影送りたちのエレジー

影送りたちのエレジー

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第一章 僕の足元の他人

アスファルトに映る僕の影は、僕のものではなかった。

その事実に気づいたのは、親友のハルと「影の交換」をしてから、ちょうど一ヶ月が経った日のことだ。夕暮れの商店街、僕はショーウィンドウに映る自分の姿にふと足を止めた。ガラスの中の僕は、買い物袋を片手にぼんやりと立っている。だが、その足元から伸びる黒い人型は、僕とは違う、どこか軽やかな仕草で腕を組んでいた。まるで、僕の知らない誰かが、僕の身体を借りてそこに佇んでいるかのように。

「気味の悪いことを言うなよ、アオイ」

後日、そのことをハルに話すと、彼はいつものように太陽みたいな笑顔で僕の肩を叩いた。「それは俺の影だから、格好つけてるだけだろ? 俺ってほら、無意識でもクールだから」

軽口を叩きながら、ハルは自分の足元に目をやった。そこに伸びているのは、少し猫背で、どこか自信なさげな、紛れもない僕の影だった。ハルが大きく腕を振ると、僕の影もぎこちなくそれを真似る。その光景は滑稽で、僕の不安は彼の屈託のない笑い声に溶かされていくようだった。

僕とハルは、正反対の人間だった。僕は人付き合いが苦手で、本と静寂を愛する大学院生。対するハルは、誰からも愛される社交性の塊で、彼の周りにはいつも人の輪ができていた。そんな僕たちがどうして親友になったのか、自分でも不思議に思うことがある。けれど、ハルは僕の静けさの中に安らぎを見出し、僕は彼の眩しさの中に救いを見出していた。

「影の交換」は、そんな僕たちの友情を永遠にするための、ささやかな儀式だった。街外れの古い神社に、夏至の日の日没、二つの影が重なる瞬間に互いの名を呼び合うと、影が入れ替わるという言い伝えがあることを知ったのは、ハルだった。「ロマンチックだろ?」と目を輝かせる彼に、僕は頷くしかなかった。僕たちは言い伝え通りに儀式を行い、そして本当に、僕たちの影は入れ替わったのだ。ハルの影を連れて歩くのは、まるで親友が常に隣にいてくれるような、心強い感覚だった。最初は、確かにそうだったのだ。

しかし、僕の足元にいる「ハルの影」は、日に日に奇妙な自己主張を始めた。僕が大学の研究室に向かおうとすると、影だけが反対方向、つまり街の古い住宅街の方角へ行きたがるように、その先端を必死に伸ばす。僕がカフェで読書に耽っていると、影はテーブルの下で落ち着きなく蠢き、まるで誰かを探すようにきょろきょろと動くのだ。

それはもはや、気のせいでは済まされない、明確な意志を持った行動だった。僕の足元にいるのは、僕の知らないハル。僕が決して見ることのなかった、彼の秘密を抱えた分身。夕暮れの光が僕の身体を長く引き伸ばすとき、足元の他人は、僕に何かを必死に訴えかけているように見えた。その黒いシルエットは、友情という名の美しいベールの下に隠された、静かで、そして深い孤独の色をしていた。

第二章 影がささやく秘密

秋風が銀杏並木を揺らし、キャンパスが黄金色に染まる頃、僕の不安は確信へと変わりつつあった。ハルの影は、ますます大胆に行動するようになった。それはまるで、言葉を持たない遭難者が、必死に救難信号を送っているかのようだった。

ある日の午後、僕はハルの影に強く引かれる感覚に襲われた。講義を終え、帰路についていた僕の足を、影が縫い止める。僕の意志とは無関係に、影は特定の方向を指し示し、その場から動こうとしない。その先にあるのは、古びたレンガ造りのアパートだった。蔦の絡まる壁、いくつかの窓には明かりが灯っているが、全体的に静まり返っている。僕には全く見覚えのない場所だ。

「どうしたんだ?」

僕は自分の足元に問いかけた。返事があるはずもない。けれど、影は喜びとも悲しみともつかない不思議な震えを見せ、アパートの一室をじっと指し示していた。三階の角部屋。カーテンが引かれ、中の様子は窺えない。

僕はハルに連絡を取った。「今日、何か変わったことはなかったか?」と。電話の向こうで、ハルは一瞬言葉に詰まったように聞こえた。「別に、いつも通りだよ。お前の影も大人しくしてる」その声は、いつもより少しだけ硬かった。

疑念が胸の中で黒い染みのように広がっていく。ハルは何かを隠している。僕が彼の秘密に近づいていることに、彼も気づいているのかもしれない。僕たちの間には、目に見えない壁が築かれ始めていた。かつて、どんなことでも分かち合ってきたはずの僕たちの友情は、一つの影によって静かに侵食されていた。

雨が降り始めた夜、僕は再びあのアパートの前に立っていた。今度は僕自身の意志で。冷たい雨粒が僕のコートを濡らし、地面を叩く音が世界の全ての音を吸い込んでいく。僕の足元のハルの影は、雨に濡れたアスファルトの上で、いつもより濃く、深く沈んでいた。そして、その影はゆっくりと形を変え、地面にうずくまるように丸くなった。それは、耐えがたい悲しみに打ちひしがれる人間の姿そのものだった。

僕は傘もささずに、その場に立ち尽くした。親友の、僕の知らない悲しみ。その正体を知るのが怖かった。知ってしまえば、もう元の関係には戻れないかもしれない。それでも、僕はここから動けなかった。影が伝える静かな慟哭は、僕の心を直接掴んで揺さぶった。友情とは、相手の光だけを享受することではない。その人が抱える影の、その最も暗い部分にさえ、寄り添おうとすることではないのか。

雨音が強くなる。僕は決意を固め、アパートの錆びた扉に手をかけた。この先に何が待っていようと、僕はハルの本当の姿から目を逸らさない。僕の足元の影が、小さく、しかし確かに、僕の決意に応えるように震えた。

第三章 嵐の夜の告白

アパートの階段を上る僕の心臓は、まるで警鐘のように激しく鳴り響いていた。三階の角部屋、ドアの前に立つと、中から微かに機械音のようなものが聞こえる。ノックをしようと上げた手は、ためらいに震えた。その時だった。僕をここまで導いてきたハルの影が、僕の身体から離れるようにドアの方へすっと伸び、まるで鍵穴に吸い込まれるように消えたのだ。

何が起きたのか理解できないまま、僕は呆然と立ち尽くす。すると、カチャリ、と内側から鍵が開く音がした。ドアがゆっくりと開く。そこに立っていたのは、ハルだった。しかし、その表情は僕が知っている太陽のような笑顔ではなく、全てを諦めたような、深い悲しみに満ちていた。

「……やっぱり、来ちゃったんだね」

彼の声は、嵐の前の静けさのように低く、か細かった。促されるままに部屋へ入ると、僕の目に信じられない光景が飛び込んできた。部屋の中央には、医療用のベッドが置かれ、そこには一人の青年が眠っていた。たくさんのチューブに繋がれ、規則正しい電子音だけが彼の生命を告げている。そして、その顔は――ハルと瓜二つだった。

「彼は……誰なんだ?」僕の声は掠れていた。

「彼が、ハルだよ」ベッドの傍らに立つ青年が、静かに言った。「本物の、君の親友の、ハルだ」

頭が真っ白になった。目の前の青年は、僕が今までハルだと思っていた男だ。では、ベッドに眠っているのは? 混乱する僕に、彼は静かに語り始めた。

「俺はナツ。ハルの、双子の弟だ」

ナツと名乗った青年によると、本物のハルは一年前、交通事故に遭って以来、ずっとこの部屋で眠り続けているのだという。意識が戻る保証はない。ナツは、兄の存在が忘れ去られてしまうことが怖かった。特に、兄が心から大切にしていた親友である僕に、真実を告げる勇気がなかった。だから、彼は兄になりすますことを選んだ。髪型を、服装を、そして笑顔さえも、兄そっくりに真似て。

「君との友情を、壊したくなかった。兄さんが目覚めたとき、彼の居場所がなくなっているなんて、そんなの耐えられなかったんだ」ナツの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。「『影の交換』の儀式も、俺が言い出したことだ。兄さんの影だけでも、君のそばにいさせてあげたかった。もしかしたら、兄さんの魂の一部が、君に何かを伝えてくれるかもしれないって……藁にもすがる思いだったんだ」

全てが繋がった。僕の足元で奇妙な動きをしていた影は、ナツのものではなく、眠り続ける本物のハルのものだったのだ。影は、僕を自分の本体の元へ、そして兄のふりを続けるナツの秘密の場所へ、必死に導こうとしていたのだ。

嵐が窓ガラスを激しく叩く。僕は騙されていた。僕が築いてきた友情は、すべて偽りだったのか。怒りが込み上げる。しかし、それ以上に、目の前で泣き崩れるナツの孤独が、彼の背負ってきた重圧が、痛いほど胸に突き刺さった。彼は一年もの間、たった一人で兄の影を演じ、僕たちの友情を守ろうとしてきたのだ。

僕はベッドに横たわるハルの顔を見た。穏やかな寝顔。そして、その隣で嗚咽するナツの顔。二つの同じ顔が、僕の中でゆっくりと一つに重なっていく。友情とは、一体何なのだろう。名前か、記憶か、それとも共に過ごした時間そのものなのか。僕が愛したのは「ハル」という記号だったのか、それとも、目の前で苦しんでいるこの青年だったのか。答えは、まだ見つからなかった。

第四章 三人分のシルエット

嵐が過ぎ去った朝、部屋には静かな光が差し込んでいた。僕は一晩中、ナツの話を聞き、そして眠るハルの傍らで過ごした。怒りや混乱は、夜明けと共に静かな感情へと変わっていた。それは諦めでも、許しでもない。もっと複雑で、温かい何かだった。

「ごめん……。君を騙していて、本当にごめん」

疲れ果てた顔で、ナツが呟いた。僕は首を横に振った。

「君は、ハルじゃなくていい」僕は静かに告げた。「君はナツだ。そして……君も、俺の大切な友達だ」

ナツが驚いたように顔を上げる。彼の瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。僕が差し出したのは、同情ではなかった。この一年、僕の隣で笑い、悩みを聞いてくれたのは、紛れもなくナツだったのだ。彼が抱える痛みも、兄を想う優しさも、僕は知っている。それは偽りの友情などではなかった。形は歪でも、そこには確かな絆が存在していた。

その日から、僕たちの奇妙な関係が始まった。僕は講義の合間を縫ってこのアパートを訪れ、ナツと共にハルの世話をした。僕の足元には眠るハルの影。そして、ナツの足元には僕の影。僕たちは互いに、もう一人の親友の影を預かり合っていた。

僕たちは、ハルに話しかけるように、たくさんのことを語り合った。大学での出来事、読んだ本の話、ナツが見つけた美味しいパン屋の話。時折、僕の足元のハルの影が、僕たちの会話に聞き入るように、ぴくりと動く気がした。

ある晴れた午後、僕とナツはベッドの傍らで、古いアルバムを開いていた。そこには、幼いハルとナツが、同じ顔で笑っている写真がたくさんあった。

「こいつ、昔からお節介でさ」ナツが懐かしそうに目を細める。「アオイみたいな奴、放っておけないって、いつも言ってた」

その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。僕がハルに救われていたように、ハルもまた、僕との関係の中に何かを見出していてくれたのかもしれない。

ふと、窓から差し込む西陽が、部屋の床に三つのシルエットを描き出していることに気づいた。ベッドに眠るハル、その傍らに座るナツ、そして僕。僕の足元にはハルの影が、ナツの足元には僕の影が、寄り添うように伸びている。それは、失われた友情と、新しく生まれた友情、そして未来への微かな希望が一つになった、三人分の友情の形だった。僕たちはもはや、誰が誰の影を連れているのかなど、気にしていなかった。僕たちは三人で、一つの存在だった。

僕はそっと窓辺に歩み寄った。夕焼けが世界を茜色に染めている。その時、足元のハルの影が、ほんのわずか、指を動かしたように見えた。幻覚かもしれない。僕の願望が生み出した、都合のいい奇跡かもしれない。

それでも僕は、振り返ってベッドの上の親友に微笑みかけた。そして、その隣にいるもう一人の親友にも。

「おはよう、ハル」

その声が、二人の親友に届いたのか、それともただ空気に溶けていったのか。答えは風の中だ。しかし、僕の心は不思議なほど穏やかだった。僕たちの物語は、まだ始まったばかりなのだから。

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