残光のクロニクル
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残光のクロニクル

第一章 硝子の戦場

鉄の匂いがした。雨に濡れた土と、遥か昔に流れたであろう血の匂いが混じり合い、レオの肺腑を冷たく満たす。彼は膝をつき、ぬかるんだ大地にそっと指を這わせた。彼の視界だけが、この世界の真の姿を捉えている。

レオの目には、音が見える。ただし、それは現在のものではない。百年、二百年、あるいはそれ以上も昔、この地で繰り広げられた戦争の音だけが、声なき光の残像となって彼の網膜に焼き付いていた。兵士たちの絶叫は、空を切り裂く緋色のリボンとなって乱れ飛ぶ。砲弾の炸裂は、一瞬だけ咲いては消える巨大な白百合のようだ。すべてが無音で、それでいてあまりにも雄弁な光の交響曲。人々はこの能力を「残光憑き」と呼び、忌み嫌った。

彼は、その光が凝縮された小さな破片を探していた。過去の音が結晶化した、『透明な硝子の欠片』。指先に冷たい感触があった。泥の中から現れたそれは、掌の上で淡い琥珀色の光を放っている。恐らくは、名もなき兵士が故郷を想う、最後の吐息の残光だろう。

ふと顔を上げると、丘の向こうでまた新たな戦端が開かれようとしていた。アウストラ帝国とリベルタ共和国。数世紀に及ぶ泥沼の戦争。その戦場で鳴り響く現在の爆音は、レオにはただの轟音としてしか聞こえない。過去の悲劇だけが、彼の世界を彩っていた。彼は硝子を懐にしまうと、新たな戦火に背を向け、静かにその場を立ち去った。この延々と続く戦争に、誰もがうんざりしているはずなのに、なぜ終わらないのか。その答えの欠片を、彼は今日も拾い続ける。

第二章 歪な和平

レオが暮らす辺境の町の酒場に、その女は現れた。エリアと名乗った彼女は、歴史学者だと言った。その瞳は、レオが拾い集める硝子の欠片よりもなお、強い探求の光を宿していた。

「あなたですね、残光憑きのレオというのは」

エリアは単刀直入に切り出した。彼女の声は落ち着いていたが、その内には抑えきれない熱がこもっている。レオは黙って杯を傾けた。関わるつもりはなかった。

「歴史を調べています。記録上、奇妙な空白がいくつもあるのです」

彼女は古びた羊皮紙をテーブルに広げた。「これは八十年前に試みられた和平交渉の記録。両国の代表が署名する直前までの記録は詳細に残っているのに、その後の三日間が、あらゆる文献から綺麗に消え去っている。まるで、初めから存在しなかったかのように」

エリアは続けた。世界の『時間』は、流された血の量に比例して歪む。大規模な戦闘があった場所では、一瞬が永遠にも感じられることがある。だが、彼女が言うのはそれとは違う、もっと人為的で、暴力的な時間の抹消だった。

「これは、ただの時間の歪みではない。誰かが意図的に、平和へ向かう時間を『巻き戻して』いるとしか思えません」

レオは初めて彼女の顔を見た。その真剣な眼差しから逃れるように視線を逸らす。だが、エリアが懐から取り出したものに、彼は息を呑んだ。それは、彼が今まで見たこともないほど複雑で、虹色の光を内包する硝子の欠片だった。

「これは和平交渉が行われた城跡で見つけました。あなたなら、この中に何が記録されているか、見えるはずです」

第三章 触れた記憶

レオは抗えなかった。その硝子の欠片が放つ、悲痛なまでの輝きに引き寄せられていた。彼は震える指先で、エリアが差し出したそれに触れた。

瞬間、世界が反転した。

彼の脳裏に、壮麗な広間で交わされる和平交渉の光景が、奔流となって流れ込む。帝国の皇帝と共和国の議長が、固い握手を交わす。窓の外では民衆が歓喜の声を上げ、白い鳩が空へと放たれる。血ではなく、希望によって時間が満たされる、奇跡のような瞬間。

だが、次の刹那。

世界が、ぐにゃりと歪んだ。レオの全身を、経験したことのない強烈な吐き気が襲う。空が裂け、大地が呻き、時間が逆向きに猛然と流れ始めたのだ。握手は解かれ、笑顔は困惑に変わり、放たれた鳩は空中で霧散して手の中へと戻っていく。まるで、出来事そのものが巨大な消しゴムで乱暴に消されていくようだった。

そして、レオは『見た』。時間の奔流の遥か高みから、この世界を睥睨する、冷たい『意志』の存在を。それは神でも悪魔でもない。ただ、無感情に歴史を修正する、巨大なシステムの視線。第三の勢力。彼らは、平和という『エラー』を許さない。

レオは叫び声を上げて欠片から手を離した。全身は冷や汗で濡れ、心臓が肋骨を叩いていた。

「見たのか……」エリアが息を殺して問う。

「……ああ」レオはかろうじて頷いた。「俺たちは、何かに監視されている。そして、平和は『間違い』として、消されたんだ」

第四章 第三の影

真実の断片を求め、二人は「大断絶」と呼ばれる、史上最大の激戦地へと足を踏み入れた。ここは世界の傷跡そのものだ。時間の流れが極端に不安定で、一歩進む間に隣を歩く相手が老人になり、次の瞬間には赤子に戻るとさえ言われる禁断の地。

レオの能力が、ここでは唯一の羅針盤だった。過去の膨大な死が放つ光の残像が、嵐のように吹き荒れている。絶叫の緋色、憎悪の黒、無念の藍。あまりの情報の濁流に、レオは何度も膝をつきそうになった。

「ダメだ、情報が多すぎる……」

「諦めないで、レオ。何か、他とは違う光があるはず」エリアが彼の腕を支える。

レオは目を凝らした。無数の光の残像の渦、その中心。ほんの僅かな揺らぎ。そこだけ、他の残像とは異なる、まるで未来の光が過去に漏れ出しているかのような、白金の輝きがあった。それは、この戦場に散らばる無数の硝子の欠片とは比較にならないほど巨大な、まるで祭壇のような水晶体から放たれていた。

時間の嵐を抜け、二人はその水晶体にたどり着く。それは脈動するかのように、明滅を繰り返していた。これが、すべての謎の核心。レオは覚悟を決め、エリアの制止を振り切り、その冷たい表面に掌を押し当てた。

第五章 未来からの調律

レオの意識は、肉体を離れ、時間そのものの奔流へと溶けていった。過去と未来の境界線が消え失せ、彼は因果の鎖を遡り、そして下っていく。彼が見たのは、絶望的なまでに遠い未来の人類の姿だった。

彼らは、我々とは違った。数千年、数万年に及ぶ絶え間ない戦争は、皮肉にも人類を進化させていた。生存競争の極致で、彼らは血に刻まれた膨大な死の記憶から、『時間』そのものを認識し、観測し、やがては干渉する能力を開花させたのだ。彼らは肉体を半ば捨て、純粋な意識体に近い存在となっていた。

そして、彼らは気づいた。自分たちの存在が、過去の特定の『血の量』と、それによって引き起こされる『時間の伸縮』という、奇跡的なまでの偶然の積み重ねの上に成り立っていることを。もし、過去のどこかで大規模な戦争が回避され、平和が訪れていたら。流される血の量が足りなければ、時間の歪みが生まれず、彼らの祖先は進化のきっかけを掴めない。つまり、彼らは『誕生しない』のだ。

第三の勢力の正体。それは、未来の我々自身だった。

彼らは、自らが存在する歴史を『正史』として維持するため、過去に干渉していた。歴史を監視し、平和という不協和音が生じそうになるたびに、時間を巻き戻して戦争を継続させる。『残光』としてレオが見ていたものの一部は、彼らが過去を観測するためのプローブの痕跡だった。この終わりなき戦争は、彼ら未来人にとって、自らを産み出すための壮大な『揺りかご』だったのである。

第六章 残光の選択

意識が戻った時、レオは水晶体の前で泣いていた。絶望が、彼の魂を根こそぎ喰らっていた。

エリアが彼の肩を揺する。「レオ! 何が見えたの?」

レオはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もはや何の光も宿ってはいなかった。

「……無駄なんだ、エリア。すべて」

彼は途切れ途切れに語った。この戦争は、終わらせてはならないのだと。我々が流す血の一滴一滴が、未来の人類を形作るための礎なのだと。我々が求める平和は、未来に生まれるはずの子孫たちを、その存在ごと抹殺する行為に等しいのだと。

エリアは絶句し、その場に崩れ落ちた。

「そんな……じゃあ、私たちは、未来の奴隷だって言うの……? 彼らが生まれるためだけに、殺し合いを続けろと?」

「奴隷じゃない」レオは力なく首を振った。「俺たちは、彼ら自身なんだ。過去の……未熟な、俺たち自身なんだよ」

レオは立ち上がり、懐から集めてきた硝子の欠片を一つ、掌に取り出した。それは名もなき兵士の最後の吐息。故郷を想う琥珀色の光が、静かに瞬いている。この小さな光もまた、未来を紡ぐための一つの部品に過ぎなかった。

この真実を、誰に伝えればいい? 伝えたところで、何が変わる? 戦争を続けることは地獄だ。だが、戦争を止めることは、人類という種の可能性そのものを摘み取ることになる。

レオにはもう、どちらが正しいのか分からなかった。彼はただ、掌の中の小さな残光を見つめる。過去の無数の叫びと祈りが、声なき光となって彼に問いかけている。お前は、どちらを選ぶのか、と。

空には、今日も戦火の煙が上がっていた。それは未来を産み出すための、聖なる狼煙なのかもしれない。レオは硝子の欠片を強く握りしめたまま、その空を、ただ黙って見上げていた。

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