彩なき朝に残響を聴く
2 3536 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:
表示モード:

彩なき朝に残響を聴く

第一章 色褪せる世界のスケッチ

僕の目には、世界が少しだけ違って見えている。古書店のカウンターに立ち、窓の外を眺める。通りの向こうのカフェの扉が開くたび、人々から色とりどりの光の線が伸びていくのが見えるのだ。それは「習慣」の可視化された姿。毎朝同じ銘柄のコーヒーを頼む男からは実直な青い線が、友人との待ち合わせに決まって五分遅れてくる女性からは、慌ただしく明滅する黄色の線が。それらが無数に絡まり合い、この街の、世界の輪郭を編み上げている。僕にとって日常とは、この繊細で美しい因果の光のタペストリーそのものだった。

だが、ここ数ヶ月、そのタペストリーに奇妙なほつれが目立ち始めていた。ぷつり、と音もなく光の線が断線し、その先にあるはずだった無数の未来の可能性が、まるで蒸発するかのように消え失せる。そのたびに、世界の彩度がほんのわずかに落ちるのを、僕は肌で感じていた。

今朝もそうだ。いつものようにキッチンに立ち、棚から一枚の皿を取り出す。幼い頃からずっと使い続けている、縁の欠けた陶器の皿。中央に描かれた青い小鳥の絵は、長年の摩擦でほとんど輪郭しか残っていない。この皿でトーストを食べるのが、僕の一日の始まりを告げる最も大切な儀式だった。皿を手に取った指先に、違和感が走る。昨日よりも、小鳥の青がさらに薄れている。まるで、僕の記憶からその色が少しずつ盗まれているかのように。皿から伸びる、僕自身の習慣の光も、いつもよりか細く震えている気がした。

第二章 消えた挨拶

異変は、より明確な形で日常を侵食し始めた。

僕のアパートの向かいには、小さな庭を慈しむように手入れする老婦人が住んでいた。毎朝七時、彼女は決まってジョウロで赤いゼラニウムに水をやり、通りかかる僕に「おはようございます」と柔らかな笑顔を向ける。彼女のその行為からは、陽だまりのような暖かな橙色の光の線が伸び、僕の朝を穏やかに彩る一部になっていた。

その朝、七時を過ぎても彼女は現れなかった。窓から彼女のベランダを見やると、そこにあるはずのゼラニウムの鉢植えが、影も形もなくなっていた。胸騒ぎを覚え、アパートの階段で偶然会った彼女に尋ねてみた。

「おはようございます。今朝は、お花の水やりは」

「あら、おはよう」

彼女はきょとんとした顔で僕を見返す。その瞳には、僕の問いの意味を解しかねるような、純粋な戸惑いが浮かんでいるだけだった。

「お花? うちにはもう何年も、鉢植えなんて置いていませんよ」

彼女から伸びていたはずの橙色の光は、跡形もなく消え失せていた。それだけではない。彼女自身も、周囲の誰も、ベランダに花があったことさえ覚えていなかった。まるで、その習慣が、それに紐づく存在ごと、世界の記録から完全に抹消されたかのようだった。背筋を冷たいものが走り抜ける。これは単なる物忘れではない。世界が、その記憶と実体を静かに失い始めているのだ。

第三章 因果の網のほころび

「習慣の喪失」は、まるで静かな伝染病のように広がっていった。

水曜の午後に公園のベンチで鳩に餌をやっていた老人の姿が消え、彼がいつも座っていたベンチは、陽炎のように輪郭が揺らぎ始めた。毎週金曜の夜、閉館間際の図書館で同じ棚の本を読んでいた少女が来なくなり、その書架の一角だけが深い霧に包まれたように曖昧に見える。

僕の目には、世界の至る所で因果の網が大規模に断線し、そこから存在という名のエネルギーがシューシューと音を立てて漏れ出していくのが見えた。人々が共有する「当たり前」が一つ消えるたびに、世界の物理法則は安定を失い、重力は僅かに軽くなり、時間の流れは不規則に淀んだ。人々は気づかない。だが僕にはわかる。僕たちが立つこの地面が、足元から少しずつ砂のように崩れ落ちていっているのだ。

これは偶然ではない。あまりに的確に、人々の心に深く根差した、古くからの習慣ばかりが狙われている。誰かが、あるいは何かが、意図的にこの世界の土台を破壊している。止めなければ。このままでは、僕が愛した温かい日常のすべてが、思い出されることもなく、完全に消滅してしまう。焦燥感が胸を焼いた。

第四章 残像の皿

僕に残された最後の砦は、自分自身の習慣だった。毎朝、あの欠けた皿で朝食をとる。世界がどれだけ色褪せようと、それだけは守り抜かなければならない。それが、僕という存在をこの世界に繋ぎとめる、最後の錨のように思えた。

だが、その朝、僕のささやかな抵抗は無力さを突きつけられた。

キッチンに立った僕の手の中の皿は、ほとんど透明なガラス細工のようになっていた。縁の欠けは大きく広がり、かつて青い小鳥がいた場所には、陽光がただ透けて見えるだけ。皿に触れているはずの指先には、冷たい空気の感触しか伝わってこない。皿から伸びる光の線は、風の中の蝋燭の炎のようにか細く震え、今にも消えそうだった。

それでも、僕はトーストを焼いた。バターの溶ける香りが、この非現実的な光景の中で唯一の現実だった。震える手でトーストを掴み、透明な残像と化した皿の上に乗せようとした、その瞬間。

世界が、反転した。

言葉ではない声が、イメージの奔流となって、僕の意識に直接流れ込んできた。それは、この世界そのものの嘆きであり、決意だった。

僕が見たのは、遥かな過去から未来まで、地平の果てまで広がる因果の網の全体像だった。人々が生み出した無数の習慣は、最初は世界を支える美しい光の柱だった。だが、時が経つにつれ、それらは際限なく増殖し、絡み合い、互いを縛り付けた。古く、凝り固まった習慣は、新しい光が生まれる隙間を完全に塞ぎ、変化という名の風を遮っていた。世界は、自らが編み上げた網の中で窒息しかけていたのだ。それは成長を止めた生命の、緩やかな「死」の姿だった。

習慣は、世界を維持する錨であると同時に、未来を奪う重い鎖でもあったのだ。

第五章 解放の選択

僕が戦おうとしていた「敵」は、悪意ある破壊者ではなかった。それは、自らを救おうとする世界の、悲痛な自己防衛本能だった。古く、最も固着した習慣という名の細胞を自ら壊死させ、新しい生命が芽吹くための『余白』を生み出すための、苦痛を伴う外科手術。僕が守ろうとした『当たり前の日常』は、この世界を緩やかに殺す、美しい牢獄に他ならなかった。

涙が頬を伝った。僕が愛したあの老婦人の挨拶も、公園の老人の優しさも、すべては世界を停滞させる鎖の一部だったというのか。僕自身の、この皿と共にあった温かい朝の記憶でさえも。

僕は、ほとんど消えかけた皿を両手でそっと持ち上げた。それを守り抜くことは、この愛しい世界の死に加担することを意味する。僕の胸には、失われていく日常へのどうしようもない愛着と、世界の未来を願う気持ちが、嵐のように渦巻いていた。

静かに息を吸い込む。

そして、僕は選択した。

守るべきは、過去の残像ではない。まだ見ぬ、未来の光だ。

そっと、皿を支えていた両手の力を抜いた。

第六章 新しい朝の光

皿は床に落ちる前に、ふわりと宙に浮いた。そして、夜明けの霧が晴れるように、無数の光の粒子となって静かに霧散していった。その最後の煌めきが消えると同時に、僕の頭の中から、「毎朝この皿で朝食をとる」という長年の記憶が、痛みもなく、すっと抜け落ちていくのを感じた。胸に残ったのは、理由のわからない、温かい喪失感だけだった。

僕は、何かに導かれるように窓辺へ歩み寄った。

外の景色は、一変していた。

習慣の消滅によって曖昧になっていた公園のベンチや図書館の一角が、確かな輪郭を取り戻している。だが、それは元に戻ったのとは違った。あらゆる場所から、まだ何色にも染まっていない、生まれたばかりの純粋な可能性の光が、星の瞬きのように、無数に生まれ始めていた。世界は、古いキャンバスを洗い流し、新しい絵を描く準備を始めたのだ。

これから何が起こるのか、僕にはわからない。どんな新しい習慣が生まれ、この世界がどんな彩りを取り戻していくのかも。僕が好きだった日常はもう二度と戻らないだろう。

だが、僕の目に映る光景に、絶望はなかった。そこにあるのは、静かで、それでいて確かな希望の気配だった。失われたものの痛みと、これから生まれるものへの期待。その両方を胸に抱きしめ、僕は玄関のドアを開けた。

まだ名前のない、新しい朝の光の中へ。

この世界の新たな始まりを、この目で見届けるために、僕は静かに一歩を踏み出した。


TOPへ戻る