第一章 ゴースト・スイーパー
雨の音が、ノイズキャンセリングのヘッドホンを突き抜けてくる。
深夜二時。東京の谷間にある雑居ビルの一室。
俺、真壁ケンジは、冷めきった缶コーヒーをすすり、エンターキーを叩いた。
画面上のプログレスバーが右端に達し、「削除完了」のポップアップが浮かぶ。
これでまた一人、この世から「完全」に死んだ。
「デジタル遺品整理士」。
それが俺の肩書きだ。
故人がクラウドやハードディスクに残した「見られたくないもの」を、遺族に代わって闇に葬る。
愛人とのLINE、隠し口座、偏った思想の匿名掲示板への書き込み。
人間は二度死ぬというが、俺に言わせれば三度だ。
肉体の死、人々の記憶からの消滅、そしてデジタルタトゥーの浄化。
俺は、その三度目の死を執行する処刑人だ。
「……シケた仕事だ」
独り言がモニターの光に吸い込まれる。
その時、チャットツールが通知音を鳴らした。
『新規依頼:即時対応希望』
添付されたプロファイルを見て、俺は思わず椅子を軋ませた。
依頼対象者:早乙女ソウイチ。
つい先日、遊説中に心不全で急逝した、あの「清廉潔白」で有名な市議会議員だ。
依頼人は、その一人娘。
俺はタバコに火をつけ、モニターを睨んだ。
聖人君子と呼ばれた男が、墓場まで持っていけない秘密とは何か。
俺の指先が、微かに震える。
この仕事をして十年。直感が告げている。
これは、ただの「ゴミ箱」漁りでは終わらない。
第二章 聖人の裏側
「父のデータ、すべてを消してください」
早乙女リナは、喪服のまま事務所に現れた。
整った顔立ちだが、目の下には濃いクマがあり、唇は乾燥してひび割れている。
スマホ世代特有の、画面を見つめることに慣れすぎた瞳。
「すべて、ですか? 写真や思い出の動画も?」
「全部です。クラウド、PC、スマホ。1バイトたりとも残さないで」
彼女の声には、悲しみよりも、憎しみに近い冷たさがあった。
「父は……外面だけがいい人でした。家族を顧みず、いつも市民のため、社会のため。家では無口で、何を考えているのか分からない、ただの同居人」
リナはバッグから、厳重にロックされたノートPCを取り出した。
「世間では聖人扱いされてますけど、裏では何をしてたか。汚職の証拠か、女か……とにかく、そんなものが出てきて私の人生に泥を塗られるのは御免です」
「中身を確認せず、物理破壊もできますが」
「いいえ」
彼女は即答した。
「あなたが中身を見て、リスト化してください。父がどれだけ嘘つきだったか、最後に確認してやりたいの」
矛盾している。
消したい。けれど、知りたい。
それが遺族という厄介な生き物だ。
「承知しました。報酬は特急料金込みで五十万。秘密保持契約は絶対です」
リナが出ていくと、俺はすぐに早乙女ソウイチのPCにケーブルを繋いだ。
解析ツールが走る。
パスワードは驚くほど単純だった。
『rina1014』。
娘の名前と、誕生日。
「……ベタだな」
フォルダが開く。
俺は、拍子抜けした。
ない。
裏帳簿もない。愛人とのメールもない。怪しいサイトの閲覧履歴すらない。
あるのは、政策の草案と、支援者への丁寧すぎる返信メールの控えだけ。
「本物の聖人だったってわけか?」
だとしたら、娘のあの憎悪はどこから来る?
俺はさらに深層へ潜る。
表層のデータではなく、削除されたキャッシュ、予測変換のログ、そして隠しパーティション。
俺の「ゴースト・アイ」が、違和感を捉えた。
デスクトップの何もない空間。
そこに、透明なアイコンが置かれている。
ファイル名は空白。
クリックすると、無機質なテキストファイルが大量に並んでいた。
日付は、ここ三年に集中している。
一番古いファイルを開く。
『今日は、リナの誕生日を忘れた』
たった一行。
次のファイル。
『駅前の演説で、言葉が出なくなった。マイクを持つ手が震えた』
『漢字が書けない。秘書に怪しまれたかもしれない』
俺はスクロールする手を止めた。
これは、汚職の記録じゃない。
崩壊の記録だ。
第三章 忘却との闘争
早乙女ソウイチは、若年性アルツハイマーだった。
テキストファイルは、彼の日記だった。
政治家としての生命線である「言葉」と「記憶」が、砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく恐怖。
それを誰にも言えず、たった一人、PCの画面に向かって吐き出していたのだ。
『リナが怒っている。私が約束を破ったからだ。だが、何の約束だったか、どうしても思い出せない』
『リナの顔を見ると、胸が痛む。名前が出てこない時がある。私は、娘を忘れてしまうのか』
『辞職すべきだ。だが、今私が辞めれば、進めている法案が廃案になる。あの子たちのための奨学金制度だけは、通さねばならない』
リナが言っていた「家では無口」な理由。
それは、話したくなかったからではない。
話せば、ボロが出るからだ。
壊れていく自分を悟られまいと、彼は沈黙の仮面を被り、必死に「立派な父親」を演じ続けていた。
削除済みフォルダから、未送信のメールが復元された。
宛先はすべて、リナ。
件名:『リナへ』
本文:『おめでとう』
件名:『リナへ』
本文:『ごめん』
件名:『リナへ』
本文:『愛している』
送信ボタンを押せなかったのか、あるいは押し方さえ忘れてしまったのか。
無数の『愛している』が、デジタルのゴミ箱の中で、誰にも届かずに腐りかけていた。
俺は天井を仰いだ。
蛍光灯が滲んで見える。
「……やってらんねえな」
俺の仕事は、これを消すことだ。
依頼人の要望通り、1バイトたりとも残さず、完全消去する。
それがプロだ。
そうすれば、リナは「父は冷徹な人間だった」と信じたまま、これからの人生を歩める。
憎しみは、時に人を支える杖になる。
真実を知ることが、救いになるとは限らない。
マウスに手を置く。
カーソルを「全選択」に合わせる。
右クリック。
「削除」の項目が、赤く点滅しているように見えた。
第四章 ラスト・ログイン
翌日、リナが再び事務所にやってきた。
昨日よりもさらにやつれている。
「終わりましたか」
事務的な声。
俺は、作業完了報告書の代わりに、一本のUSBメモリを机に置いた。
「契約違反をしました」
「え?」
リナの眉がピクリと動く。
「データは消していません。むしろ、復元しました」
「ふざけないで! 誰がそんなことを頼んだの!?」
彼女が激昂して立ち上がる。
「父の汚らわしい秘密なんて、見たくもない!」
「汚らわしい秘密なんて、一つもなかったよ」
俺は静かに言った。
「あんたの父親は、嘘つきだった。それは認める。だが、あんたが思っているような嘘じゃない」
俺はUSBを指先で弾き、彼女の目の前へ滑らせる。
「これを持って帰って、中を見ろ。それでも消したいなら、自分でやれ。俺にはできない」
「……どういうこと?」
「あんたのお父さんは、最後まで闘ってたんだよ。あんたを忘れないために」
リナは不審げに俺を睨み、ひったくるようにUSBを掴むと、足早に出て行った。
ドアが閉まる音が、重く響く。
これでいい。
報酬はもらえないだろうし、悪評が立つかもしれない。
だが、俺が見たあの大量の『愛している』を、デリートキー一つで無かったことにするのは、俺の美学に反する。
俺は再び、冷めたコーヒーを口にした。
苦味が、いつもより少しだけマシに感じた。
第五章 消去不能なもの
三日後。
俺の銀行口座に、規定の倍額が振り込まれていた。
依頼人名は「早乙女リナ」。
そして、一通のメールが届いた。
『父のPCは、私が自分で初期化しました』
文面はそれだけ。
だが、添付ファイルがあった。
それは、一枚の写真データ。
病室らしき場所で、痩せ細ったソウイチの手を、リナが両手で包み込んでいる。
ソウイチは眠っているようだが、その表情は穏やかだ。
おそらく、亡くなる直前の写真ではない。
リナがUSBを見て、記憶の中の父親と和解した後に、心の中で撮り直した情景なのだろう。
俺はモニターの前で、小さく息を吐いた。
デジタルデータは、0と1の羅列に過ぎない。
電源を落とせば消える幻だ。
だが、そこに宿る想いだけは、どんな高度なクリーニングソフトでも消去できない。
雨は上がっていた。
窓の外、東京の街が濡れたアスファルトに反射して、宝石箱のように輝いている。
俺は「削除完了」のポップアップを閉じ、PCの電源を落とした。
今夜は、久しぶりに酒でも飲むか。
街の雑踏へ踏み出す俺の足取りは、来た時よりも、少しだけ軽かった。