第一章 忘却の雨音
泥の味は、いつも鉄の味に似ている。
口の中に入り込んだ砂を吐き出す。
唾液には、うっすらと赤が混じっていた。
「おい、エリアス。また震えてんのか」
頭上から降ってきた声に、俺は身体を強張らせる。
塹壕の縁に腰掛けた男、ミラー軍曹が呆れたように俺を見下ろしていた。
彼がくわえたタバコの火だけが、この灰色の世界で唯一の色彩に見える。
「す、すみません……軍曹」
「謝る暇があったら、その『荷物』を濡らすなよ。俺たちの命より重いんだ」
俺は背中のコンテナを強く抱きしめる。
重厚な金属製のケース。
コードネーム『箱舟(アーク)』。
中身は知らされていない。
ただ、この戦線を突破し、司令部へ届けろという命令だけがあった。
雨が強くなる。
視界の悪いこの雨こそが、敵の『消去者(イレイザー)』から身を隠す唯一のカーテンだ。
「なあ、エリアス」
ミラー軍曹がふと、低い声で言った。
「お前、昨日の晩飯、何だったか覚えてるか?」
「へ?」
「俺はもう、思い出せねえんだ」
軍曹の指先が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。
「缶詰のシチューですよ。牛肉と、崩れたジャガイモの。少し焦げた匂いがして……軍曹は『靴底の味がする』って文句を言ってました」
「……そうか。そうだったな」
軍曹は安堵したように息を吐く。
敵の使う兵器は、肉体よりも先に、記憶を喰らう。
指向性の電磁パルスが脳の海馬を焼き、自分が誰なのか、なぜ戦っているのかを忘れさせる。
忘却こそが、この戦争における最大の死だ。
「お前はすげえな。何でも覚えてやがる」
「……忘れられないだけです」
俺は自分のこめかみを指先で押さえた。
完全記憶能力。
見たもの、聞いたもの、嗅いだもの。
その全てを脳が勝手に記録し、二度と消去しない。
幼い頃は神童と呼ばれたが、この地獄のような戦場では、呪いでしかなかった。
仲間の飛び散った肉片の形。
断末魔の音程。
腐敗臭の濃度。
全てが鮮明なまま、毎晩夢に出てくる。
「出発だ」
軍曹がタバコを泥水に捨て、立ち上がる。
俺は『箱舟』の重みを背中に食い込ませ、泥濘(ぬかるみ)へと足を踏み出した。
第二章 空白の行軍
道なき森を進む。
三人の護衛兵が先行し、俺とミラー軍曹が中央を行く。
スマホの画面を見るような余裕はない。
神経を張り詰め、落ち葉を踏む音にさえ過剰に反応してしまう。
「エリアス」
前を歩くミラー軍曹が、背中越しに話しかけてきた。
歩調を緩めず、周囲を警戒したままだ。
「この戦争が終わったら、何がしたい?」
典型的な死亡フラグだ。
映画なら、ここで答えた奴は次の瞬間に撃ち抜かれる。
だが、沈黙は恐怖を増長させるだけだった。
「……海が見たいです」
「海か。いいな」
「本でしか見たことがないんです。青くて、しょっぱくて、波の音がして……。軍曹は?」
「俺か? 俺は……」
言葉が途切れる。
足音が止まった。
「軍曹?」
「……俺の娘の名前、何だったかな」
背筋が凍る。
風が止んだ。
鳥の声が消えた。
森全体が、真空パックされたような静寂に包まれる。
『消去者』だ。
「伏せろぉぉぉッ!!」
叫びと同時に、俺は泥の中に飛び込んだ。
直後、空気が裂けるような高周波音が鼓膜を打つ。
先行していた兵士の一人が、立ったまま動かなくなる。
撃たれたわけではない。
彼の瞳から、理性の光が消えていく。
銃を落とし、虚空を見つめ、自分が何であるかを忘却したまま、ただの肉塊となって崩れ落ちた。
「撃てッ! 奴らはそこにいる!」
ミラー軍曹がアサルトライフルを乱射する。
空間が歪んでいる場所に向けて、曳光弾が吸い込まれていく。
俺は動けなかった。
震える手で『箱舟』を抱え、泥を啜るように地面に這いつくばる。
怖い。
死ぬのが怖いんじゃない。
「忘れる」のが怖いんだ。
「エリアス! 走れッ!」
軍曹が俺の襟首を掴んで引きずり起こす。
「でも、軍曹……!」
「俺たちはここで食い止める! お前はその箱を届けろ!」
「無理です! 俺一人じゃ……!」
「行けぇぇぇッ!!」
軍曹が俺を突き飛ばす。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。
彼の左目が、白濁し始めていた。
記憶の侵食が始まっている。
「リサだ……」
軍曹が呟く。
「俺の娘の名前は、リサだ。五歳で、前歯が抜けたばかりで……」
彼は必死に、残された記憶の断片を言葉にして繋ぎ止めていた。
「エリアス、覚えておいてくれ! 俺が俺でなくなっても、お前の中に、俺の記憶を残してくれ!」
俺は頷くことしかできなかった。
涙で視界が歪む。
それでも、俺の脳はその光景を完璧に「記録」していた。
軍曹の、死を覚悟した男の、凄絶な笑顔を。
俺は背を向け、走った。
背後で銃声が激しくなり、そして唐突に途絶えるまで、俺は一度も振り返らなかった。
第三章 空っぽの希望
息が切れる。
肺が焼けつくようだ。
泥に足を取られ、何度も転んだ。
その度に、『箱舟』をかばって身体中を打撲した。
司令部との合流地点である廃墟の教会が見えてきた。
だが、そこには味方の姿はなかった。
瓦礫の山と、破壊された通信機があるだけだ。
「嘘だろ……」
膝から崩れ落ちる。
全滅。
ここも既に、やられていた。
俺は何のために走ったんだ。
ミラー軍曹は、何のために死んだんだ。
絶望が黒いインクのように心に広がる。
その時、瓦礫の陰からノイズのような音が響いた。
『……聞こえるか……生存者……応答せよ……』
破壊された通信機が生きていた。
俺は這いつくばってマイクを握る。
「こちら、第104部隊通信兵、エリアス・ノヴァク! 『箱舟』を……『箱舟』を持っています!」
『……エリアスか。よくやった……だが、もう手遅れだ』
ノイズ混じりの声は、遠い地下壕からの司令官のものだった。
『敵の包囲網が完成した。そこも数分で消去エリアになる』
「そんな……じゃあ、この『箱舟』はどうすれば!?」
『箱を開けろ』
「え?」
『権限を解除する。中を見ろ』
電子ロックが解除される音が、背中のコンテナから響いた。
俺は震える手で、泥まみれのコンテナを開く。
中には、最新鋭の記憶媒体か、あるいは強力な爆弾が入っているはずだった。
しかし。
「……なんですか、これ」
空っぽだった。
正確には、一枚の鏡が貼り付けられているだけだった。
鏡の中に、泥と血に塗れ、情けない顔をした俺が映っている。
『空っぽだ』
司令官の声は淡々としていた。
『物理的な記録媒体は、敵の兵器の前では無力だ。電子データも、紙の記録も、全て分解・消去される』
「じゃあ、俺たちが命懸けで運んだこれは……囮(おとり)だったんですか!?」
怒りで視界が赤くなる。
ミラー軍曹は、空箱のために死んだのか。
『囮ではない。箱は、お前を守るための盾だ。カモフラージュだ』
「どういう……意味です?」
『真の「箱舟」は、お前だ。エリアス』
言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
『お前の完全記憶能力(ハイパーサイメシア)。その脳こそが、人類の歴史、文化、そしてこの戦争の真実を保存できる唯一の媒体だ。お前が見てきた全てが、未来への遺産なんだ』
俺は鏡の中の自分を見る。
怯えた、ただの若造。
だが、その脳裏には、数え切れないほどの風景が焼き付いている。
焼けたパンの匂い。
母の子守唄。
初めて読んだ本。
そして、ミラー軍曹の最期の笑顔。
「……俺が、箱舟」
『敵が迫っている。逃げる場所はない。だが、一つだけ手がある』
司令官の声が、厳かに響く。
『お前の脳データを、衛星経由でクラウドへ強制送信(アップロード)する。お前の記憶を、世界中にばら撒くんだ。そうすれば、奴らは歴史を消せなくなる』
「それをやったら……俺はどうなりますか?」
沈黙が答えだった。
脳の神経回路に過負荷がかかる。
焼き切れる。
つまり、廃人になるか、死ぬか。
教会のステンドグラスが割れ、風が入ってきた。
あの音が近づいている。
『消去者』の足音。
逃げれば、数分は生きられるかもしれない。
だが、記憶を消されて死ぬ。
ここで送信すれば、俺は死ぬ。
だが、記憶は残る。
俺は懐から、泥だらけのタバコを取り出した。
ミラー軍曹が落としたやつだ。
火をつける。
煙を深く吸い込む。
不味い。
泥と、血の味がする。
「準備、いいですよ」
『……すまない』
「謝らないでください。俺は臆病者だけど……忘れん坊じゃないんで」
俺は通信機のケーブルを引き抜き、自分のヘルメットの端子に接続する。
第四章 永遠の瞬き
教会の扉が吹き飛ぶ。
現れたのは、顔のない兵士たち。
その背後には、空間を歪ませる巨大な『消去装置』が鎮座していた。
俺は彼らを見て、ニヤリと笑った。
膝は震えている。
涙も止まらない。
でも、俺は笑った。
「遅かったな。もう、全部くれてやるよ」
接続スイッチを押す。
瞬間。
頭の中で、宇宙が爆発した。
痛みが光に変わる。
走馬灯なんて生易しいものじゃない。
生まれてから今までの、すべての一瞬が同時に再生される。
夏の草の匂い。
冬の朝の冷たい空気。
初恋の少女の、はにかんだ笑顔。
数学のテストの点数。
昨日の泥の冷たさ。
『リサだ』
軍曹の声が響く。
ああ、そうだ。
リサちゃん。
金髪で、前歯が欠けていて、ピンク色のリボンをしていた写真。
軍曹が大切に持っていた、あの写真の細部まで。
データが空へ昇っていく。
俺の脳を通り抜け、電波となり、大気圏を越え、世界中のサーバーへ、人々の端末へ。
敵の兵士が銃を構えるのが見えた。
銃口のライフリングの溝まで、はっきりと見える。
スローモーションの世界。
俺の肉体はここで終わる。
でも、俺が見たものは消えない。
俺たちが生きた証は、誰かの記憶の中で、何度も何度も再生される。
銃声が響いた。
痛みはない。
ただ、深い安らぎがあった。
視界が白く染まる中で、俺は最後に、見たことのない青い海を見た。
波の音が聞こえる。
しょっぱくて、広くて、どこまでも自由な海。
(ああ、綺麗だな……)
俺は泥の中で、永遠の夢を見た。
最終章 記憶の種子
「……というわけで、この祝日は『箱舟の日』と呼ばれています」
教師がホログラムのモニターを消すと、教室の生徒たちがざわめいた。
「先生! そのエリアスって人、本当にいたの?」
「脳みそだけで歴史を守ったなんて、嘘みたーい」
生徒たちの屈託のない声。
窓の外には、復興した街並みが広がっている。
かつての戦場は、今は緑豊かな公園になっていた。
「嘘じゃありませんよ」
教師は微笑み、一冊の古い本を手に取った。
電子データではない、紙の本。
その表紙には、泥に汚れた懐中時計の写真が印刷されている。
「今日、私たちが平和に暮らせているのは、過去の過ちを『覚えている』からです。誰かが命を賭けて、それを伝えてくれたからです」
一人の少女が手を挙げる。
金髪の、前歯が抜けたばかりの少女。
「ねえ先生。私、昨日パパから聞いたよ。エリアスさんが最後に見た海の夢、今のネットの海に似てるって」
「そうですね、リサちゃん」
教師は窓の外、広がる青空を見上げた。
そこには目に見えない無数のデータが風のように流れている。
彼は死んだ。
けれど、世界中の誰もが、彼を知っている。
泥の中で呼吸を止めた箱舟は、今、大空を泳いでいるのだ。
(了)