逆流する砂と忘れられた心音
第一章 硝子の心音
僕、相沢アキトは、路地裏でひっそりと古物商を営んでいる。僕にとって品物は、単なる過去の遺物ではない。それに触れると、持ち主の心臓の鼓動が微かな残響となって伝わってくるのだ。そしてその鼓動は、その人が最も深く愛した対象――人物、場所、あるいは概念でさえ――の幻影を、僕の網膜に映し出す。それは祝福であり、呪いでもあった。他人の最も純粋な愛情に触れるたび、僕は自分の心の空虚さを突きつけられるようで、いつしか人との間に見えない壁を作るようになっていた。
その日、店のドアベルがちりん、と澄んだ音を立てた。入ってきたのは、雨上がりの紫陽花のような、儚さと瑞々しさを併せ持った女性だった。彼女はミナと名乗った。店の中をゆっくりと見て回り、やがて埃を被った棚の隅に置かれた、一つの小さな砂時計に目を留めた。
「これ……なんだか、懐かしい気がするんです」
くびれた硝子の胴体、それを支えるのは古びた黒檀の枠。ミナが細い指でそっとそれに触れた瞬間、僕はたまらない衝動に駆られた。彼女の心音を聞いてみたい。彼女が最も愛するものは、一体何なのだろうか、と。
「お気をつけください。古いものですから」
僕は彼女に近づき、砂時計を支えるふりをして、偶然を装い彼女の手に指を触れさせた。その瞬間、世界が音を失った。僕の耳に届くのは、ただ一つ。ドクン、ドクンと、静かに、しかし力強く響く彼女の心臓の鼓動だけだった。
第二章 知らない君の幻影
鼓動の波が僕の意識を満たす。目の前に、幻影がゆらりと立ち昇った。
それは、見知らぬ青年だった。
陽だまりのような優しい笑みを浮かべ、少し癖のある髪を風になびかせている。彼は誰かに向かって、愛おしそうに手を差し伸べていた。その眼差しは、僕が今まで視てきたどんな愛情の幻影よりも深く、純粋で、揺るぎないものに思えた。
衝撃で息が詰まる。僕がミナに感じた、あの瞬間のときめきは、残酷な真実の前に脆くも砕け散った。彼女の心は、この見知らぬ青年によって完全に満たされているのだ。
「……どうかしましたか?」
ミナの怪訝そうな声で、僕は我に返った。幻影は掻き消え、目の前には心配そうに僕を覗き込む彼女の顔があるだけだった。僕は慌てて手と離し、曖昧に笑ってごまかす。
それから、ミナは時々店に顔を出すようになった。僕たちは他愛もない話をした。好きな本のこと、雨の匂いのこと。話すほどに僕は彼女に惹かれていったが、同時に、あの幻影が胸に突き刺さったままだった。奇妙なのは、ミナ自身の言動だった。彼女は時折、何かを必死に思い出そうとするかのように眉をひそめ、遠い目をする。
「時々、頭の中に靄がかかったみたいになるんです。何かとても大切なことを忘れているような……そんな気がして、苦しくなるの」
彼女は、自分が最も愛するはずの青年の記憶を、失っているようだった。記憶を失いながらも、その愛だけが心の奥底で燃え続けている。そんなことが、あり得るのだろうか。この世界の法則は、愛する者と離れれば、記憶は薄れていくはずなのに。
第三章 逆流する砂
僕は、ミナが惹かれたあの砂時計について調べることにした。古文書を紐解くと、それは『共鳴の砂時計』と呼ばれる、一対で作られた特別な品であることが分かった。伝説によれば、愛し合う二人が別れる際に一つずつ持ち、互いの存在の証とするものだという。
そして、そこには恐ろしい記述があった。
『二人が離れる距離と時間に比例して、砂は未来から過去へと逆流する。砂が消えゆくにつれ、互いの記憶もまた薄れていく』
僕は店の隅にある砂時計を手に取った。目を凝らすと、確かに、下の受け皿から上の漏斗へと、数えるほどの砂粒がゆっくりと、しかし確実に昇っていくのが見えた。まるで時間を拒絶するように。
この砂時計は、ミナのものなのだろうか。だとすれば、彼女が愛する「幻影の男」もまた、対となる砂時計を持っているはずだ。二人は離れ離れになり、互いの記憶を失いつつある。それでもなお、彼女の無意識は、彼のことを最も深く愛している。
「この砂時計を見ていると、胸が締め付けられるの」
ある日、ミナがぽつりと言った。
「暖かいのに、すごく、すごく悲しい気持ちになる」
彼女の潤んだ瞳を見ていると、僕の心は決まった。自分の叶わぬ恋心はどうでもいい。ただ、彼女をこの記憶の霧から救い出してあげたい。彼女が本当に愛する人と、再会させてあげたい。その一心だった。
第四章 欠けた記憶のパズル
決意を新たにしたものの、手がかりは何もない。僕は半ば諦めにも似た気持ちで、店の倉庫の整理を始めた。何年も開けていない古い桐の箪笥。その一番下の引き出しが、何かに引っかかって開かなかった。力を込めて引き抜くと、奥から小さな木箱が一つ、ごとりと音を立てて転がり落ちた。
埃を払い、蓋を開ける。
その瞬間、僕は息を呑んだ。
そこにあったのは、ミナが持っていたものと全く同じ意匠の、『共鳴の砂時計』だった。僕の店の、僕の持ち物の中に、対となる片割れが存在したのだ。そして、その砂時計もまた、静かに砂を逆流させていた。
なぜ、こんなものがここに?
僕が砂時計の冷たい硝子に触れた、その時だった。
―――ドクンッ!
自分の心臓が大きく跳ねた。激しい頭痛と共に、記憶の奔流が脳裏を駆け巡る。
潮風の匂い。夕日に染まる砂浜。隣で笑う、ミナによく似た女性の横顔。僕の手には、今手にしているものと同じ砂時計が握られている。
『必ず、迎えに行くから』
誰かの声が響く。それは、僕自身の声だった。
『待ってる。いつまでも』
女性が答える。
映像が途切れる。僕は床に膝をつき、荒い息を繰り返した。汗が額を伝い、心臓が警鐘のように鳴り響いている。
パズルのピースが、恐ろしい速度で組み上がっていく。
ミナの心音が映し出した、あの陽だまりのような笑顔の青年。
僕の失われた記憶の中で、ミナに似た女性に別れを告げた青年。
それは、同一人物だった。
ミナが愛していた「幻影の男」は、他の誰でもない。
記憶を失う前の、僕自身だったのだ。
第五章 二つの心音が重なる時
僕は砂時計を握りしめ、店を飛び出した。雨上がりの濡れたアスファルトを蹴り、ミナのアパートへと走る。どうして忘れていた? 何があった? 多くの疑問が渦巻くが、今はどうでもよかった。ただ、彼女に会わなければ。
ドアを叩くと、驚いた顔のミナが現れた。僕は息を切らしながら、震える手で自分の砂時計を彼女に見せた。彼女の目が、僕の持つ砂時計と、部屋のテーブルに置かれた彼女の砂時計とを、交互に見つめて大きく見開かれる。
「これは……」
「ミナ、思い出してほしい」
僕は彼女の前に進み出て、二つの砂時計をテーブルの上に並べた。そして、ゆっくりと彼女の手に自分の手を重ねる。あの日と同じように。
ドクン、ドクン。
二つの心臓が、まるで失われた片割れを探し求めていたかのように、同じリズムを刻み始めた。
僕は目を閉じ、意識を集中させる。僕の鼓動よ、届け。僕が愛していた君の記憶を。
すると、目の前に再び幻影が現れた。夕日に染まる海辺で、悲しげに微笑むミナの姿だった。
その瞬間、ミナがはっと息を呑むのが分かった。
「あなたなの……?」
彼女にも見えているのだ。僕の心音が映し出す、彼女を愛していた「過去の僕」の幻影が。
二つの砂時計が、共鳴するかのように淡い光を放ち始める。そして、奇跡が起きた。永劫にも思えた時間を遡っていた砂が、ぴたり、とその動きを止めたのだ。一瞬の静寂。やがて、さらさらと音を立て、今度は上から下へ――未来へと、時を刻み始めた。
失われていた記憶が、堰を切ったように二人の中に流れ込む。
あの日、僕たちは互いの将来のため、一時的に離れることを決めた。遠い場所へ旅立つ僕に、ミナはこの砂時計を渡してくれたのだ。「記憶が薄れても、この砂時計が私たちを繋いでくれる」と信じて。しかし、旅の途中で僕は事故に遭い、ミナに関する記憶だけを綺麗に失ってしまった。世界の法則は、物理的な距離だけでなく、心の距離によっても加速する。僕が彼女を忘れてしまったことで、彼女の中から僕の記憶もまた、急速に失われていったのだ。
「アキト……」
涙を流す彼女の声が、僕の名前を呼ぶ。
「ミナ」
僕もまた、彼女の名前を、初めて正しく呼べた気がした。
第六章 これからを刻む時間
僕たちは、どちらからともなく抱きしめ合っていた。失われた時間の重みが、互いの体温を通して伝わってくる。
「君がずっと愛していたのは、僕だったんだね」
「あなたが見ていた幻も、私だったのね……」
再会するまで、どれほどの孤独な夜を過ごしたのだろう。記憶の霧の中で、名前も顔も分からない誰かを想い続けることは、どれほど辛かっただろう。僕が彼女を忘れてしまったことが、彼女をどれだけ苦しめたことか。謝罪の言葉も、感謝の言葉も、溢れる想いの前では陳腐に思えた。
僕たちの手の中で、二つの砂時計は静かに、しかし確かに未来へと砂を落とし続けている。逆流し、失われたはずの時間が、再び僕たちのために流れ始めた。その一粒一粒が、これからの二人の時間そのものなのだ。
失われた記憶は戻った。しかし、空白だった時間が埋まるわけではない。僕たちは、もう一度、ここから始めなければならない。互いのことを知り、失われた時間を取り戻すように、新しい思い出を重ねていくのだ。
窓の外では、すっかり雨が上がっていた。雲の切れ間から差し込む光が、テーブルの上の砂時計を照らし、きらきらと輝かせている。それはまるで、僕たちの未来を祝福しているかのようだった。
愛は、記憶さえも超えるのだろうか。たとえ全てを忘れても、心臓の奥深くで鳴り響く鼓動だけは、真実の愛の在り処を知っているのかもしれない。僕たちは、これからその答えを、共に探していくのだろう。ゆっくりと、一歩ずつ、未来へと落ちていく砂のように。