第一章 色の喪失
僕、水野蒼(みずのあおい)の世界は、色で満ちていた。それは絵の具のパレットのような物理的な色ではない。人の感情が放つ、オーラのような色だ。怒りは燃え立つ緋色、悲しみは深海のような藍色、喜びは弾けるレモンイエロー。この共感覚は物心ついた頃からのもので、僕にとっては呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。人付き合いが苦手な僕が、唯一心を開ける相手、橘陽翔(たちばなはると)の周りには、いつも特別な色が輝いていた。
それは、まるで溶かした純金を陽光で照らしたかのような、温かく、力強い「黄金色」。彼の屈託のない笑顔も、仲間を思う真剣な眼差しも、すべてがその色に集約されていた。僕にとって陽翔の黄金色は、羅針盤であり、灯台の光だった。その色がある限り、僕は安心していられた。僕たちの友情は、永遠にこの輝きの中にあるのだと、疑いもしなかった。
その日までは。
放課後の教室。夕陽が差し込み、机の木目を橙色に染めている。窓際で友人と談笑する陽翔の姿が目に入った。僕はいつものように、彼の周りに輝く黄金色を探した。しかし、そこにあったのは、信じがたい光景だった。
色がない。
陽翔を包んでいたはずの、あの鮮やかな黄金色が、跡形もなく消え失せていたのだ。そこにあるのは、まるで磨りガラスを通した向こう側のような、輪郭だけはっきりしているのに、一切の色味を持たない「無色のオーラ」。それは、僕がこれまで誰からも見たことのない、空虚で、不気味なほどの静寂を湛えた色だった。
「陽翔?」
僕が思わず声をかけると、彼は振り返り、いつもと変わらない笑顔を見せた。
「お、蒼。待たせたな。帰るか」
彼の声も、表情も、仕草も、昨日までの陽翔と何一つ変わらない。だが、僕の目には、感情という名の色彩を完全に失った、空っぽの器のように映っていた。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。僕たちの友情を照らしてきた光が、何の前触れもなく、ぷつりと消えてしまった。この日から、僕の世界は静かに歪み始めた。
第二章 無色の探求
陽翔のオーラから色が消えて一週間が経った。彼の態度は驚くほど普段通りで、それが僕を一層混乱させた。彼は冗談を言って笑い、部活の練習に汗を流し、僕のくだらない話にも相槌を打ってくれる。他の誰も、彼の変化に気づいていない。僕だけが、色のない彼を見て、言いようのない恐怖と疎外感に苛まれていた。
「なあ、陽翔。最近、何かあったか?悩みとか」
ある日の帰り道、僕は意を決して尋ねた。僕の視界の中で、僕自身の不安は、濁った紫色の靄となって足元に漂っている。
陽翔はきょとんとした顔で僕を見た。
「悩み?別にないけど。なんで?」
彼の周りは、やはり無色だ。感情の機微が全く読み取れない。以前なら、この質問をすれば、彼の黄金色がわずかに揺らめき、「心配してくれてるんだな」という彼の温かい感情が伝わってきたはずだった。
「いや……なんとなく、疲れてるように見えたから」
嘘だった。僕には彼の感情が何も見えないのだ。疲れているかどうかなんて、分かるはずもなかった。
「そうか?いつも通りだぜ。お前こそ、最近ぼーっとしてるぞ」
陽翔は僕の肩を軽く叩いた。その感触は温かいのに、僕の目に見える彼は、氷の彫像のように冷たく感じられた。
色が見えないという事実は、僕たちの関係を静かに蝕んでいった。僕は陽翔の言葉の裏を読むことができなくなり、彼の本心が分からなくなった。彼が笑っていても、本当に楽しいのか確信が持てない。彼が頷いても、心から同意しているのか疑ってしまう。僕が友情の確かさとして拠り所にしていた「色」という名の共通言語を、僕たちは失ってしまったのだ。
やがて僕は、陽翔を避けるようになった。彼の無色のオーラを見るのが怖かった。それはまるで、鏡を覗き込んだら自分の顔が映らないような、根源的な恐怖だった。陽翔も僕のよそよそしい態度に気づいたのか、次第に距離を置くようになった。教室で目が合っても、どちらからともなく逸らす。かつて黄金色の光で結ばれていた二人の間には、冷たくて透明な壁ができていた。僕は孤独だった。色に溢れた世界の中で、最も大切な色だけが見えない。それは、世界そのものが色褪せていくような感覚だった。
第三章 黄金色の真実
陽翔との溝が深まる中、僕は彼の奇妙な行動に気づいた。週に数回、彼は部活を休み、一人でどこかへ出かけているようだった。行き先を尋ねても、「ちょっと野暮用」と曖昧に笑うだけ。その無色の笑顔が、僕の疑念を増幅させた。
ある雨の日、僕は衝動的に彼の後をつけた。傘も差さずにバスに乗り込む彼の背中を追い、たどり着いたのは、街外れにある真新しい総合医療センターだった。僕の知らない世界。陽翔が、なぜこんな場所に?
胸騒ぎを抑えきれず、僕はセンターのロビーで彼を待ち伏せた。数時間後、診察室から出てきた陽翔は、僕の姿を認めると、一瞬だけ目を見開いた。その表情には、色こそ見えなかったが、隠しきれない動揺が滲んでいた。
「……来てたのか」
彼の声は、いつもよりずっと低く、乾いていた。
「ここ、病院だろ。どこか悪いのか、陽翔」
僕の声は震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない感情が渦巻く。どうして何も話してくれなかったんだ。僕たちは、親友じゃなかったのか。
近くの公園のベンチに座り、僕たちは長い間黙っていた。降りしきる雨が、僕たちの間の沈黙を重くしていた。やがて、陽翔が静かに口を開いた。
「俺さ、病気なんだ。あまり、良くないやつ」
彼の言葉は、冷たい雨粒のように僕の心に染み込んだ。
「……治らないんだ。もう、そんなに時間も残ってない」
頭が真っ白になった。嘘だ、と思った。冗談だと言ってほしかった。でも、彼の横顔は、僕が今まで見たことがないほど真剣で、そして哀しげだった。
「お前の能力のこと、俺、知ってるんだ」
陽翔は続けた。僕は息を呑んだ。誰にも話したことのない、僕だけの秘密。
「昔、お前が熱を出してうなされてる時に、寝言で言ってた。『陽翔は黄金色だ』って。それから、ずっと考えてた。お前にとって、俺の感情の色が、どれだけ大事なものなのか」
彼は、僕の視界から色が消えた理由を語り始めた。彼が通っていたのは、単なる病院ではなかった。そこでは、人の意識をデジタルデータ化し、永遠に保存するという最先端の研究が行われていた。陽翔は、その被験者になっていたのだ。自分の死後、AIアバターとして僕のそばに在り続けるために。
「意識を正確にデータ化するには、感情の波を限りなくゼロに近づける必要があるんだ。そのための、特殊な精神トレーニングをずっと……。だから、俺から色が消えたんだ。感情を、捨てたんじゃない。平坦にして、記録してたんだ」
無色は、感情の欠如ではなかった。それは、僕を悲しませまいと、最後まで「いつも通りの陽翔」を演じきろうとした彼の、悲しいほどの優しさと覚悟が作り出した、究極のコントロールの色だったのだ。僕が恐怖を感じていたあの静寂は、親友が命を懸けて僕のために遺そうとしてくれた、友情の形そのものだった。
「ごめん、蒼。お前を不安にさせたかったわけじゃない。ただ、怖かったんだ。お前に、俺の哀しみの藍色を見られるのが」
涙が溢れて止まらなかった。僕は色に囚われ、陽翔の心の叫びを聞こうともしなかった。見るべきだったのはオーラの色なんかじゃない。目の前で苦しんでいた、親友の顔そのものだったのだ。雨に濡れたアスファルトの上で、僕はただ、泣き続けた。
第四章 心で見る色
その日を境に、僕と陽翔の関係は変わった。いや、元に戻った、というより、もっと深く、確かなものになった。僕の目には依然として陽翔の無色のオーラしか映らない。だが、もうそれは怖くなかった。僕は色に頼るのをやめた。彼の言葉の一つ一つに耳を傾け、彼の微かな表情の変化を見つめ、震える指先の温もりを感じた。
僕たちは、残された時間を慈しむように過ごした。くだらない話で笑い合い、昔みたいに肩を並べて歩いた。彼の体は日に日に弱っていったが、僕といる時の彼は、いつも穏やかに微笑んでいた。その笑顔には、もう色を探す必要はなかった。彼の心が、痛いほど伝わってきたからだ。
「なあ、蒼」
ホスピスの窓から夕陽を眺めながら、陽翔が言った。
「俺のAI、完成したらしい。俺がいなくなっても、あいつがお前のそばにいる。寂しくないだろ?」
僕は静かに首を振った。
「いらないよ、そんなもの」
「え?」
「僕の親友は、陽翔だけだ。今、ここにいる、お前だけだ。デジタルのお前じゃない。たとえお前がいなくなっても、僕の中の記憶が、お前の代わりなんて絶対に認めない」
僕の言葉に、陽翔は驚いたように目を見開いた後、ふっと息を漏らすように笑った。そして、彼の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。その瞬間、僕は見たのだ。彼の無色のオーラの中に、ほんの一瞬、淡く、しかし確かに輝いた、懐かしい黄金色の光の粒を。それは彼が感情のコントロールを解いた証であり、僕に向けられた、ありのままの心の色だった。
陽翔が旅立って一ヶ月が経った。彼のAIアバターとは、一度だけ対面した。それは完璧な陽翔だった。声も、仕草も、記憶も、すべてが生前の彼そのものだった。しかし、やはりそこには何の色も見えなかった。僕はAIに「ありがとう。でも、さよならだ」と告げ、研究室を後にした。
今、僕は一人で夕陽が沈む道を歩いている。世界は相変わらず様々な感情の色で満ちている。道行く人々のオーラが、赤や青や黄色に輝いて見える。もう二度と、あの特別な黄金色を見ることはできない。胸が張り裂けそうなほどの喪失感が、僕を襲う。
だが、僕は空を見上げる。そこには、陽翔が好きだった、燃えるような茜色の空が広がっていた。目を閉じると、瞼の裏に鮮やかに蘇る。僕を照らしてくれた、温かい黄金色の光。それはもう、僕の能力が見せるオーラではない。陽翔と過ごした日々が僕の心に刻み込んだ、永遠に消えることのない記憶の色だ。
色が見えなくても、心で繋がっていれば、友情は決して消えはしない。僕は、陽翔が教えてくれたその真実を胸に、ゆっくりと前へ歩き出した。僕の世界は、これからも色で満ちている。そしてその中心には、いつだって君の黄金色の記憶が輝いている。