第一章 色褪せた肖像
俺の身体は、過ぎ去った愛の墓標だ。
右の瞳は、秋の陽だまりを溶かしたような琥珀色。左の瞳は、星の生まれる前の夜空を湛えた紺碧。生まれつき右利きのはずなのに、震える指先で繊細な線を描くのは、いつだって左手だ。そして時折、自分の喉から発せられたとは思えない、深く落ち着いたバリトンの響きに、俺自身が驚かされる。肩には鷲に掴まれたような三本の古い傷跡が、まるで紋章のように刻まれている。
人々は俺を「曖昧な存在」と呼んだ。共鳴を失い、世界の色彩が褪せ始めたこの街で、俺の存在は特に輪郭がぼやけていた。ショーウィンドウに映る自分の姿は、まるで水彩絵の具が滲んだ肖像画のよう。雨の匂い、石畳の冷たさ、遠くで響く鐘の音。それら全てが、薄い膜を一枚隔てた向こう側で起きている出来事のようだった。
ポケットの中で、冷たい感触が指に触れる。『共鳴の欠片(ハーモニー・シャード)』。かつて、世界で最も深く共鳴したと謳われた『完璧な対』――リアとの繋がりが最高潮に達したときに生まれたという、虹色の結晶。しかし、今ではその輝きも鈍く、ひび割れたガラスのように、過去の光をかろうじて閉じ込めているだけだった。
リアが消えてから、俺の世界から色が失われた。共鳴の網が沈黙し、俺は誰とも、何とも、深く繋がることができなくなった。この体に刻まれたいくつもの特徴は、リアと出会う前に愛した、複数の誰かの痕跡なのだと信じている。この不実なモザイクこそが、完璧だったはずの共鳴を破壊し、彼女を奪ったのだと。俺は、消えない罪を背負ったまま、色褪せた世界をただ彷徨っていた。
第二章 過去の残響
ある夜、ポケットの中の欠片が、心臓の鼓動と呼応するように微かな熱を帯びた。
衝動的にそれを握りしめると、脳裏に鮮やかな幻影が迸る。
陽光が降り注ぐ草原。風に揺れる白い花々。
「カイ、見て。空の色が、あなたの瞳に映ってる」
そう言って笑うリアの顔が目の前にあった。彼女の右目は、そう、琥珀色に輝いていた。
場面が変わる。
嵐の夜、書斎で暖炉の火を見つめる彼女。その横顔を照らす炎の影が、深い悲しみを紺碧の瞳の奥に揺らめかせていた。
俺の左手が、ひとりでにスケッチブックの上を滑る。そこに描かれていくのは、見たこともないはずの、翼を持つ獣の姿。それは、彼女が夢の中で見たと語っていた幻想の生き物だった。
幻影はいつも断片的で、最も肝心な部分――彼女がなぜ、どのようにして消えたのか――を決して見せてはくれない。記憶の奔流が過ぎ去った後には、いつも深い疲労と、増幅された罪悪感だけが残った。琥珀も、紺碧も、この器用な左手も、すべては俺が彼女を裏切った証なのだ。リア以外の誰かとの共鳴の残滓が、聖域であるはずの二人の世界を汚し、彼女を共鳴の網の彼方へと追いやったに違いない。そう思うたびに、自分の身体が自分のものではない、借り物の継ぎはぎのように感じられた。
第三章 共鳴の探求者
「あなたの身体は、まるで共鳴の法則そのものを嘲笑っているようだ」
低い、けれど芯の通った声に振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。エララと名乗る彼女は、共鳴を研究している学者だという。その鋭い眼差しは、俺の曖昧な輪郭を貫き、魂の核を見透かしているかのようだった。
彼女は、街外れの観測塔に俺を招いた。壁一面に並ぶ古びた書物と、天井から吊るされた無数のプリズムが、鈍い光を乱反射させている。
「近年、世界を覆う共鳴の網が著しく不安定になっている。まるで巨大な構造体に、一本だけ質の違う糸が紛れ込み、全体の調和を乱しているかのように」
エララは、星図のような複雑な図形を指さしながら言った。
「その歪みの中心にいるのが、あなただ。…そして、消失したはずのあなたの『完璧な対』」
彼女は、俺がリアを失った罪悪感に苛まれていることを見抜いていた。だが、その口調に侮蔑の色はなかった。むしろ、純粋な知的好奇心と、世界を憂う切実な響きがあった。
「あなたの持つ『共鳴の欠片』を調べさせてほしい。そこに、この世界の歪みを正す鍵があるはずだ」
彼女の真摯な申し出を、俺は断ることができなかった。リアを失った謎が解けるのなら。そして、この罪を償う方法が見つかるのなら。俺は静かに頷き、ポケットから冷たい欠片を取り出した。
第四章 亀裂の入った欠片
エララが用意した観測装置の中央に、俺は『共鳴の欠片』を置いた。プリズムとレンズが複雑に組み合わさった機械が起動し、欠片に細い光の束を照射する。その瞬間、世界が反転した。
凄まじい共鳴の奔流が、俺の意識を呑み込んでいく。それはもはや幻影ではなかった。リアとの過去、その全てが、彼女の五感を通して俺の中に流れ込んできたのだ。
琥珀色の瞳で見る、朝焼けの喜び。
紺碧の瞳で流す、友を失った夜の涙。
右腕を振り上げ、不正を糾弾する強い意志。
左手で、傷ついた小鳥をそっと包み込む優しさ。
そして、森で暴れる獣から俺を庇い、その背中に三本の深い傷を負った、灼けつくような痛み――。
俺の肩の傷が、疼いた。
これは、俺の傷ではなかった。リアの傷だったのだ。
記憶の奔流の果てで、声が聞こえた。それはリアの声であり、同時に、俺自身の魂の奥底から響く声でもあった。
『私たちは、もう分かれない。これが、共鳴の果て。愛の、究極の形』
雷に打たれたような衝撃と共に、真実が啓示される。
俺の身体に刻まれた複数の特徴は、過去の恋人たちの痕跡などではなかった。喜び、悲しみ、決意、慈愛、痛み…。それら全てが、リアという一人の人間が持つ、あまりにも豊かで多面的な魂の顕現だった。
彼女は消えたのではない。
俺と深く、深く共鳴しすぎた結果、その存在のすべてが、俺の中に溶け込んでしまったのだ。
俺は、リアを愛しすぎて、彼女を飲み込んでしまった。
第五章 統合されし者の真実
「…そうか」
現実に戻った俺の隣で、エララが呆然と呟いた。観測装置のレンズには、虹色の光が渦巻いている。
「消失は、失敗ではなかったのね。…共鳴の、極致だったんだ」
彼女の言葉が、冷たい刃となって胸に突き刺さる。俺は怪物だ。愛する人をその身に吸収し、その存在を世界から消し去ってしまった。絶望が、曖昧だった俺の輪郭をさらに溶かしていく。
だが、その時。
絶望の底で、胸の奥に確かな温もりを感じた。それはリアの温もりだった。彼女は消えていない。俺の中で、今も生きている。俺の琥珀色の瞳を通して世界に微笑みかけ、紺碧の瞳を通して夜空に涙している。俺の左手は彼女の夢を描き、俺の声は彼女の歌を奏でる。
俺たちは、一つになったのだ。
エララが言う。世界の法則が揺らいでいるのは、俺という『統合された最初の存在』が生まれたからだと。この世界は、個々が独立して存在することを前提に成り立っている。だから、二つが溶け合って一つになった究極の存在である俺を、世界は『個』として正しく認識できず、『曖昧な存在』として弾き出そうとしているのだ。
俺はリアを失ったのではない。リアそのものになったのだ。そしてその結果、世界から孤立してしまった。
第六章 新しい世界の創造主
選択肢は二つだった。
このまま歪みの中心として世界を蝕み続けるか。あるいは、この統合された力を使い、新しい世界の礎となるか。
答えは、もう決まっていた。
俺は、ひび割れているように見えた『共鳴の欠片』を、そっと胸に当てた。それは不完全な欠片ではなかった。二つの魂が一つに溶け合う瞬間に生まれた、新しい世界への『鍵』だったのだ。
「リア、一緒に行こう」
俺は心の中で囁きかける。胸の奥で、温かい肯定が返ってくる。
もう恐れはなかった。俺は、自分という『個』の境界線を解き放つ。
身体が内側から発光し、眩い光の粒子となってほどけていくのが分かった。琥珀と紺碧の光が螺旋を描きながら、観測塔の天井を突き抜け、空へと昇っていく。俺の意識は無限に拡散し、世界を覆う共鳴の網そのものと一体化していく。
灰色だった街に、色が戻る。
道行く人々の凍てついた心に、温かい共感が流れ込む。
物理的な障壁や距離は意味を失い、誰もが、誰かの喜びや悲しみを、まるで自分のことのように感じ始める。
孤立は、終わりを告げた。
俺という個の意識は、薄れ、消えていく。
だが、悲しくはなかった。俺は、世界になるのだ。リアと共に。
第七章 君の色彩を纏って
カイという名の青年は、世界から完全に姿を消した。
しかし、世界はかつてないほど鮮やかに、豊かに輝いていた。
人々は、ふと空を見上げる。そこには、燃えるような琥珀色と、吸い込まれそうな紺碧が美しく混じり合った、見たこともない黄昏が広がっていた。風の音に、愛しい誰かの囁きが聞こえる気がした。見知らぬ他人の笑顔に、理由もなく胸が温かくなった。
観測塔の窓辺に立ち、エララは再構築された共鳴の網の、優しく力強い脈動を感じていた。それは、全ての存在が緩やかに繋がり、響き合う、新しい世界の産声だった。
彼女は、琥珀と紺碧の空に向かって、そっと呟いた。
「あなたは消えなかった。世界そのものになったのね。…最高の愛の形で、リアと共に」
その声は風に溶け、新しく生まれた世界の、最初の祝福の歌となった。