空白のページとセピア色の約束
第一章 色褪せた街の記録者
僕の住む街から、色が失われ始めて久しい。
かつて燃えるようだった郵便ポストは錆びた鉄の色にくすみ、公園の芝生は乾いた土気色に沈んでいる。人々は俯きがちに歩き、その瞳からは感情の光が消え、まるで古い写真の中の住人のようだった。この現象を、人々は「褪色病」と呼んだ。偽りの笑顔、口先だけの約束、希薄な人間関係が蔓延するたびに、世界は一枚、また一枚と薄紙を重ねるように色彩を失っていくのだ。
僕は、その原因の一端を担っていた。
カイ、それが僕の名前だ。いつも持ち歩く古びた革張りの日記帳。その中身はほとんどが空白のページで満たされている。だが、時折、インクの染みのように、誰かの記憶がそこに浮かび上がる。僕が誰かと「本当の友情」を結んだ、その瞬間に。相手の人生で最も大切な記憶が、僕の日記の空白を埋め、そして相手の中から、その記憶は綺麗に消え去る。
僕は記憶の泥棒だ。
カフェの窓際、僕は指先で日記帳のざらついた表紙を撫でた。最近書き写されたばかりのページには、幼馴染だった少女が初めて補助輪なしの自転車に乗れた日の、夕焼けの記憶が綴られている。アスファルトを焦がす西日のオレンジ、誇らしげな笑顔、転んだ膝から滲む鮮血の赤。その記憶は僕のものじゃない。だから、僕が窓の外に広がる灰色の夕暮れを見ても、胸は少しも熱くならなかった。
孤独とは、他人の鮮やかな記憶を抱えながら、自分の心が何色にも染まらないことなのかもしれない。僕は静かに日記を閉じた。
第二章 アキという色彩
そんなモノクロームの世界に、彼、アキは現れた。
まるで、たった一人だけ禁じられた絵の具を使ったかのように、鮮烈な色彩をまとって。
「君、いつもここにいるよね。何を描いてるの?」
スケッチブックを抱えた彼が、僕の向かいの席に断りもなく腰を下ろした。癖のある黒髪、悪戯っぽく細められた瞳。その声には、この街の誰もが忘れてしまった響きがあった。好奇心という名の、鮮やかな音色。
「……何も」
僕は日記帳を隠すように胸に抱いた。
「ふぅん?秘密主義か。いいよ、そういうの、嫌いじゃない」
アキは画家を目指していた。失われゆき、誰もが見向きもしなくなった色彩の残滓を拾い集め、キャンバスに留めるのだと熱っぽく語った。彼の話を聞いていると、褪せた空気がほんの少しだけ色づくような錯覚を覚えた。彼が笑うと、カフェの煤けた電球がひまわりの黄色を思い出し、彼が窓の外を指差すと、枯れた街路樹が若葉の緑を取り戻す気がした。
僕たちは頻繁に会うようになった。彼は僕の沈黙を気にせず、一方的に喋り続けた。僕は彼の言葉のシャワーを浴びながら、心のどこかで怯えていた。この心地よさに身を任せてしまえば、いつか必ず、彼から最も美しい色を奪ってしまう。その恐怖が、僕の喉を締め付けた。
第三章 交わされた約束と失われた記憶
その日は、空に残された最後の青が、インクのように滲んだ夕暮れだった。アキは僕をアトリエに招いた。部屋の中央には、イーゼルに立てかけられた一枚の大きなキャンバス。
「できたんだ。見てくれよ、カイ」
そこに描かれていたのは、僕たちが初めて出会った、あの公園の風景だった。しかし、それは僕の知る灰色の公園ではなかった。空は燃えるような茜色に染まり、木々の葉は深い翠に輝き、ベンチに差し込む光は蜂蜜のような金色をしていた。アキが、彼の魂の目で見た世界の姿。彼が守りたかった、最後の色彩。
「この絵は、君と出会えた喜びの証なんだ」
アキは絵の具のついた指で、照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「君がいたから、僕はまだ世界が美しいって信じられた。僕たち、本当の友達だろ?」
その言葉が、引き金だった。
世界がぐにゃりと歪む。彼の真っ直ぐな瞳が僕を射抜いた瞬間、僕と彼の間を繋ぐ見えない糸が強く、強く張り詰める。
パチン、と何かが弾ける音がした。
気づくと、僕は日記帳を開いていた。新しいページに、万年筆のインクがひとりでに走っている。
『茜色の空の下、親友と分かち合った絵画の完成の喜び。キャンバスに込めた情熱と、未来への希望。それは、世界に残された最後の宝石のような記憶』
僕は顔を上げた。
アキは、自分の描いた絵を、まるで初めて見るかのように、不思議そうな顔で眺めていた。
「あれ……? なんだろう、この絵……」
彼は困惑したように首を傾げる。
「誰が描いたんだろう。なのに、どうしてこんなに胸が締め付けられるんだ……?」
彼の瞳から、鮮やかな光が消えていた。僕が、それを奪ったのだ。
第四章 モノクロームの慟哭
アキが記憶を失った翌日、世界は完全に色を失った。
空も、建物も、人々の顔も、すべてが濃淡の異なる灰色に塗りつぶされていた。まるで、世界の魂が完全に抜き取られてしまったかのように、街は音のない映画の一場面と化した。最後の希望だったアキの情熱が消え、世界はそれに殉じたのだ。
罪悪感が、鉛のように僕の身体にのしかかる。日記帳に綴られたアキの記憶は、ページの上で今も鮮やかに燃えている。だが、その色は僕の心を温めはしない。ただ、僕の罪を照らし出す残酷な光でしかなかった。
「返さなければ」
僕はアトリエに駆け込んだ。アキは、色のないキャンバスの前で、ただ呆然と立ち尽くしている。
「アキ! 思い出してくれ!」
僕は日記帳のページを乱暴に引きちぎり、彼に突きつけた。アキの記憶が書かれた、その紙片を。
「これは君の記憶だ! 君が失くしたものなんだ!」
しかし、僕の手から離れた瞬間、ページはただの古びた紙切れに戻った。インクは消え、そこに書かれていたはずの鮮やかな記憶は跡形もなく消え失せていた。物理的に返すことなど、できはしないのだ。絶望が、僕の視界を真っ暗に塗りつぶした。
第五章 記憶を語り、記憶を紡ぐ
僕は諦めきれなかった。
数日後、僕はアキの手を引いて、あの公園の、あのベンチへと連れて行った。もう茜色に染まることのない空の下で、僕は震える声で語り始めた。日記帳に刻まれた記憶を、僕自身の言葉で。
「あの日、君はここに立って、空を見ていたんだ。そして言った。『この赤色を永遠にしたい』って。君は笑っていた。僕なんかのために、世界はまだ美しいって信じてくれていた」
僕の言葉は拙く、頼りなかった。だが、語り続けるうちに、奇妙な感覚が僕を包んだ。日記の文字をなぞるだけではない。アキの情熱、その時の高揚感、筆を握る指先の痺れまでが、まるで僕自身の体験のように、全身に蘇ってくるのだ。
すると、僕の言葉を聞いていたアキの瞳に、微かな光が宿った。
「その……赤い色……」
アキが呟く。
「なんだか、懐かしい気がする。そして……君の顔を見ていると、胸の奥が温かくなる。ずっと昔に、何かとても大切なものを失くしてしまったような、そんな寂しさを感じるんだ」
その瞬間、僕の脳裏に、僕自身が忘れていたはずの幼い頃の記憶が閃光のように蘇った。たった一人、薄暗い部屋でクレヨンを握りしめ、誰にも見せることのない絵を描いていた、孤独な僕の姿が。
驚いてアキを見ると、彼もまた戸惑ったように僕を見つめていた。
記憶を「返す」行為は、一方的なものではなかった。それは、魂の回路を開き、お互いの記憶を溶け合わせる、新たな「交換」の儀式だったのだ。
第六章 二人のための新しい色
僕たちは、互いの最も大切な記憶の一部を分け合った存在になった。
僕はアキの情熱と創造の喜びを、アキは僕の孤独と人知れぬ痛みを、自分のものとして理解した。僕たちはもはや、カイとアキという個別の存在ではなかった。一つの魂を分かち合う、二心同体の何かへと変容していた。
僕がアキの手を握った、その時だった。
モノクロームだった世界に、ふわり、と光が灯った。それは赤でも青でも黄色でもない。今まで誰も見たことのない、淡く、優しく、そしてどこか切ない光を放つ、全く新しい「色」だった。それは、僕とアキの共有された記憶から生まれた、二人のためだけの色彩。
失われた記憶は、消えてなくなったわけではなかった。それは「友情」という形のない絆の中で溶け合い、新しい価値を持って生まれ変わったのだ。
街に、少しずつ新しい色が戻り始める。それはかつての世界とは違う、見慣れないけれど、温かい色彩だった。人々が顔を上げ、隣人の瞳の中に、その新しい色を見つけ始める。
僕は古びた日記帳の、新しい空白のページを開いた。
そこに初めて、自分の言葉で、僕自身の記憶を記し始める。アキと共に創り出す、未来の記憶を。
『僕たちの物語は、ここから始まる』
新しい色彩に照らされた道を、僕たちは共に歩き出す。もう一人ではない。空白だった僕の心は、君という名の、最も美しい記憶で満たされているのだから。