メメント・ラプソディ

メメント・ラプソディ

6 4868 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 色のないオルゴール

カイの指先は、冷たいコンソールの上を滑るように動いていた。彼の仕事は、血を流さない戦争を遂行すること。物理的な破壊ではなく、精神的な解体を目的とする、新時代の兵士だった。彼の戦場は、網膜に投影されるホログラムと、ヘッドセットから流れ込む無機質な音声データがすべてだった。

「目標領域、セクター・ガンマ7。対象、住民の『愛郷心』に関する記憶クラスター。消去シークエンスを開始せよ」

上官の冷静な声が響く。カイは躊躇なくコマンドを打ち込んだ。彼の目の前には、セクター・ガンマ7の街並みがリアルタイムで映し出されている。広場の噴水で遊ぶ子供たち、カフェのテラスで談笑する老人、家路を急ぐ若い男女。彼らはまだ知らない。数分後、自分たちが生まれ育ったこの街への愛着が、まるで朝霧のように、跡形もなく消え去ってしまうことを。

「サイレント・パージ、実行」

カイが最後のキーを叩くと、コンソールの中央に淡い光の波紋が広がった。それは、目に見えない精神の津波。波はセクター・ガンマ7を覆い尽くし、モニターの中の人々の表情から、微かな色が抜け落ちていくように見えた。笑っていた者は、なぜ笑っていたのかを忘れ、語らっていた者は、言葉の熱を失った。戦意とは、突き詰めれば感情の集合体だ。愛国心、仲間意識、故郷への想い。それらを一つずつ剥ぎ取っていけば、人間は戦う理由を失う。これが、カイが属する「記憶消去師団」の、人道的かつ最も効率的な戦術だった。

任務完了のサインが点灯し、カイは深く息を吐いた。また一つ、無血の勝利がもたらされた。しかし、その瞬間だった。モニターの隅で、広場の隅に座り込んでいた一人の少女が、ふと顔を上げた。年の頃は十歳くらいだろうか。虚ろな瞳が、まるでレンズの向こう側のカイを真っ直ぐに見つめているように感じられた。

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。少女の手には、古びた真鍮のオルゴールが握られていた。その形、表面に彫られた星の模様。それは、カイが物心つく前になくしたと聞かされていた、ただ一つの思い出の品と瓜二つだった。

ありえない。敵国の、名前も知らない少女が、なぜ。

思考が凍りつく。カイは無意識に、映像を拡大した。少女の顔がアップになる。その大きな瞳と、固く結ばれた唇の形が、彼の脳裏に焼き付いて離れない、忘れたはずの誰かの面影と重なった。頭の奥で、錆びついた金属が軋むような痛みが走る。彼は誰だ? ここで何をしている? そして、あの少女は、一体誰なんだ?

コンソールに映る「任務完了」の緑色の文字が、カイの世界そのものに亀裂が入った音のように思えた。

第二章 盗まれた心の在処

あの日以来、カイの世界は変容した。無機質だった作戦室の空気が肌にまとわりつき、モニターに映る敵国の街並みが、ただのデータではなく、生きた人間の営みとして目に映るようになった。そして何より、あの少女の瞳が、彼の意識の底に常に浮かんでいた。

「最近、集中力を欠いているぞ、カイ」

同僚のリアが、コーヒーを片手に声をかけてきた。彼女は師団でも古参で、常に冷静沈着な女性だった。

「気のせいです」

カイは短く答え、手元の記録を睨んだ。しかし、彼の目は文字を追っているだけで、その意味は頭に入ってこない。

彼は、あの少女とオルゴールの謎を解明するため、職権を濫用して過去の作戦記録を漁っていた。セクター・ガンマ7への作戦は、表向きには「敵の抵抗拠点を無力化するため」とされていた。しかし、カイが深く探っていくと、奇妙な点が見つかった。彼らが消去した「愛郷心」の記憶データは、破棄されるのではなく、どこか別のサーバーへと転送されていたのだ。転送先は最高機密レベルでロックされており、カイの権限ではアクセスできなかった。

「何かを探しているの?」

リアが再び尋ねた。彼女の鋭い視線がカイを射抜く。

「……俺たちがやっていることは、本当に正しいんでしょうか」

思わず、心の声が漏れた。

「何を今更。我々は命を奪っていない。ただ、戦いの火種を消しているだけ。それこそが人道よ」

リアはこともなげに言う。だが、その声には感情が一切乗っていなかった。まるで、誰かにプログラムされた言葉を再生しているかのように。

その夜、カイは禁止されている敵国の傍受回線に、非公式にアクセスを試みた。膨大なノイズの中から、彼はいくつかの市民の通信を拾い上げることに成功した。聞こえてきたのは、困惑と喪失の声だった。

「昨日まで、どうしてあんなにこの街が好きだったのか、思い出せないんだ」

「夫の顔を見ても、何も感じないの。愛していたはずなのに、その感覚だけがすっぽり抜け落ちている……」

彼らが奪っているのは、戦意だけではなかった。愛、喜び、絆。人間を人間たらしめている、心の根幹そのものだった。自分たちは、血を流さない代わりに、魂を殺しているのではないか。その考えが、冷たい水のようにカイの全身に染み渡っていく。

彼は、リアの言葉を思い出していた。「命を奪っていない」。それは本当だろうか。記憶を失い、愛する術を忘れ、ただ呼吸しているだけの存在。それは、生きていると言えるのだろうか。

カイは、自分の胸に手を当てた。そこにあるはずの「故郷への想い」や「仲間への信頼」が、ひどく薄っぺらく、借り物のように感じられた。まるで、誰かから与えられた、既製品の感情のように。

疑念は確信に変わりつつあった。この戦争の裏には、自分が想像もしなかった、さらに深い闇が広がっている。そして、その闇の先に、あのオルゴールを持つ少女の真実が待っている気がした。

第三章 鏡の中の敵

決死の覚悟で、カイはシステムの最深層部へのハッキングを敢行した。幾重にも張り巡らされたセキュリティを突破し、謎の転送先サーバーの扉をこじ開けた瞬間、彼は息を呑んだ。

そこに保管されていたのは、彼らが敵国から「消去」したはずの、膨大な記憶データだった。しかし、それらは破棄されるどころか、丁寧に分類・編集され、「再利用」されていたのだ。

モニターに表示されたファイル名は、カイの背筋を凍らせた。『愛国心強化パッケージ』、『家族愛インプラント』、『自己犠牲精神プログラム』……。

そして、そのデータの注入対象リストを開いた時、カイは自分の名前を見つけた。

愕然とする彼の前で、真実が残酷なパノラマのように広がっていく。彼らが敵から奪った記憶は、消去などされていなかった。それは、自国の兵士たちに「移植」されていたのだ。兵士たちの戦意を高揚させ、揺るぎない忠誠心を植え付けるために。敵国民から奪った「故郷への愛」や「家族との絆」の記憶が、彼ら兵士の心を形成する部品として使われていたのだ。

カイが抱いていた故郷への誇りも、仲間への信頼も、すべては誰かから盗んできた、偽りの感情だった。

彼は震える手で、自身の個人ファイルを開いた。そこには、彼の「オリジナル」のデータが記録されていた。

出身地:セクター・ガンマ7。

本名:リオ。

家族構成:父、母、妹(リナ)。

特記事項:十年前の『初期記憶置換計画』の被験体。対象の記憶を消去後、「カイ」としての新人格データをインプラント。

頭を殴られたような衝撃。セクター・ガンマ7は、敵国などではなかった。そこは、彼の故郷だった。そして、モニターの向こうでオルゴールを握りしめていた少女、リナ。彼女は、彼が記憶と共に奪われた、たった一人の妹だったのだ。

カイが持っていたオルゴールの断片的な記憶は、強力な記憶消去でも消しきれなかった、魂の残滓だった。

自分が信じてきた正義、自分が守ってきたはずの国、自分自身という存在。そのすべてが、巨大な嘘の上に成り立っていた。鏡に映った自分の顔は、憎むべき敵の顔をしていた。彼は、故郷を破壊し、家族の心を殺した張本人だったのだ。

「……ああ……あぁぁぁ……」

声にならない嗚咽が漏れた。作戦室の冷たい床に崩れ落ち、彼はただ泣いた。盗まれた記憶の代わりに植え付けられた偽りの涙が、止めどなく頬を伝った。世界が反転する。敵は、外にはいなかった。本当の敵は、このシステムそのものであり、それに加担してきた自分自身だった。

第四章 沈黙のレクイエム

絶望の淵から這い上がったカイの瞳には、もはや迷いはなかった。彼が為すべきことは一つ。この狂ったシステムを、内側から破壊することだ。彼は復讐を望んだわけではない。ただ、これ以上、誰かの心が弄ばれ、偽りの憎悪が生まれる連鎖を断ち切りたかった。

カイは再びコンソールに向かった。彼の指は、かつてないほど正確に、そして静かにキーを叩いていく。彼が構築したのは、前代未聞のプログラムだった。特定の記憶を消去するのではなく、システムに接続されている全ての人間――敵も、味方も――から、たった一つの感情クラスターを消去する。

その感情とは、「憎悪」だった。

リアがカイの異変に気づき、駆けつけた時には、すべてが手遅れだった。

「カイ、あなた、何を! システムが暴走するわ!」

彼女の悲鳴が響くが、カイは止めない。

「これが、俺にできる唯一の償いだ」

彼は、最後のリターンキーを叩いた。

瞬間、世界中のサーバーが悲鳴を上げた。記憶消去の波が、憎悪をターゲットに、全世界へと拡散していく。しかし、憎しみという強烈な感情は、愛や喜びといった他の多くの感情と複雑に絡み合っていた。システムはそれを正確に分離できず、暴走を始めた。

兵士たちの銃口が、目的を失って下がっていく。司令官たちの怒声が、意味をなくして消えていく。国境線で睨み合っていた両軍の兵士たちは、なぜ自分たちがここにいるのか分からなくなり、ただ静かに空を見上げていた。

世界から、戦争の熱が急速に失われていく。しかし、その代償は大きかった。人々は憎しみを忘れると共に、愛する情熱も、夢を見る希望も、その多くを失ってしまった。世界は、静寂に包まれた。それは平和という名の、色のない沈黙だった。

カイ自身も、システムの過負荷の奔流に飲み込まれていた。妹リナの顔、オルゴールの音色、そして自分が「カイ」であるという記憶さえも、激しい光の中に溶けていく。意識が遠のく直前、彼は確かに聞いた気がした。遠い故郷で、妹が奏でる、懐かしいオルゴールのメロディーを。

――数年後。

戦争は、終わった。いや、忘れ去られた、と言うべきか。世界は感情の起伏の少ない、穏やかで、どこか寂しい場所になっていた。

小さな海辺の町で、一人の男が静かに暮らしていた。彼は自分の名前も過去も思い出せなかったが、町の人間は彼を「カイ」と呼んだ。彼は、ただ黙々と、壊れた機械を修理して日々の糧を得ていた。

ある晴れた午後、彼の仕事場の前に、一人の少女が立っていた。彼女は、古びた真鍮のオルゴールを大切そうに抱えている。

「これを、直してもらえますか?」

少女が言う。男――カイは、そのオルゴールを見て、胸の奥が微かに痛むのを感じた。理由はわからない。

彼はオルゴールを受け取り、蓋を開けた。ゼンマイを巻くと、懐かしいような、切ないようなメロディーが、錆びついた音で流れ出した。

その音色を聴いた瞬間、カイの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

なぜ泣いているのか、彼自身にも分からなかった。記憶は何も教えてくれない。だが、彼の魂が、心が、その音色を覚えていた。目の前の少女が、決して失ってはいけない、大切な存在であることを告げていた。

少女は、泣いているカイをただ静かに見つめていた。彼女の瞳にも、うっすらと涙が浮かんでいた。二人の間には言葉はなかった。ただ、壊れたオルゴールの優しい旋律だけが、色を失った世界に、小さな、確かな温もりを灯していた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る