第一章 インクの嘆きと始まりの音
柏木奏(かしわぎ かなで)の日常は、色のない水で満たされた水槽のようだった。かつてジャーナリストを夢見た情熱は、就職活動の連敗と厳しい現実の前に干上がり、今ではウェブメディアの片隅で、当たり障りのないグルメ記事やライフハック情報を量産するだけの毎日。クリック数を稼ぐための刺激的な見出しと、中身のない本文。その繰り返しが、奏の心を静かに蝕んでいた。彼女は、自分自身の言葉を失くしてしまっていた。
その異変が始まったのは、初夏の気配が漂う昼下がりだった。締め切りから逃れるようにして迷い込んだ公園のベンチで、奏は奇妙な「声」を聞いた。それは人の言葉ではない。囁くような、嘆くような、か細い響き。『乾いていく……書きたかった、あの言葉を……届けたかった……』。
音源を探して視線を彷徨わせると、足元に古びた一本の万年筆が落ちていた。濃紺の軸に、銀色のクリップ。拾い上げると、声は脳内に直接響いてくるようだった。『インクが、もうないんだ。彼女への、最後の手紙だったのに……』。
ぞわりと背筋を悪寒が走る。気のせいだ、疲れているんだ。奏は万年筆をベンチに置き、逃げるようにその場を去ろうとした。だが、声は懇願するように彼女に縋りつく。持ち主であろう老人が、公園の出口で途方に暮れたように何かを探しているのが見えた。
何かに突き動かされるように、奏は万年筆を握りしめて老人の元へ駆け寄った。
「あの、これを探していませんか?」
老人は振り返り、奏の手の中の万年筆を見ると、皺だらけの顔をくしゃりと歪めた。
「ああ、ああ……よかった。亡くなった妻への手紙を、ようやく書こうと決心した矢先だったんだ。これを失くしたら、私はきっと、言い訳を見つけてまた書くのをやめてしまっただろう」
老人の震える指が、万年筆を優しく受け取る。その瞬間、奏の耳元で、万年筆の安堵したような、微かなため息が聞こえた気がした。
帰り道、奏は自分の掌をじっと見つめた。あれは幻聴ではなかった。自分には、失くしたモノの声が聞こえる。その事実は、色のなかった彼女の世界に、理解不能なインクを一滴、ぽとりと落とした。それは混乱の色であり、同時に、ほんのわずかな疼きを伴う始まりの色でもあった。
第二章 見つかるもの、見えないもの
自分の奇妙な能力を持て余していた奏は、やがてそれを、半ばゲームのように使い始めた。「ロスト・アンド・ファウンド・エージェント」と名乗り、SNSでささやかな失くし物探しの依頼を受け始めたのだ。
『どこかに落とした婚約指輪。彼との、約束の証なんです』。指輪の声は、持ち主の不安と共鳴し、劇場シートの隙間で「ここにいる」と震えていた。
『息子が宝物にしていた、傷だらけのミニカー。ごめんね、と謝りたい』。ミニカーの声は、公園の砂場の底から「まだ遊びたいよ」と叫んでいた。
奏は、モノの声に導かれるままに、失われた欠片たちを元の場所へと返していった。依頼人からの感謝の言葉と少額の報酬は、無味乾燥だった彼女の日常に、ささやかな潤いを与えた。モノたちは、ただ自身の在り処を告げるだけではない。持ち主の指紋の温もり、共に過ごした時間の記憶、注がれた愛情の濃淡まで、雄弁に語りかけてくる。奏は、まるで短編小説を読むように、他人の人生の断片に触れていた。いつしか彼女は、キーボードを叩く指先よりも、失くし物を探す足先に、確かな手応えを感じるようになっていた。
そんなある日、一件の奇妙な依頼が舞い込む。依頼人は若い母親で、五歳になる息子の赤い長靴の片方を探してほしいという。近所の再開発工事現場の近くで、鬼ごっこをしていて失くしたらしい。
奏は現場へ向かった。しかし、聞こえてくる声は、これまでとはまるで違っていた。
『さむい……くらい……こわい……』
声は弱々しく、恐怖に震えている。具体的な場所を示す言葉はない。ただ、圧倒的な闇と冷たさだけが、ノイズのように奏の脳を揺さぶる。奏はフェンスの周りを何時間も歩き、耳を澄ませたが、長靴が囁くのは絶望的な感覚だけだった。日が暮れ、冷たい雨が降り始める。結局、長靴は見つからなかった。
「申し訳ありません、見つけられませんでした」
電話越しに謝罪すると、母親は「いいんです、新しいのを買いますから」とあっさり言った。子供にとって、おもちゃの代わりはいくらでもある。だが、奏の心には、初めての失敗が、黒いインクの染みのようにじわりと広がっていた。あの長靴が訴えていた、尋常ではない冷たさと暗闇の感触。それは、ただの土の中に埋まっているモノの声とは思えなかった。
第三章 赤い長靴のサイレン
日常は戻ってきた。奏は再び、味のしない言葉をウェブ上に並べる作業に没頭しようとした。だが、静寂が訪れるたびに、あの赤い長靴の声が耳の奥で蘇る。『さむい……くらい……息が、できない……』。それはまるで、助けを求めるサイレンのようだった。
数週間後、奏がリビングで惰性でつけていたテレビのニュースが、彼女の動きを止めた。例の再開発工事現場で、数ヶ月前から行方不明になっていた外国人労働者の遺体が発見された、とアナウンサーが淡々と告げている。事故として処理されかけていたが、不審な点が多く、警察は事件として再捜査を開始したという。
画面に映し出された工事現場の空撮映像。それは、奏が長靴を探し回った場所だった。
その瞬間、雷に打たれたように、二つの事実が奏の中で繋がった。
あの赤い長靴。あの声。
あれは、ただのモノの声ではなかった。
長靴の持ち主だった子供が、父親を失った悲しみと恐怖。そして、あるいは――社会のシステムから「失くされ」、誰にも見つけてもらえず、冷たい土の中で声を殺した、あの労働者自身の声の断片だったのではないか。
奏は、自分の能力の本当の意味を悟った。自分は、単に失くし物を探していたのではなかった。この社会から、意図的に、あるいは無慈悲に「失くされてしまった」人々の、声なき声を聞いていたのだ。貧困によって失われた夢。過労によって失われた未来。差別によって失われた尊厳。街に溢れるモノたちは、そうした持ち主たちの無念を吸い込んで、悲鳴を上げていたのだ。
全身から血の気が引いていく。これはもう、個人の感傷やゲームではない。危険な真実の領域だ。
途端に、かつての挫折が、生々しい痛みとなって蘇る。ジャーナリストを目指していた学生時代、ある企業の不正を告発しようとして、逆に力でねじ伏せられ、業界の片隅にさえ居場所を失った苦い記憶。あの時の無力感と恐怖が、奏の喉を締め付けた。もう関わりたくない。傷つきたくない。見なかったことにしよう。今の自分には、何かを暴き、何かと戦う力なんてない。
奏は両手で耳を塞いだ。しかし、赤い長靴のサイレンは、頭蓋の内側で、より一層激しく鳴り響いていた。
第四章 声を紡ぐ人
何日も葛藤が続いた。眠れない夜、奏は自分の部屋を見渡した。本棚の隅で埃をかぶった、ジャーナリズム論の専門書。使い古された取材ノート。それらは、夢に破れた自分が「失くした」と思っていたものたちだ。だが、それらから声は聞こえない。失くしたのではない。自分が、目を背けていただけなのだ。
奏は、一つの決意を固めた。
彼女が失くしていたのは、ジャーナリストという肩書きや夢だけではなかった。不正義を前にした時の怒り。誰かの痛みに寄り添おうとする心。そして何より、真実を伝えたいという「書くことへの渇望」そのものを、自ら手放してしまっていたのだ。
彼女はパソコンを開き、かつてゼミで世話になった、今はフリーのジャーナリストとして活動している先輩、久保にメールを送った。自分の能力のことは伏せ、「再開発現場の警備員の知人から聞いた、不確かな情報だが」という前置きで、長靴の声から推測される遺体の発見現場の詳細と、事件の背景に潜む企業の存在を示唆する内容を、慎重に言葉を選んで綴った。送信ボタンを押す指が、微かに震えた。
数日後、久保の記事がネットメディアで公開され、大きな反響を呼んだ。奏が提供した情報が決定打となり、警察の捜査は大きく進展。企業の組織的な隠蔽工作が次々と暴かれ、事件は単なる事故ではなく、企業の安全管理の怠慢が生んだ悲劇として、社会の注目を浴びることになった。
奏は、そのニュースを、部屋の片隅で静かに見つめていた。彼女の名前がそこに出ることはない。称賛も、脚光も、彼女にはない。だが、不思議と心は満たされていた。自分の言葉が、誰にも届かないと思っていた言葉が、確かに世界を少しだけ動かしたのだ。
その日を境に、奏に聞こえる「声」は、より鮮明に、より多様になった。満員電車で歪む革靴が漏らす、過重労働の悲鳴。ネットカフェのブースに忘れられたUSBメモリが語る、貧困の中で描かれた未完の漫画の夢。街に溢れる「失くされたもの」たちの声は、この社会が抱える無数の歪みと痛みの縮図だった。
それは時に奏の心を苛み、重くのしかかった。しかし、もう彼女は耳を塞ごうとは思わなかった。
奏は、真っ白な新規ドキュメントを開く。カーソルが、静かに点滅している。
彼女はジャーナリストには戻らないだろう。だが、書くことはできる。誰にも知られず、誰にも届かないかもしれない、これらの声なき声を、物語として紡ぐことはできる。失くされた者たちの代弁者としてではなく、ただ、その声に耳を傾け、記録する一人の人間として。
奏はゆっくりと指を動かし、最初の言葉を打ち込み始めた。それは、社会を告発する記事ではない。誰かの人生の、失われた一片を拾い集める、彼女だけの静かな戦いの始まりを告げる、産声のような一文だった。