君に見せるための、嘘の青

君に見せるための、嘘の青

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第一章 ファインダー越しの灰色の世界

放課後の美術室には、油絵具と埃の匂いが充満している。

窓の外は、梅雨入りの雨がアスファルトを叩いていた。

僕は手の中にある、重たい鉄の塊を見つめる。

ニコンF3。

親父の形見のフィルムカメラ。

だが、こいつはもう死んでいる。

シャッター機構が壊れ、レンズの奥にはカビが生え、二度と光を捉えることはない。

ただの、重たいガラクタだ。

「ねえ、湊くん」

背後から声をかけられ、僕は心臓が跳ねるのを隠して振り返った。

篠原あかり。

クラスの誰もが一度は目で追う、色素の薄い髪を持つ少女。

彼女は美術準備室のドア枠に寄りかかり、少し焦点の合わない瞳で僕の方を向いていた。

「……なに」

「今日もカメラ、いじってるんだ」

彼女は机の角に手を添えながら、ゆっくりと近づいてくる。

その足取りは、どこか頼りない。

「いじってるだけだ。写真は撮らない」

「ふうん。もったいないな。湊くんの撮る世界、私見てみたいのに」

彼女は僕の隣の椅子を引き、すとんと座った。

ふわりと、雨の匂いとは違う、甘いシトラスの香りが鼻をくすぐる。

「見ても面白くないよ。ただの風景だ」

「私には、もうすぐ見えなくなるから」

ドキリとした。

彼女はサラリと言った。

まるで明日の天気の話しをするように。

「……え?」

「視野がね、どんどん狭くなってるの。医者が言うには、今年の夏が終わる頃には、ほとんど光しか感じられなくなるって」

彼女は窓の外、灰色の空を見上げた。

その瞳は綺麗なのに、どこか虚ろな光を宿している。

僕は言葉を失った。

なんと声をかければいい?

可哀想に? 大変だね?

そんな安っぽい言葉は、彼女の前では暴力にしかならない。

「だからね、湊くんにお願いがあるの」

彼女は僕の方を向き、悪戯っぽく笑った。

「『幻の青』、撮ってきてよ」

幻の青。

この街に伝わる都市伝説だ。

数年に一度、夏の始まりの夕暮れ時にだけ現れるという、深い藍色と黄金色が混ざり合う奇跡のような空の色。

「無理だろ。あんなの、いつ出るかわからないし」

「予報だと、来週の台風一過の夕方に出る確率が高いんだって」

「でも……」

「私の最後の景色にしたいの。湊くんのカメラで切り取った、最高の一枚を」

彼女の手が、僕の手の甲に触れた。

冷たくて、震えている。

断れるわけがなかった。

僕のカメラが壊れていることなんて、言えるわけがなかった。

僕は、息を吐くように嘘をついた。

「……わかった。撮ってくるよ。最高の一枚を」

これが、僕たちの共犯関係の始まりだった。

第二章 現像されないフィルム

それから毎日、僕は放課後になると彼女の元へ通った。

もちろん、写真は一枚も撮っていない。

カメラを首から下げ、街を歩き回るふりをして、ただ時間を潰して戻ってくるだけだ。

だが、彼女への報告は違った。

「今日はどんな写真が撮れた?」

屋上のベンチ。

彼女は白杖を膝の上に置き、期待に満ちた声で尋ねる。

僕は壊れたカメラを撫でながら、脳内で構築した景色を語り始める。

「今日は、海岸線のバス停を撮ったよ」

「どんなふうに?」

「錆びた標識に、西日が当たってオレンジ色に光ってた。その影が長く伸びて、アスファルトのひび割れを強調してる。向こうに見える海は凪いでいて、水面が鏡みたいに空を反射してたよ」

「へえ……。空の色は?」

「薄い水色から、ピンクへのグラデーション。雲がひとつだけあって、それが溶けかけたソフトクリームみたいだった」

僕は必死に言葉を紡ぐ。

色彩を、光を、匂いすらも言葉に変えて。

彼女に見えない世界を、僕の嘘で塗り替えていく。

「すごいね、湊くん」

彼女は目を細め、まるで見えているかのように微笑む。

「湊くんの写真は、言葉より雄弁だね。頭の中に、色が溢れてくるみたい」

胸が痛んだ。

これは写真じゃない。

ただの作り話だ。

でも、彼女の笑顔を見るたびに、僕は止められなくなった。

彼女の視界は日に日に狭まり、ついには僕の顔の輪郭すらぼやけ始めているようだった。

だからこそ、僕の語る「写真」は、より鮮明でなければならなかった。

ある日、僕は紫陽花の話をした。

雨上がりの雫が、花弁の上で宝石のように光る様子を。

またある日は、野良猫のあくびの話をした。

髭が震える様子や、口の中のピンク色まで詳細に。

彼女はそのたびに、「綺麗だね」「可愛いね」と笑った。

僕の罪悪感は、彼女の笑顔という絵の具で塗りつぶされていった。

「ねえ、湊くん」

「ん?」

「私ね、湊くんの写真が好きだよ。とても優しい色がするから」

彼女は僕の肩に頭を預けた。

「……僕の写真は、君が思ってるようなものじゃないかもしれない」

「ううん、わかるよ。心で撮ってるんでしょ?」

心で撮る。

皮肉な言葉だった。

僕はただ、口先だけで世界を捏造している詐欺師なのに。

第三章 嵐の予感

「幻の青」が現れると予報された日。

朝から空は不穏な色をしていた。

湿った風がカーテンを揺らし、遠くで雷鳴が轟いている。

「今日だね」

昼休み、彼女はパンの袋を開けるのに苦労しながら言った。

「ああ。でも、天気が崩れそうだ」

「大丈夫。きっと晴れるよ。湊くんが撮ってくれるんだもん」

彼女の信頼が重かった。

もし雨が降れば、幻の青は見られない。

いや、晴れたとしても、僕には撮れない。

どうする?

どうやって誤魔化す?

「今日の放課後、いつもの場所で待ってるね」

彼女はそう言って、教室に戻っていった。

放課後、予報通りに雨が降り出した。

それも、バケツをひっくり返したような豪雨だ。

雷光が空を引き裂き、校舎が揺れる。

僕は美術室に駆け込んだ。

彼女は窓際で、立ち尽くしていた。

「あかり」

僕の声に、彼女がビクリと肩を震わせる。

「……雨、だね」

振り向いた彼女の顔は、泣き出しそうだった。

「何も見えない。空も、海も。ただ真っ暗」

彼女は窓ガラスに手を当てた。

「私の最後の日なのに。神様なんていないんだ」

その声の絶望に、僕は拳を握りしめた。

真実を話すべきか?

『最初から撮るつもりなんてなかった』と。

『カメラなんて壊れている』と。

いや、違う。

ここで終わらせちゃいけない。

僕には、まだ武器がある。

これまで彼女の世界を彩ってきた、僕の「嘘」という武器が。

僕は彼女の隣に立ち、壊れたカメラを構えた。

レンズキャップを外し、ファインダーを覗く。

そこには何も映らない。

ただの暗闇だ。

でも、僕には見える。

彼女に見せたかった、最高の世界が。

「あかり、見て」

僕は静かに言った。

「え?」

「雨は上がったよ。雲が割れて、光が射し込んでる」

「……嘘よ。雨音が聞こえるもの」

「これは雨音じゃない。風が木々を揺らす音だ。見てごらん、空を」

僕は、人生で最大の嘘をつき始めた。

第四章 決して鳴らないシャッター

「西の空から、雲が溶けていく。最初は深い群青色。それが徐々に薄まって、透明な水色に変わっていく」

僕の声だけが、静まり返った美術室に響く。

「太陽が水平線に沈みかけてる。海面が、溶けた金貨みたいに輝いてるよ。その光が反射して、教室の中まで金色に染めてる」

あかりは窓の方を向いたまま、動かない。

「そして、空の真ん中。そこにあるんだ。『幻の青』が」

僕は言葉に熱を込める。

網膜に焼き付いた記憶と、想像力の全てを動員して。

「それは、夜の闇よりも深く、朝の光よりも鮮烈な青だ。サファイアを砕いて空に撒き散らしたような、痛いほどの青。その中に、一筋の飛行機雲がピンク色に染まって横切ってる」

「……綺麗?」

彼女の声が震えた。

「ああ、綺麗だ。息が止まるくらい。世界中の悲しみを全部洗い流してくれるような、そんな青だ」

僕はカメラを構え直す。

人差し指をシャッターボタンにかける。

「あかり、笑って。この青をバックに、君を撮りたい」

彼女はゆっくりとこちらを向いた。

その瞳からは涙が溢れ、頬を伝っている。

でも、唇は弧を描いていた。

最高に美しい笑顔だった。

「撮るよ」

僕は息を止める。

ファインダーの中の彼女は、ぼやけているけれど、誰よりも輝いて見えた。

指に力を込める。

カチッ。

……音はしなかった。

壊れたバネが、虚しく沈んだ感触だけが指に残る。

シャッター音のない世界。

静寂。

外では相変わらず激しい雨が降っている。

僕はカメラを下ろした。

終わった。

すべてが。

「……湊くん」

彼女が口を開いた。

「写真、撮れた?」

僕は俯いたまま、絞り出すように答える。

「ああ……撮れたよ。最高の、一枚が」

沈黙が流れた。

彼女の足音が近づいてくる。

そして、温かい手が僕の頬に触れた。

顔を上げると、彼女は泣きながら、困ったように笑っていた。

「湊くんって、本当に嘘つきだね」

心臓が止まるかと思った。

「シャッター音、しなかったよ?」

バレていた。

最初から?

それとも今?

「ごめん……僕は……」

言い訳をしようとした僕の唇を、彼女の人差し指が塞いだ。

「知ってたよ。最初から」

「え……」

「だって、湊くんがカメラを構える時、一度も『カシャ』って言わなかったもの。いつも、湊くんの声だけが聞こえてた」

彼女は僕の首にかかったカメラに手を添えた。

「でもね、それでよかったの」

「……どうして」

「私が見たかったのは、カメラが切り取る景色じゃなかったから」

彼女は僕の目を見つめる。

その瞳は、もうほとんど見えていないはずなのに、僕の奥底を射抜いていた。

「湊くんの言葉で描かれる世界が、どんな写真よりも綺麗だった。湊くんの声が紡ぐ色が、私にとっての真実だったの」

「あかり……」

「今日の『幻の青』、すごく綺麗だったよ。今まで見たどんな空よりも」

彼女は涙を拭い、満面の笑みを浮かべた。

「ありがとう、湊くん。私に、最高の景色を見せてくれて」

その瞬間、僕の中で何かが崩れ落ちた。

壊れていたのはカメラじゃない。

現実と向き合うのを恐れていた、僕の心だったんだ。

僕は彼女を抱きしめた。

雨音にかき消されるように、僕たちは泣いた。

最終章 青を現像する

あれから三年が経った。

僕は大学の写真学科に通っている。

手には、新しく買った一眼レフ。

そして隣には、白杖をつく彼女がいる。

「ねえ、湊。今日はどんな空?」

海沿いの堤防で、あかりが尋ねる。

彼女の視力は完全に失われた。

でも、彼女の世界は色褪せていない。

僕が隣にいる限り。

「今日はね、突き抜けるようなセルリアンブルーだ。入道雲が山脈みたいに連なってる」

僕はファインダーを覗く。

彼女の横顔と、その向こうに広がる夏の空。

シャッターを切る。

カシャ。

乾いた音が、青空に吸い込まれていく。

「いい音」

彼女が嬉しそうに笑う。

僕は、現像された写真を見ることはない彼女のために、今日も言葉を紡ぐ。

嘘のない、真実の愛を込めて。

「ああ、最高の青だよ。君に見せたいくらいに」

「ふふ、見えてるよ。湊の声で、全部」

ファインダー越しの世界は、今日も美しく、残酷で、そして愛おしい。

僕たちは、言葉と音で、終わらない青春を現像し続けている。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 湊(みなと): 事なかれ主義の嘘つき。壊れたカメラは「現実を直視できない自分」の隠喩。しかし、その嘘(語り)には、対象を美しく再構築する詩的な才能が宿っている。
  • 篠原あかり: 視力を失う運命にある少女。悲劇のヒロインであることを拒み、湊の嘘を「優しさ」として受け入れ、共犯関係を楽しむ強さを持つ。彼女にとっての「真実」は、視覚情報ではなく、湊の感情そのものだった。

【考察】

  • 壊れたカメラの意味: 機能しないカメラは、物理的な記録(客観的事実)の無力さを象徴している。一方で、湊の言葉(主観的な嘘)が、あかりにとっては物理的な視覚を超えた「真実」となる逆説を描いている。
  • 「幻の青」の正体: 実際に空に現れる現象としての青と、湊があかりの心の中に現像した「言葉による青」。物語の結末において、物理的な青を見逃したことは悲劇ではなく、二人の心象風景が重なり合った瞬間の尊さを強調するための装置として機能している。
  • 嘘と創作の境界線: 湊の行為は最初は「逃げの嘘」だったが、あかりを喜ばせたいという動機が混ざることで「創作(アート)」へと昇華された。小説家や芸術家が、フィクションという「嘘」を通じて真実を語ることへのメタファーとしても読める。
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