空白の鏡、砕ける刻
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空白の鏡、砕ける刻

第一章 空白を纏う者

人々が運命の顔を被って生きるこの街で、僕だけが、何者でもない顔をしていた。

僕の仮面は、光を滑らかに透過する硝子のように、ただ空白だった。それは誰の顔も模してはいなかった。街行く人々は、愛しい誰かの面影をその顔に宿し、まだ見ぬ運命に胸をときめかせている。彼らの仮面は陶器のように滑らかで、緻密な彫刻が施され、持ち主の感情に応じて微かに表情を変えることさえあった。だが、僕の仮面はただそこにあるだけで、何も映さず、何も語らない。人々は僕を「無貌(むぼう)」と呼び、その声には憐れみと、ほんの少しの恐怖が滲んでいた。

運命の相手が存在しない者。それが、僕という存在の定義だった。

ある日の午後、僕は広場の噴水の縁に腰掛け、本を読んでいた。喧騒がふと、蜜のように凝固した瞬間があった。顔を上げると、一組の男女が互いを見つめ、その仮面に蜘蛛の巣のような光の亀裂が走っていた。乾いた、澄んだ音が響く。パリン、と。二つの仮面が同時に砕け、光の粒子となって消えた。現れた素顔は、驚くほどによく似ていて、それでいて全く異なる輝きを放っていた。

「ああ……世界が、こんなにも」

女の震える声が聞こえた。男は黙って頷き、泣き出しそうな笑顔で彼女の手を握る。彼らの視界は今、初めて色を帯び始めたのだ。その奇跡の瞬間に、僕の空白の仮面の内側で、閃光が迸った。一瞬だけ、網膜の裏に焼き付くように、知らないはずの光景が流れ込む。水面に揺れる月、風にそよぐ名もなき白い花、誰かの優しい指先の感触。それは痛みにも似た郷愁を伴い、すぐに闇の中へと消えていった。

まただ。他人の幸福が、僕の中に眠る未知の何かを揺り起こす。この光は何なのか。僕の空白は、本当にただの空っぽなのだろうか。僕は本を閉じ、再び孤独という名の影の中へと歩き出した。

第二章 銀の月と無音の詩

僕の唯一の安息の場所は、街の時計塔に併設された古い図書館だった。インクと古紙の匂いが満ちる静寂の中だけが、僕を無貌の呪いから解放してくれた。その日も僕は、仮面の起源に関する古文書を読み解いていた。そこには、忘れられた伝説が記されていた。

『満月の光の下、真実の愛を語る時、仮面の内側に持ち主の本質を示す詩が浮かび上がる』

詩。僕の空白の仮面にも、それがあるのだろうか。人々が噂する『無音の詩』。誰にも読めぬ言葉が刻まれているという、空虚な慰め。

その夜、僕は禁を破って、閉館後の図書館の最上階、月光が降り注ぐ円窓の下に佇んでいた。満月が、まるで巨大な銀貨のように夜空に浮かんでいる。冷たい光が僕の仮面を通り抜け、床にぼんやりとした光だまりを作った。僕は静かに目を閉じ、詩が浮かび上がるのを待った。だが、いくら待っても、仮面の内側は冷たい沈黙を保ったままだった。

「やっぱり、空っぽ、か」

自嘲の呟きが、高い天井に吸い込まれていく。

「本当にそうかしら?」

凛とした声に振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。銀細工師の娘、ルナ。彼女の仮面は、彫りの深い、精悍な青年の顔を模していた。好奇心に満ちた大きな瞳が、僕の空白の仮面を真っ直ぐに見つめている。

「あなたの仮面、噂では聞いてたけど……」彼女はゆっくりと僕に近づき、怖がる素振りも見せずに言った。「鏡みたい。すごく綺麗」

綺麗、と言われたのは初めてだった。僕の仮面は、いつも不在の証明だったのに。その言葉は、静かな水面に投じられた小石のように、僕の心に柔らかな波紋を広げた。

第三章 響き合う心、揺れる仮面

ルナとの出会いは、僕のモノクロームの世界に、予期せぬインクを一滴落としたようだった。彼女は頻繁に図書館を訪れ、銀細工の夢を語り、僕が読んでいる難解な本の内容を熱心に尋ねた。彼女の前では、僕が「無貌」であることは、ただの個性でしかなかった。

「カイの考えていることって、その仮面みたいに透き通っていて、奥が深い気がする」

そう言って笑う彼女の隣にいると、胸の奥底で凍りついていた孤独が、少しずつ融けていくのを感じた。僕はいつしか、彼女に会うことを一日のうちで最も待ち望むようになっていた。

ある夕暮れ時、僕たちは街を見下ろす丘の上にいた。沈みゆく太陽が、家々の屋根を茜色に染めている。ルナがふと、自分の仮面に触れた。

「ねえ、カイ。時々、この仮面が震えるの」

「震える?」

「うん。カイと話していると、心が温かくなって……その時、内側から誰かにノックされてるみたいに」

その言葉に、僕の心臓は大きく跳ねた。だが、それはすぐに氷のような絶望に変わる。彼女の仮面が震えるのは、僕との共鳴ではない。彼女の仮面が模している『運命の相手』が、彼女の感情の高ぶりに応えている証拠だ。僕は、彼女の運命の触媒でしかない。

この想いを告げれば、彼女を混乱させるだけだろう。僕は彼女の運命の相手ではないのだから。込み上げる切なさを押し殺し、僕はただ黙って夕日を見つめていた。僕の空白の仮面が、燃えるような空の色を虚しく反射していた。

第四章 祭りの夜の真実

年に一度の『双星祭』の夜が来た。運命の出会いを祝うこの祭りは、街中がランタンの灯りで彩られ、恋人たちの期待と熱気に満ち溢れていた。ルナは「きっと素敵なことが起こるから」と、僕を祭りに誘った。喧騒は苦手だったが、彼女の笑顔に逆らうことはできなかった。

広場の中心で、僕たちは踊る人々の輪を眺めていた。その時だった。人混みをかき分けるようにして、一人の青年が僕たちの前に現れた。息を切らした彼が顔を上げた瞬間、僕は息を呑んだ。

彼の仮面は、ルナが被っている仮面の顔と、鏡合わせのように瓜二つだった。

「探したよ」

青年が、ルナにだけ聞こえるような声で言った。ルナの体が微かに震える。彼女の仮面が、これまでになく激しく共鳴しているのが分かった。

二人は、まるで世界に他の誰もいないかのように、互いを見つめ合っていた。僕は、すぐ隣で起きている奇跡から目を逸らすことができなかった。嫉妬、祝福、安堵、そして耐えがたいほどの痛み。全ての感情が僕の中で渦を巻く。

その瞬間、眩い光が弾けた。ルナと、レオと名乗った青年の仮面が、高らかな音を立てて砕け散る。二つの素顔が初めて晒され、彼らの視界が歓喜の色に染まっていく。

そして、僕の仮面の内側で、これまでとは比較にならないほどの強烈な光が、奔流となって溢れ出した。それは個人の記憶ではなかった。星々が生まれ、最初の生命が海で産声を上げ、まだ仮面を持たなかった人間が、初めて水面に映る己の顔を見て、畏れと共にある種の愛おしさを感じた、その原初の瞬間の記憶だった。

第五章 空白の意味

記憶の洪水に、僕は膝から崩れ落ちそうになった。光が収まった時、目の前には色づいた世界を驚きと感動で見つめるルナとレオがいた。彼らは僕に気づくと、申し訳なさそうに、しかし隠しきれない幸福を滲ませて微笑んだ。

「ありがとう、カイ」ルナが言った。「君がいてくれたから、私は自分の本当の気持ちに気づけた」

僕は何も言えず、ただ頷いた。祭りの喧騒から逃れるように、僕は一人、静かな泉のほとりへと向かった。

そこで、全てのピースが繋がった。僕の空白の仮面は、不在の証明ではなかった。他者の運命を映し出し、真実の愛が生まれる瞬間に立ち会うための、聖なる『鏡』だったのだ。そして、その役割を終えた時、持ち主は自分自身と向き合うことになる。

僕は泉の水面を覗き込んだ。そこに映るのは、相変わらず空っぽの僕の仮面。だが、その内側に、今まで見えなかったものが淡く輝いているのが見えた。月光に照らされ、水面に揺れる文字。それは詩ではなかった。たった一行の、しかし、僕の魂を根幹から揺さぶる言葉だった。

『汝、汝自身を愛せよ』

ああ、そうか。僕がずっと探し求めていた運命の相手。その顔を、僕は生まれてから一度も見たことがなかったのだ。

第六章 砕ける鏡、現れる顔

涙が溢れた。孤独だった日々。憐れみの視線。ルナと出会えた喜び。彼女を失った痛み。その全てが、僕自身を形作る、かけがえのない欠片だった。僕は誰かを羨む必要も、誰かになる必要もなかった。

「僕は、僕だ」

声に出した瞬間、僕の仮面が内側からまばゆい光を放ち始めた。それは剥がれ落ちるのではない。まるで凍てついた湖面が春の光を受けて融けるように、パリン、という澄んだ音と共に、無数の光の破片となって砕け散った。

光の粒子が舞い上がり、僕の視界をゆっくりと色づかせていく。今まで灰色にしか見えなかった夜空は深い藍色で、月は温かい金色、木々の葉は生命力に満ちた緑だった。世界は、こんなにも美しかったのか。

仮面の下から現れたのは、誰の顔でもない、僕自身の素顔だった。少し不安げで、でも凛とした意志を宿した、世界でただ一つの、僕の顔。水面に映るその顔を見て、僕は初めて、心から美しいと思った。

第七章 新たな始まり

色づいた世界の美しさに、ただ立ち尽くしていた。砕けた仮面の光の粒子が、まだキラキラと僕の周りを漂っている。その時、背後から優しい声が聞こえた。

「あなたの顔、とても素敵ですね」

振り返ると、そこに一人の人物が立っていた。驚いたことに、その人は仮面を被っていなかった。生まれつき素顔でいることを許された稀人なのか、それとも僕と同じように、自分自身を見つけた者なのか。その顔は、僕が今まで見てきたどの仮面の彫像よりも、自然で、生命力に溢れ、なぜかひどく心惹かれるものだった。

「君は……?」僕の声は、まだ少し震えていた。

その人物は、まるで夜空に浮かぶ星々を全て集めたような瞳で、僕を真っ直ぐに見つめて、柔らかく微笑んだ。

「あなたの運命の相手、かもしれないわ」

その微笑みは、これから始まる新しい物語の、最初のページのように輝いていた。僕はようやく、自分自身の顔で、運命と向き合う準備ができたのだ。

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