残響のソラリス

残響のソラリス

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第一章 壁の向こうの奏者

相葉湊(あいば みなと)が、この古びたアパート「月光荘」に越してきたのは、初夏の匂いが街に満ち始めた頃だった。古書の修復家である彼にとって、都会の喧騒から隔絶されたこの静けさは、仕事に集中するための理想的な環境のはずだった。築五十年の木造建築は、人が歩くだけで床が優しく軋む。隣室は長年空き家だと、人の良さそうな大家は言っていた。湊は、人付き合いを極端に苦手としており、その事実にも安堵していた。

最初の異変に気づいたのは、引っ越して三日目の夜だった。インクと古紙の匂いに満ちた部屋で、湊が傷んだ革表紙に神経を集中させていた時だ。

ト、トン。

隣室との境界である、薄っぺらな壁から音がした。最初は気のせいかと思った。古い建物だ、木が収縮する音だろう。しかし、音は続いた。

トン、ト、トトン。

それは不規則でありながら、どこか明確な意図を持っているように聞こえた。まるで、誰かが指で壁を叩いているような、硬質で乾いた音。湊は作業の手を止め、息を殺して壁に耳を澄ませた。空き部屋のはずではなかったか。幽霊の類は信じないが、背筋を冷たいものが走り抜ける。

恐怖よりも好奇心が勝ったのは、そのリズムがあまりにも音楽的だったからだ。まるで、言葉を探しているかのような、躊躇いがちな間。湊は無意識のうちに、指先で机をなぞっていた。そして、衝動的に、壁に向かって指の背でそっと叩き返した。

コン。

部屋に響いた自分の音が、やけに大きく聞こえた。心臓が跳ねる。やめればよかった。気味悪がられたらどうしよう。いや、そもそも相手は人間ですらないのかもしれない。

沈黙が落ちる。数秒が永遠のように感じられた。諦めて作業に戻ろうとした、その時だ。

コン。

壁の向こうから、全く同じ音が一つ、返ってきた。

それは、湊の二十八年の人生において、最も不思議で、そして最も心躍る「こんにちは」だった。その日から、湊と、顔も声も知らない隣人との、沈黙の対話が始まった。湊は、そのはかなく捉えどころのない存在を、心の中で「カゲロウ」と名付けた。

第二章 沈黙の対話

カゲロウとの交流は、湊の灰色だった日常を、鮮やかな色彩で塗り替えていった。初めは単純な応答だけだった。湊が二回叩けば、カゲロウも二回返す。それがやがて、リズムの複雑な組み合わせへと発展していった。速い連打は「喜び」、ゆっくりとした間を置く音は「悲しみ」、不規則で途切れがちなリズムは「迷い」。二人の間だけで通じる、原始的で純粋な言語が生まれていったのだ。

湊は毎朝起きると、まず壁を叩いた。「おはよう」を意味する、軽やかな三連符。すると間もなく、少しだけくぐもった、優しい三連符が返ってくる。雨の日には、雨だれを模したようなポツ、ポツ、というリズムで天気を伝えた。カゲロウは、それを聞くと、まるで残念がるかのように、弱々しい音を一度だけ返した。

ある夜、湊は仕事で大きな失敗をし、高価な古書を修復不可能なまでに傷つけてしまった。自己嫌悪と絶望に苛まれ、部屋の隅で膝を抱えていた。世界でたった一人ぼっちのような気がした。その時、壁からカゲロウの音がした。ト、トン……? いつもとは違う、問いかけるようなリズム。湊の静寂を訝しんでいるのだ。

湊は、震える指で壁を叩いた。悲しみを伝える、ゆっくりとしたリズム。するとカゲロウは、しばらくの沈黙の後、今度は励ますような、力強く、そしてどこまでも優しいリズムを打ち始めた。それはまるで、言葉を持たない友が、ただ「そばにいるよ」と伝えてくれているようだった。湊の目から、涙が溢れた。壁に寄りかかり、その音に耳を傾ける。冷たいはずの壁が、じんわりと温かく感じられた。

湊の世界は、壁の向こう側にいるカゲロウを中心に回り始めた。彼の作る音を想像し、彼の生活を夢想した。どんな顔をしているのだろう。どんな声で笑うのだろう。しかし、同時に、湊は彼に会うことを恐れていた。この完璧な関係が、現実の些細なことで崩れてしまうのが怖かった。大家に尋ねても「隣は空き部屋のままだよ」と笑われるだけ。その答えは、この奇妙な友情を一層神秘的なものにした。もしかしたら、カゲロウも自分と同じように、人との関わりを絶って生きているのかもしれない。だからこそ、この音だけの繋がりを大切にしているのかもしれない。そう思うと、ますます愛おしくなった。

第三章 空洞のクレッシェンド

その日は、突然やってきた。

湊がいつものように修復作業に没頭していると、隣室から、これまでに聞いたことのない、耳を劈くような轟音が響き渡った。ガシャン!ゴゴゴゴ……!月光荘全体が揺れるほどの衝撃。壁に立てかけていた本が数冊、床に滑り落ちた。

湊は心臓を鷲掴みにされたように息を呑んだ。何だ、今の音は。事故か?

「カゲロウ!」

思わず声が出た。壁に駆け寄り、力の限り叩く。応答を求める、必死のリズム。

しかし、返事はなかった。

壁の向こうは、死んだような沈黙に包まれていた。湊は何度も、何度も叩いた。指の皮が擦り切れ、じんじんと痛む。だが、カゲロウからの音は、二度と聞こえてこなかった。

一日が過ぎ、二日が過ぎた。湊は仕事も手につかず、ただ壁の前に座り込み、耳を澄ませていた。あの優しいリズムも、力強い励ましも、もう聞こえない。部屋から色が失われ、再び灰色の静寂が戻ってきた。いや、以前よりもっと深く、冷たい静寂だった。

いてもたってもいられなくなった湊は、大家のもとへ駆け込んだ。

「隣の部屋、見せてください!人が倒れているかもしれないんです!」

「相葉さん、だから隣は誰も……」

「お願いします!何か大きな音がしたんです!お願いです!」

湊の鬼気迫る様子に根負けしたのか、大家は渋々ながらも錆びついた鍵束を持ち出してきた。

ギィ、と重い音を立てて、隣室の扉が開かれる。

湊は息を呑んだ。

部屋は、がらんどうだった。

家具一つなく、窓から差し込む光が、床に積もった分厚い埃をキラキラと照らしている。人の住んでいた気配は、どこにもない。

「……ほら、言ったでしょう」

呆れたような大家の声が、やけに遠くに聞こえた。湊は茫然と部屋の中を見渡す。じゃあ、あの音は?僕が友情を育んだ相手は、一体……。

その時、彼の視線は、部屋の奥、壁際に鎮座する巨大な機械に釘付けになった。

それは、古びた鉄の塊だった。高さは二メートルほどもあり、無数のケーブルと、今は光を失ったランプ、そして巨大なパラボラアンテナのようなものが付いている。埃をかぶった銘板には、こう刻まれていた。

『深宇宙探査機ソラリス 地上予備受信ユニット』

湊は、その機械に吸い寄せられるように近づいた。まさか。

機械の側面、ちょうど湊の部屋の壁に接する部分が、大きく凹んでいた。内部の歯車や部品がいくつか剥き出しになり、床に散らばっている。最後の轟音は、この機械が完全に壊れた音だったのだ。

壁から聞こえていた音は、人間が奏でたものではなかった。何十年も前に打ち上げられ、とうの昔に通信が途絶えたはずの探査機。その地上予備機が、老朽化と、宇宙から届く微弱なノイズへの誤作動によって、内部の部品を不規則に動かし、壁にぶつけていただけだったのだ。

湊が壁を叩いた振動が、偶然にもその誤作動に影響を与え、あたかも対話のようなリズムの応酬を生み出していた。

喜びも、悲しみも、励ましも、すべては湊の一方的な幻想。友情を交わしていた相手は、人間ですらない、孤独な機械の断末魔の叫びだった。

第四章 星屑のレクイエム

湊は、その場に崩れるように膝をついた。がらんどうの部屋に、自分の荒い呼吸だけが響く。笑いがこみ上げてきた。なんて滑稽なんだ。自分は機械の故障と「友情」を育んでいたのか。孤独が、ついに自分を狂わせたのか。

しかし、涙は出なかった。代わりに、カゲロウとの日々の記憶が、鮮やかに蘇ってきた。

初めて音が返ってきた時の、心臓の震え。悲しみを伝えた夜、返ってきた力強いリズムの温かさ。それらは、紛れもなく湊を孤独から救い出してくれた。湊の世界を変えたのは、この機械が奏でた偶然の音だった。

湊はゆっくりと立ち上がり、冷たい鉄の筐体に、そっと手のひらを触れさせた。ひんやりとした感触が、現実を突きつけてくる。

だが、彼が感じた友情は、本当に幻だったのだろうか。

相手が誰であろうと、何であろうと、自分が感じた温かい気持ち、救われた心は、本物だったのではないか。たとえ一方通行の想いだったとしても、その想いによって、自分は確かに生かされていた。

湊は、機械が寄りかかっていた壁に顔を向けた。そして、擦り切れた指先で、もう一度だけ、そっと壁を叩いた。

ト、トン、ト……。

「ありがとう」を意味する、二人だけの特別なリズム。

もちろん、返事はなかった。しかし、湊の心には、確かに優しい応答の音が響いていた。

湊は部屋を出て、アパートの外に出た。夕暮れの空が、紫色とオレンジ色に燃えている。彼は空を見上げた。あの機械が、かつて交信しようとしていた宇宙は、どこまでも広く、静かだった。

今も、あの探査機ソラリスは、誰にも届かない歌を歌いながら、深宇宙の暗闇を一人で旅しているのかもしれない。そう思うと、不思議と寂しさは感じなかった。孤独なのは、自分だけではなかった。

友情の形は、一つじゃない。想いは、たとえ届かなくても、誰かの心を温める光になることがある。

湊は、空に瞬き始めた一番星に向かって、小さく微笑んだ。明日からは、少しだけ顔を上げて歩いてみよう。いつか、音ではなく、言葉で、誰かと心を通わせる日が来るかもしれない。

壁の向こうの奏者はもういない。しかし、その残響は、これからもずっと湊の心の中で、優しく鳴り続けるだろう。星屑のレクイエムのように。

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