらが人類にとって真の幸福なのか、僕にはもう分からなかった。
工房の窓から、新しい朝の光が差し込んでくる。街からは、人々のざわめきが聞こえ始めた。日の出を合図にパン屋が釜に火を入れ、洗濯物を干す母親が子供を叱り、恋人たちが「次の影法師まで」と曖昧な約束を交わす声。
失われた秩序の代わりに、人々は不器用な思いやりを手に入れたのかもしれない。太陽の傾き、風の匂い、肌で感じる季節の移ろい。かつて時計の針が示していた無機質な記号は、今や五感で感じる豊かな世界そのものへと変わっていた。
僕は懐中時計をそっと胸元にしまう。秒針は、止まったままだ。
未来の僕は、人類を時間から解放したと言った。しかしそれは、新たな混乱と、緩やかな衰退の始まりでもある。
僕はリオに何も告げず、ただ昇り始めた太陽を見つめた。その眩しさに少しだけ目を細める。
この秒針なき世界で、僕たちはどんなエピローグを紡いでいくのだろう。その答えは、まだ誰にも分からない。ただ、止まった時計の冷たいガラスに映る夜明けの街並みは、不確かで、危うくて、それでいて不思議なほど美しかった。