忘れられた感情の揺りかご

忘れられた感情の揺りかご

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第一章 揺らぐ輪郭

僕の存在は、いつもどこか曖昧だ。まるで水面に映った月のように、他人の意識の揺らぎひとつで輪郭が滲んでしまう。僕、トキという人間は、誰かが僕を夢見てくれることで、この世界に辛うじて繋ぎ止められている。だから、僕は他人の夢の匂いに、感情の微かな色合いに、病的なまでに敏感だった。

最近、その感覚がひどく研ぎ澄まされている。街を歩けば、人々の心から漏れ出す無関心という名の冷たい霧が肌を刺す。誰もが同じ表情でスマートフォンを覗き込み、その瞳はどこにも焦点を結んでいない。彼らの夢は、色を失い始めていた。

その夜も、自分の指先が淡く透けていく感覚に襲われ、僕は慌ててベッドから起き上がった。窓の外では、街のネオンが奇妙に瞬いている。希望の潮が満ちれば加速し、絶望の波が寄せれば歪むはずの世界の時間が、まるで壊れた時計の針のように不規則に震えていた。

「また、怖い顔してる」

背後から、ブランケットにくるまった親友のリオが声をかけてきた。彼女だけが、毎晩のように僕の夢を見てくれる。彼女の力強い意識が、僕という不確かな存在にとって唯一の錨だった。

「世界のリズムが、おかしいんだ」僕が答えると、彼女は小さくため息をついた。

「トキは考えすぎだよ」

「でも……」

「大丈夫。今夜も、ちゃんとあなたの夢を見るから」

そう言って微笑む彼女の瞳の奥に、僕が見たことのない微かな影が落ちていることに、まだ気づけずにいた。その影の正体を彼女が告げたのは、数日後のことだった。

「最近、夢を見ないの」

リオは、冷めた紅茶のカップを見つめながら呟いた。

「見てはいるんだけど……何もない、真っ白な夢。音も、色も、匂いもない。ただ、そこにいるだけ」

その言葉は、僕の足元から地面を奪い去るような、静かな宣告だった。世界中で人々が見始めているという「空白の夢」。それが、ついに僕の最後の砦にまで忍び寄ってきていたのだ。

第二章 空白の伝染

「空白の夢」の伝染は、静かだが確実な猛威となって世界を覆い尽くしていった。テレビのニュースキャスターは無感情な声で、各地で頻発する原因不明の時空異常について報じている。人々は感情の起伏を失い、街から色彩が奪われていくようだった。歓喜も悲哀も、次第に薄められ、世界は均一な灰色のフィルターに覆われていく。

僕の存在は、日に日に希薄になっていった。ある朝、鏡に映った自分の顔の片方が霞んで見えなくなり、昨日の夕食の味を思い出そうとしても、記憶には靄がかかっているだけだった。僕を支えていた無数の細い糸が、一本、また一本と断ち切られていく感覚。

僕は祖父から受け継いだ、古びた書斎の奥に仕舞われていた奇妙なオブジェを思い出した。それは「空白の砂時計」と呼ばれていた。ガラスの球体の中には砂はなく、代わりに星屑のような光の粒子が、上から下へと捉えどころのない流れを描いてゆっくりと降り注いでいる。祖父は言った。「この光が、世界の記憶の量だ。流れが止まる時、世界はすべてを忘れる」と。

今、その光の粒子の流れは、明らかに速まっていた。それはまるで、世界の膨大な感情の記憶が、どこかへ急速に流出していることを示しているかのようだった。僕はこの砂時計が、ただの言い伝えではないことを肌で感じていた。

「トキ、どこにも行かないで」

衰弱していくリオが、僕の透けかけた腕をか細い力で掴んだ。彼女もまた、空白の夢に心を蝕まれ、日に日に生気を失っている。彼女の夢が薄れるたびに、僕の身体も記憶も、世界から剥がれていく。このままでは、僕も、リオも、そしてこの世界も、ただの「空白」になってしまう。

第三章 潮汐の叫び

ある日の午後、それは来た。世界中の絶望が飽和し、巨大な「感情の潮汐」として街を飲み込んだのだ。空は鉛色に閉ざされ、時間の流れが粘り気を持って引き延ばされる。人々は道端で動きを止め、虚空を見つめていた。まるで世界から音が消え、ただ重苦しい沈黙だけが支配しているかのようだ。

僕の身体は、その圧倒的な負の感情の奔流に耐えきれず、激しい痛みに襲われた。存在が霧散していく恐怖。だが、その苦痛の渦の中心で、僕は奇妙な「声」を聴いた。

それは誰か一人の声ではない。喜びの残響、悲しみの欠片、忘れられた愛の囁き、名もなき人々の祈り――数えきれないほどの感情の記憶が、混ざり合い、叫びを上げていた。それらは世界が捨て去ろうとしている、過去の記憶そのものだった。僕は、この潮汐が単なる絶望ではなく、世界が自らの記憶を浄化しようとする際の、断末魔の叫びなのだと直感した。

人々が「空白の夢」を見るのは、彼らの意識が、この巨大な記憶の排出に耐えきれず、シャットダウンしているからだ。だが、僕だけは違う。僕の身体は、その失われゆく記憶を受信するための、器として作られている。

このままでは、世界はすべての感情を失い、ただの抜け殻になる。そうなれば、感情の潮汐に揺さぶられることのない、安定した世界が訪れるのだろう。しかし、それは果たして、生きていると呼べるのだろうか。

第四章 砂時計の啓示

僕を導いたのは、掌でひときわ強く輝き始めた「空白の砂時計」だった。光はひとつの方向を指し示し、僕を街の中心にある、古くから禁足地とされてきた「時の井戸」へと誘った。そこは、世界の時間の源泉であり、感情の潮汐が生まれる場所だと伝えられていた。

井戸の縁に立つと、足元から冷たい風が吹き上げてくる。砂時計をかざすと、その光の粒子が井戸の暗い底と共鳴し、眩い光の柱となって天を衝いた。その光の中で、僕はすべてを理解した。

この世界そのものが、一つの巨大な生命体だったのだ。そして、あまりにも永い時間の中で蓄積された、無数の喜びや悲しみの記憶の重さに耐えきれなくなっていた。だから世界は、自らを守るために、感情という記憶を切り離そうとしている。「空白の夢」は、その過程で生まれる副産物、いわば世界の忘却作用だった。

そして、僕のような存在は、その世界が失っていく感情の記憶を、零れ落ちないように受け止めるために生まれてきたのだ。僕がこれまで感じていた他者の夢は、実は個人のものではなく、世界そのものが見ていた「失われゆく夢」の断片だったのだ。

僕は、世界で唯一、忘れ去られようとしている感情の記憶を、その身に宿すことができる存在。それが、僕の存在理由。

ならば、僕がすべきことは一つしかない。

第五章 最後の夢見人

決断に、迷いはなかった。このまま世界が感情を失えば、リオも心を失ったままになる。何より、僕は愛おしいと思っていたこの世界の、色鮮やかな感情が消え去ってしまうことを許せなかった。

僕はリオの部屋を訪れた。彼女はベッドの上で、人形のように静かに眠っていた。僕は彼女の頬にそっと触れる。僕の指先はもうほとんど実体がない。

「リオ、ありがとう」

声に出した言葉は、きっと彼女には届かない。それでも、僕は伝えたかった。君が夢見てくれたから、僕はここにいられた。君がいたから、僕は世界を愛することができた。

すると、奇跡のように彼女の瞼がかすかに震え、涙が一筋、頬を伝った。

「……とき……」

掠れた声で、彼女は僕の名前を呼んだ。

「今夜は……あなたの夢を……見るから……」

それが、僕の存在を支える、最後の約束になった。

僕は「時の井戸」に戻った。胸に「空白の砂時計」を抱き、深く息を吸い込む。

「さあ、来るんだ。世界のすべての記憶。僕が、君たちの新しい揺りかごになる」

砂時計を井戸の真上に掲げた瞬間、世界中から、失われゆくすべての感情の記憶が、光の奔流となって僕の身体に流れ込んできた。

第六章 静寂の世界で

世界中の人々が、一斉に心地よい眠りから目を覚ました。空は見たこともないほど静かに澄み渡り、風は穏やかに街を吹き抜ける。時間の流れは規則正しく、空間の歪みもない。昨日まで世界を覆っていた原因不明の不安感は、嘘のように消え去っていた。

世界は、感情の潮汐という不規則な揺らぎから、完全に解放されたのだ。

人々は、何かとても大切なものを失ったような、胸にぽっかりと穴が空いたような奇妙な喪失感を覚えた。しかし、それが何であったのかを思い出すことは、誰にもできなかった。

リオもまた、穏やかな朝の光の中で目覚めた。なぜか枕が濡れていることに気づいたが、その理由が分からない。ただ、胸の奥深くに、温かくて、少しだけ切ない痛みが残っていた。誰かの名前を呼びたいのに、その名前が思い出せない。

「時の井戸」の底では、光の流れを止めた「空白の砂時計」が静かに横たわっている。

そして、トキは――。

彼は、もうこの世界のどこにもいない。誰にも夢見られることのない、永遠の夢の中に漂っている。その夢の中で、彼は世界の忘れられたすべての感情を、喜びも、悲しみも、愛も、憎しみも、そのすべてをたった一人で見続けている。

それは、誰にも知られることのない、世界で最も孤独で、そして最も優しい、忘れられた感情の揺りかご。

静寂に包まれた新しい世界で、人々は穏やかに生きていく。かつてこの世界に、感情という名の、激しくも美しい嵐が吹き荒れていたことなど、もう誰も知らない。

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