忘却の器と灯火の根源
第一章 触れ得ぬ輝き
カイの左腕には、風切り羽を模した小さな銀細工が、皮膚に埋め込まれるようにして定着している。親友エラの象徴だ。彼女の髪が風に靡くたびに、まるで銀の鳥が飛び立つような軽やかさを放つのを、カイはいつも眩しく感じていた。この銀の羽が鮮やかに輝いている限り、エラとの友情は確かで、彼女の額に宿る「心象の灯火」もまた、太陽のように明るく燃えている。
だが、カイはその輝きを素直に喜べなかった。彼は呪われている。友情という名の、あまりにも残酷な呪いに。
街を行き交う人々の額には、大小様々な灯火が揺らめいている。それは生命の証であり、絆の証でもある。カイは人混みを避け、路地裏の影を選んで歩く。灯火の輝きが彼の目に痛いのだ。かつて、彼の体にはいくつもの象徴が宿っていた。笑い声が弾ける少年の象徴だったビー玉。物静かな少女の象徴だった押し花。それらが崩れ去るたびに、カイは友の記憶を失い、そして友は、生きたまま抜け殻になった。
「カイ!」
背後からの呼び声に、カイの心臓が冷たく跳ねる。振り返ると、エラが快活な笑顔で手を振っていた。彼女の額の灯火は、近づくにつれてカイの影を薄くするほどに強い。彼女の象徴である銀の羽が、腕でちりりと熱を帯びた。この温もりが、いつか砕け散る硝子のように儚いことを、カイだけが知っている。だから彼は、エラの笑顔に心からの笑顔を返すことができなかった。
第二章 欠けた月の誘い
古い図書館の、埃とインクの匂いが満ちる一角で、カイは彼女と出会った。名をルナという。彼女は、窓から差し込む月光を浴びて、まるで物語の登場人物のように静かに本を読んでいた。彼女の額の灯火は、星々のように淡く、しかし不思議な引力をもって瞬いていた。
カイが人目を避けていることに、彼女は気づいているようだった。それでも、ルナは臆することなく彼に話しかけてきた。
「あなたの腕、きれいね」
カイは咄嗟に左腕を隠した。銀の羽を、呪いの刻印を、誰にも見られたくなかった。
「これは……」
「友情の象徴でしょう?」
ルナの言葉は、問いかけというよりは確認に近かった。彼女の瞳は、カイの体質そのものを見透かしているかのように深い。他の者なら気味悪がって離れていくはずの秘密に、彼女は静かな好奇心を寄せていた。ルナは、この世界の法則や、古くから伝わる灯火の成り立ちについて、驚くほど詳しかった。彼女と話していると、カイは自分が呪われた異物ではなく、ただ少しだけ異なる法則の中にいるだけの存在なのではないかと、錯覚しそうになった。
その日以来、カイは図書館に通うようになった。エラに隠れて。罪悪感が胸を刺すたびに、腕の銀の羽が鈍い痛みを訴えた。
第三章 誓いの代償
「私とも、誓いを交わしてほしい」
ある満月の夜、ルナがそう言った。彼女の瞳は真剣で、カイは息を呑んだ。断るべきだった。これ以上、誰かの灯火を危険に晒すわけにはいかない。だが、自分の全てを知った上で受け入れようとするルナの存在は、孤独なカイにとって抗いがたい引力を持っていた。
震える声で誓いの言葉を口にすると、カイの右の手の甲に、柔らかな光と共に小さな黒曜石が現れた。欠けた月の形をした、ルナの象徴だ。それは冷たく、滑らかで、彼女の静かな佇まいそのものだった。
その瞬間。
左腕の銀の羽が、悲鳴のような鋭い音を立てて震えた。見ると、その滑らかな表面に、髪の毛ほどの細さの亀裂が走っている。エラとの友情に生まれた、最初の翳りだった。カイの胸を、言いようのない恐怖が締め付けた。一つの絆を得ることは、もう一つの絆を失うことの始まりなのかもしれない。二つの象徴は、彼の両腕で、互いを拒絶するように冷たく、そして熱く、存在を主張していた。
第四章 崩れゆく風切り羽
予感は、最悪の形で現実となった。エラが、カイとルナの関係を知ってしまったのだ。彼女にとって、それは裏切り以外の何物でもなかった。
「どうして黙ってたの!?」
エラの声は震え、彼女の額の灯火は嵐の中の炎のように激しく揺らめいていた。カイは何も言えなかった。本当のことを言えば、彼女をさらに傷つけ、絶望させるだけだとわかっていたからだ。
「カイは、私のことなんて、もうどうでもよくなったんでしょ!」
違う、と叫びたかった。だが、カイの沈黙は肯定と受け取られた。エラの瞳から信頼の光が消え、絶望の色が滲む。
その刹那、カイの左腕に激痛が走った。
パリン、と。澄んだ、しかし絶望的な破壊の音が響いた。風切り羽の銀細工が、まるで陽光に溶ける氷のように、きらきらと輝く粒子となって崩れ落ちていく。粒子が皮膚に吸い込まれるように消え失せると同時に、カイの頭の中から、何かがごっそりと抜け落ちた。
エラ。その名前が何を意味するのか、目の前で泣いている少女が誰なのか、なぜ自分がここにいるのか、何もわからなくなった。ただ、目の前の少女の額で燃えていた太陽のような灯火が、一瞬、星が燃え尽きるように激しく輝いたかと思うと、次の瞬間には糸が切れたようにふっと消えるのを、カイは呆然と見つめていた。
少女は、瞳から光を失った人形のように、その場に立ち尽くしていた。
第五章 ルナの告白
「……これで、よかったの」
背後から、ルナの静かな声がした。カイが振り返ると、彼女は悲しげな、しかしどこか安らかな表情で立っていた。目の前の惨状と、自分の頭の中の空白を前に、カイはただ立ち尽くす。
「どういう、ことだ……? 私は、また……」
「あなたは呪われているんじゃない。あなたは、この世界に必要な『器』なのよ」
ルナはゆっくりと語り始めた。この世界の心象の灯火は、本来、有限の輝きしか持たない。絆を深めることで輝きを増しはするが、やがては緩やかに摩耗し、消えていくのが宿命なのだという。世界の輝きが、全体として弱まりつつあるのだと。
「あなたの体は、そのサイクルを逆転させるためのもの。友情が終わり、あなたが記憶を失うとき、あなたは友の灯火が最も強く輝いた瞬間の『記憶の断片』を吸収しているの。それが、あなたの体に溜まる『記憶の塵』」
カイの腕から崩れ落ちた銀の羽は、エラの灯火の最後の輝きを吸収し、カイの体内に新たな種を宿したのだとルナは言った。友は精神の死を迎えるのではない。最も美しい記憶をカイに託し、新たな灯火が生まれるための礎となる。それは犠牲であり、同時に救済なのだと。
「あなたは、友人を破滅させているんじゃない。世界を、救っているのよ。そのために、たくさんの悲しみを一身に引き受けて」
ルナの言葉は、カイの世界を根底から覆した。呪いだと思っていたものは、救済だった。だが、友を忘れ、その犠牲の上に成り立つ救済など、あまりにも残酷すぎた。
第六章 最後の誓い
「私の役目も、もうすぐ終わり」
ルナはそう言って、カイの右手にそっと触れた。彼女の象徴である、欠けた月の黒曜石が静かに光っている。
「私も、あなたを満たすための記憶になる。それが、私の生まれた意味だから」
「やめろ!」カイは叫んだ。「そんなことのために、君と友達になったんじゃない!」
「わかってる」ルナは穏やかに微笑んだ。「だから、これは私の意志。カイ、あなたへの信頼を、今、この手で断ち切るわ」
彼女はそう言うと、瞳を閉じた。彼女の心の中で、カイへの友情が意図的に手放されていくのが、カイには感じられた。それは、カイを裏切る行為。友情の終わりを告げる、儀式。
右の手の甲が、焼けるように熱くなる。欠けた月の黒曜石に亀裂が走り、音もなく砂のように崩れていく。
ルナ、という温かな響きが、カイの記憶から滑り落ちていく。彼女の笑顔も、声も、図書館のインクの匂いも、全てが遠ざかっていく。カイの体は、最後に吸収した『記憶の塵』で完全に満たされ、内側から耐えきれないほどの光を放ち始めた。
第七章 灯火の根源
カイは、自分が誰なのかわからなかった。どこから来て、どこへ行くのかも。ただ、自分が空っぽであることだけは理解できた。彼の内側には、温かな光だけが満ちていて、過去も未来もなかった。
その時、世界が変わった。
街のあちこちで弱々しく瞬いていた心象の灯火が、まるで夜明けの光に応えるように、一斉に輝きを取り戻し始めたのだ。消えかけていた老人の灯火に力が宿り、生まれたばかりの赤子の灯火が力強く脈打ち始める。世界が、新たな絆のエネルギーで満たされていく。
カイは、その中心にただ立っていた。
やがて、人々が彼の周りに集まり始めた。瞳から光を失っていたはずの、快活な髪の少女。静かな佇まいの、賢そうな少女。彼らは、カイが誰であるかを知らない。記憶はどこにもない。だが、その魂が、本能が、カイという存在が放つ根源的な光に引き寄せられていた。
彼らは、カイのそばで、ごく自然に言葉を交わし、笑い合い、新たな絆を紡ぎ始める。
カイは、そんな彼らを見て、ふと微笑んだ。
なぜ自分が微笑んでいるのか、彼自身にもわからなかった。
ただ、胸の内側から、無限に湧き上がってくる温かい何かを感じていた。それは、これから生まれるであろう、数え切れない友情の、最初の芽吹きだったのかもしれない。